序章・邂逅《かいこう》
それはある星のある時代。
『中津龍国』という国の、かたすみで起きた物語。
* * *
ここは大国、中津龍国。この大きな国のとある大きなお屋敷に、コハクという名の少女がいた。
彼女はこのお屋敷で『飼われていた』。いや、『飼い殺されていた』というほうが当たっているかもしれない。……もう何年も昔、この屋敷に来たときから純粋な女奴隷の身分。それこそ屋敷で飼われている狆めらのほうが、コハクの万倍も扱いが良い。
そんなコハクはぼろぼろの身なりながら、とても美しい目をしていた。まつ毛は自前にくるりと長く、大きな瞳はそれこそ宝石の琥珀のような色だった。そも瞳が琥珀の色だから、そんな名前をつけられたらしい。……だが少女がその名で呼ばれることは、ここへ来てからは全くなかった。
「なあ」
「おい、そこの女奴隷」
呼びかけなんてそれで済んでしまうから、コハクはとうに自分の名前を忘れていた。だから『コハク』と荒い声で呼ばれたときも、自分のこととは思えなかった。
「おいコハク。……コハク! うおらぁ、そこの女奴隷!!」
「……っは、はいっ!! 何のご用でしょう!?」
『女奴隷』という言葉に反応し、コハクがあわてて返事をする。そんな少女に、絹の着物の使用人は聞こえよがしに舌打ちした。
「てめぇの名前も分からねえのか。こんな女ガキにつとまるのかねえ」
使用人が大げさな身ぶりで肩をすくめる。脂ぎった団子っ鼻からニラの臭いの息を吐き、水の入った金魚鉢をつき出した。その手つきには愛情の欠片も感じられない。
「ご主人様から言伝てだ。『屋敷で一番年下で、一番役立たん女奴隷が、こいつの面倒をみろ』ってよ」
鉢を受けとったコハクが水の中をのぞきこむ。透き通る水の中には、一匹の小さな蛇が泳いでいた。もともと生き物の好きな少女は、目を輝かせて蛇を見つめた。
(なんて綺麗な子なんだろう! 透き通るような翠色、生きた宝石みたいだわ!)
およそ意外な反応に、使用人がブラシのようなまゆをひそめる。
「……けっ、蛇を見ても恐がりゃしねえ。気味の悪い女ガキだな!」
コハクはふっと金魚鉢から顔を上げ、当然の疑問を口にした。
「あの、この子はどういう子なんですか? どうしてお屋敷に来ることに……?」
「『この子』ぉ? 蛇にこの子、だとよ! んっとに気味悪いガキだなぁ!!」
『おぞ気のたつ』と言いたげに身を震わせて、男は言葉を吐き捨てた。
「いちいち訳なんぞ訊くんじゃねぇよ! お前はただおとなしくそいつの面倒みてりゃ良いんだ。万が一殺しでもしたら、お前の首が飛ぶからな!!」
唾を吐くように言い捨てて、使用人が廊下の向こうへ去ってゆく。コハクはなかば呆然と肥えた背中を見送った。
それからふっと我に返り、手の中の金魚鉢をのぞきこむ。蛇は翠のリボンのように、ひらひらと水を泳いでいる。
(……可愛い)
思わず頬をゆるめたコハクが、鉢を優しく抱きしめる。
「よろしく、蛇さん。綺麗な蛇さん。あたしはコハク。石の琥珀よ」
コハク。――琥珀。
さっきまで忘れ去っていたおのれの名前が、耳に甘い。懐かしい響きに、少女は思わずほんのりはにかんだ。
(そうだ、あたしには名前がある。
宝石の琥珀という、すてきな名前のあることを、この子が思い出させてくれた)
「ありがと、蛇さん」
ぽつりとお礼をつぶやく少女を、蛇が青い目をして見つめた。
「じゃあね、蛇さん。あなたの名前は……」
思わず口にしようとして、コハクはあわてて口をつぐんだ。
「……って、だめよ、だめだめ! あなたにだってちゃんと名があるはずだもの。あたしが勝手に名づけるなんて、そんなことしちゃいけないわ!」
『生き物には生き物どうし通じる言葉で、それぞれちゃんと名前がある』……夢見がちな少女のコハクは、頭からそう信じていた。
(『翡翠』が良いと、思ったけれど)
おのれの名と綺麗に対になるような、翠色の宝石の名前。その言の葉を飲みこんで、コハクは蛇に笑いかけた。
「今日からよろしく。綺麗な蛇さん!」
蛇はあいさつに応えるように、くるくると弧を描いて水に踊った。