7.~わたしは日高東磨を殺してしまう~
遠くで金属の擦れる甲高い音が聞こえる、モノクロの世界で人々が走り回っている。耳がおかしいのか音が遠い。目がおかしいのか視界が定まらない。頭が、痛い…
ほんの数秒前に目の前で起こった出来事が彼には理解出来ず脳は拒絶反応を起こしていた。
一瞬目が合った気がした彼女は…笑っているように見えた。
大山の山頂はすっかり見慣れた雪化粧で今は人々が近づくのを拒んでいる。それでも中にはもの好きな輩が居るらしく毎年のように事故が後を絶たない。稀に死亡事故も発生するとニュースで聞く。
麓のスキー場は今年の積雪に満足しているようで夜になるとリフトの連なった光が市内からでも見てとれた。
短い冬休みが終わり彼らは最短で三年間しか味わえない高校生活に戻っていた。ただ、それはとても貴重な時間なのだと既に気づいて真摯に向き合っている高校生はなかなか居ないだろう。
彼だってそうだ。自慢の彼女が居て、友人にも恵まれ不自由も不満もない学生生活を過ごしていると言えばそうかもしれない。が、本質的には今日という日を当たり前の存在だとし当然のように明日が来るのだと思い込み過ごしている、いやそれ以前に思い込んですらいない。寝ている時でも呼吸をするような無意識の認識だ。
横を歩く彼女にしたって一年前まではそうだったかもしれない。だが今は決してそんな風には思えない、この一秒一秒がかけがえのない大切な時間なのだと胸に刻むように一歩一歩前へ進む。
そう言えば聞こえはいいが結局、人は自身がその逃れようがない状況に直面しなければ危機感も緊張感も抱けないのだろう。
「いきなりテストとかないよなー、泣きそになったし」
「あら、普段から備えていれば全く問題ないわよ?」
東磨は愚痴る相手を間違えたと頭を垂れながらも彼女から見えない角度で笑みを浮かべる。内心は尊敬の念で埋め尽くされていた。
今回のような小テストは反映されないが学期毎の中間、期末テストは特進と普通科でそれぞれ総合得点の上位三十名までが発表される。彼女は現在特進クラスで一、二学期四連覇中の絶対女王なのだ。因みに彼は未だ掲載されたことはない。
「しかし朔来は本当に凄いよな。見えないところでどれだけ努力してんだよ」
「…ありがとう」
彼女が前に一歩飛び出し振り返った。
「ねっ、次の休みどっか行かない?デートしよう、今年初デート!」
照れ隠しをするように笑って見せ髪を耳にかけた。その仕草とは裏腹に断られるわけがないと絶対の自信があるようにも見えるのが彼女の不思議ところだ。
日曜日、午後十二時半。
二人はいつものファストフード店で注文を済ませたところだった。今日の約束時間は午後ー時だったが最近は彼女も突っ込むこともなく自然とそれが当たり前になっていた。
普段利用するのは平日の放課後が多いためかいつも使っているテーブルを自分たちで勝手に指定席みたいに思っていたが、流石にこの時間は先客が居て空いている他のテーブルに腰掛けた。見慣れた店内も席を移るだけでほんの少し見え方も変わるものだな、と東磨はぼんやり思った。
「食べたらどうしよっか?」
マスタードソースをポテトに塗りながら聞いてみたが彼女もぼんやり周りを見渡しているようだった。
「どうかした?」
「…あっ、ううん。…ねぇ、この席…覚えてない?」
観葉植物の置かれた使用済みトレイの返却台兼パーテーションで仕切られている向こうは直ぐ入口とレジがある。いつもとは違う席で確かに違和感はあるが何か思い出となると…彼は記憶を掘り返すように腕組みし唸ったが諦めて首を傾げた。
「初めてあなたを見た場所よ、東磨くんここに座ってたの」
朔来は自分が座っている席をポンポンと叩くと、彼の中で何かが弾けたようだ。
「…あっ、えっ?入学式の日?」
「うん、私はあっちで注文してその後二階に上がっちゃったから殆ど後ろ姿しか見えなかったけど」
東磨は驚いた。彼ですら記憶に薄ら残っている程度だったが、確かにあの日は和也の話に振られる形で朔来を目撃した。
だが彼女も自分に気づいていたとは…話したこともなく、名前すら知らないはずなのに?
