花の二・雪降る季節
池底の城で、ヒスイとコハクは冬を迎えた。
窓の外で小魚たちは凍るように眠っている。池の中に満ちる水は、身を切るほどに冷たいのだろう。
『こういう日にはおうちが一番……』
綿入れを着て炬燵で背を丸めるヒスイに、コハクが楽しそうに笑う。
『あは、何だかヒスイがおじいちゃんみたい!』
『ん? 我は爺だぞ? 何せこの池底で、幾千年は生きておる』
ことのほか年よりじみた口ぶりに、コハクがきゃらきゃら無邪気に笑う。つられて笑うヒスイの肩を、後ろから誰かの指がつっついた。
『こらこら、そうやって気持ちから年をとるのはいけないぞ?』
ふり向いたヒスイが大げさに眉をひそめてみせる。背後に悪友のザクロ嬢が立っていたのだ。
『げ。いつからいたのだお前!』
『たった今この城に参上しました~っ! ていうかヒスイ「げ」って何なのよ失礼な!』
『いらっしゃいザクロさん! さっそくお茶を淹れてきますね!』
『ああコハクちゃん、ヒスイと違って可愛いわ~! あのねコハクちゃん、出来ればお茶道具一式持ってきてくれる?』
ザクロの言葉にコハクがちょっと首をかしげる。けげんそうに眉をひそめ、ヒスイが友に問いかけた。
『お前、また何を企んでいる?』
『企んでなんかいないわよぉ! あのね、今鏡池のほとりに雪でかまくら作ってきたから、そこでみんなでお茶しようって訳!』
『うぇえ!? ……めんどくさい……寒い……』
『あらヒスイ、お嫁さんのこんな表情見てもその台詞が言えるかしら?』
ザクロがコハクのほうを示し、自信たっぷりに言い放つ。
コハクは黙って夫の顔を見つめている。その琥珀色の瞳には、特大の文字で『かまくらでお茶してみたい』と書いてあった。
ヒスイが大きく息をつき、綿入れの肩を揺らして立ち上がる。
『雪か……』
うんざりとした口ぶりで言いながら、それでも微笑してコハクのほうへ手を伸ばす。コハクはヒスイと手をつないで『にっこり』と音の出そうな笑みを浮かべた。
* * *
『寒いさむいさむいさむい寒いさむいさむい寒い寒い』
『うるさいわねヒスイ!「心頭滅却すれば火もまた涼し」でしょ!!』
『涼しくしてどうする!!』
『だいたいね、かまくらの中は外よりあったかいでしょ?』
『城の中よりは断然寒い!!』
ぎゃいぎゃいやり合う二匹にはさまれ、コハクがちんまりお茶をすする。
(仲が良いなぁ……)
心中でぽつりつぶやいて、コハクはふっとかねての疑問を口にした。
『あの、ふたりは付き合ったりしたことあるの?』
『付き合うぅうう!!?』
夫のヒスイに食いつきそうに訊き返され、コハクがひるんだ顔をする。
『え、そんなに驚くこと……? だってザクロさん、性格も良いしとっても綺麗だし……』
『あら~ん、ありがとう~!』
『……性格はどうか分からんが。こいつのほうはどうか知らんが、我は男とくっつく趣味はない』
一瞬空気が張りつめる。張りつめさした本蛇のコハクが、二三拍間を置いて大声を上げた。
『―――っえぇええぇえっっ!!? 男!? ザクロさんて男のひとっ!!?』
『お? お前は知らんだったか?』
『分かんないよおっ!! だってこんなにたおやかに綺麗なひとなのにっ!!』
『あら嬉しい~! ありがとうコハクちゃん! でもね、これ見て?』
にこにこしながらザクロが着物の胸もとをはだけ、中のものを引きずり出す。肉まんの巨大版みたいな『乳袋』がずるんずるんと飛び出した。
『あー、これ外すとえらい寒いわ。知らないうちに防寒具にもなってたのね~』
『我には! それがないから! 寒いのだ!! 帰る! もう帰るっ!!』
『はいはい、じゃあわたしも香勝池に戻るとするわ。コハクちゃん、お茶ありがとう! またねっ!』
ザクロはぱきぱきとあいさつし、次の瞬間かき消えた。何ごとかぶつぶつ言いながら、ヒスイがコハクの手を握る。刹那、二匹は池底の城に戻っていた。
『……眠い……』
ぼんやりとつぶやいたヒスイが、絨毯の上に猫のように丸くなる。うとうとし出すヒスイの頬を、コハクが小さな手で撫ぜた。
『……ごめんねヒスイ、疲れちゃった?』
『……疲れはせぬが。体がひやいと眠気がさす……コハク、お前も眠くなってはおらぬか?』
そう言われて、コハクはやっと自分の眠気に気がついた。まぶたが重い。さらさらさらと、身のうちに今まで感じたことのない眠気がせり上がってゆく。
『……冬眠だ。文旦の屋敷では不用意に寝る気もせなんだし……お前と一緒になって初めての冬も、昂奮していてせなんだが……そろそろ眠る季節のようだ……』
うとうととつぶやいた翡翠の蛇は、ふっと苦笑してささやいた。
『……ザクロめ、寝ない我らが気にかかっていたらしい。自分も寝ずに、蛇体をかまくらで寒気にさらして、我を眠らせに来たようだ……』
ヒスイはゆるゆると立ち上がり、優しくコハクの手を引いた。
『眠ろう、コハク。春の来るまで我と一緒に眠ってくれ』
うっとりとうなずきかけて、コハクがふっと迷いを見せる。そのそぶりに気がついて、ヒスイはとろりととろけた口調で問うた。
『……どうした? 何か気にかかることが……』
『……恐い』
『「恐い」? 何がだ?』
『……眠って覚めたら、みんな夢になりそうで……』
どこか泣きそうにつぶやくコハクに、ヒスイが青い目を見はる。それからゆるりと微笑ってみせて、妻のひたいになぐさむように口づけた。
『……大丈夫、夢ではない。春の来てお前が目を覚ますとき、すぐとなりで我も目覚める。……それとも、冬眠で長く夢見ることすら不安か? 悪夢を見そうで恐いのか……?』
黙ってうなずくコハクに微笑み、ヒスイは細い指で妻の幼い頬を撫ぜる。柔くコハクを抱きしめて、耳もとで甘くささやいた。
『蛇の力を軽く見るな。我とお前が共に望めば、夢でまみえることなど容易い。夢で逢おう、愛しいコハク……』
ふわっと大きなあくびをしてから、ヒスイがゆるりとコハクの体を抱き上げた。
『さあさ、寝ようぞ愛しいコハク……』
『……ザクロさんも、ちゃんと寝てるかな?』
『ああ、寝ているとも。あいつは寝起きが悪いから、春に二匹で起こしにいこう。蹴られぬように気をつけんとな……』
生あくびを噛み殺しながらの夫の言葉に、コハクもようやくくすくす笑う。
大きめの寝台に二匹で身を横たえて、コハクはすがりつくようにヒスイの柳腰に抱きついた。
『……おやすみ』
『おやすみ……』
大丈夫。今はもう何も恐くない。
春が来るのがこんなに待ち遠しいなんて、いったい何年ぶりだろう。
胸のうちでつぶやきながら、コハクはとろとろ眠りに落ちた。柔らかい羽毛布団をふわふわ感じるまぶたの裏で、ヒスイの姿を遠く見つけた。
もうはや春の陽気の夢の中、愛しい夫が手を振りながら近づいてくる。とっぷりと眠りに落ちたコハクの目から、嬉し涙がしたたった。
* * *
池の外ではしんしんと、白雪が降り続いている。
ようやく幸せになれた二匹を、穏やかに祝福するように。