疑問は生じたが先ずは彼女がそんな些細な事を覚えてくれていたのが嬉しかった。
「覚えてる。俺も少しだけ見てた、可愛い子だなって」
「えっ…そ、そ、そういうのはいいからっ!」
彼女の恥じらいポイントが未だに謎だが、こういう言われ方は苦手らしい。
それにしても先程浮かんだ疑問が気にはなったが、この情報社会で自分の事も誰かに聞いたのかもしれない。現に彼は朔来のことをそうやって知ったのだし。今にして思えばあの時一緒に居たのは本間リサと飯田柚絵だった気がするな、と記憶を掘り下げていくうちに彼は疑問よりも不思議な感覚に陥っていた。
あの日ここで出会った、いや出会う以前の偶然同じ場所に居合わせて学校が同じなだけの赤の他人だった人が、今こうして目の前に大切な人として居てくれる。
「なーにニヤニヤしてんのっ?」
額を指でつつかれ顔を伺うように覗き込んでくる。
「で、どこ行こっか?」
その日はそれから先ず彼女の買い物に付き合った。春物が見たいと幾つかの贔屓にしているショップを巡り、どちらが似合うかの質問を三問も出されその度に脳みそをフル回転させた。雑貨屋では文具売り場にある試し書き用の紙に二人のイニシャルで相合い傘を書いているのを発見し引っ張るように店から連れ出し、恒例となったボーリングを三ゲーム行い自動販売機コーナーで休憩をしていた。
「ふっふっふ、今日は私の二勝。これで通算成績は私の七勝、東磨くんが…くっ、十四勝か」
「何を熱心に書いてるかと思えば。でも初めて来た時に比べれば朔来、滅茶苦茶上手くなったよね」
「実は家族に連れて行ってもらって特訓してるんだー、えへへー」
(運動は苦手だって言ってたし、最初はまともにピンまで届かなかったのにな。本当…どんだけ練習してきたんだよ)
それが瀬名朔来なんだと思えば自然と笑みがこぼれた。世界中の人に自分の彼女は凄いだろ!と叫びたかった。
充実した時間は過ぎるのが早いと感じるのはとっくの昔に数式でも証明されているように、あっという間に夕暮れが迫りイベントの幕引きが近いことを二人とも予感する。デートの終わりはやはり海に来てしまう。北風が吹く日本海で手を繋ぎ寄り添うように丸まりながら水平線を眺めていた。
後ろの空からは宵の明星が二人を眺めるように静かに瞬いていた。
(…どうか、彼女とずっと一緒に居られますように)
週が明けいつも通り学校が始まった。
しかしその朝、彼は妙な胸騒ぎを覚えていた。昨日まで途切れることなく続いてきた彼女からの朝のLINEが初めて途切れたのだ。元日、一緒に初日の出を見た朝ですら隣に居ながら送ってきてくれたのに。
朝食を済ませ登校する時間になっても鳴らないスマートフォンを手に取りこちらから送ってみる。
「おはよう!寝坊かな?また学校で」
一時間以上かけ学校に到着しても彼の送ったメッセージに既読したマークは表示されず時間だけが過ぎていった。
昼休みに入ってもそんな状態が続き気になった彼は和也たちに先に食べるよう伝えて彼女の教室がある北棟へ向かった。
一年一組の戸を開くと彼のクラスとは明らかに違う清閑で機械的な昼食風景の印象を受けた。
彼が扉から中を伺っているのに気づき本間リサが寄ってきた。
「…日高、どうした?」
「あぁ、えーっと。朔来は?」
彼の問に一瞬表情が暗くなった。
「聞いてない?あの子、昨夜から熱が出て今日は休みだって。もしかしたら暫く休んじゃうかもって家から連絡あったんだって」
「…そうだったんだ、LINEも既読付かなかったから」
「ウチらもだよ、連絡つけばお見舞いとかも行きたいんだけどね」
彼女に礼を言い北棟を後にした。
渡り廊下を歩きながら彼は朝よりも強い胸騒ぎに苛まれ、やり場のない不安が胃袋の辺りから滲みだし全身を覆うようだった。
彼女からLINEが返ってきたのはそれから五日経ってからだった。連絡をしなかったことの謝罪から始まり現状の経過と心境が記されていた。
「こんばんは、そしてごめんなさい。実は遊んだ日の晩から熱が出ちゃって全然下がらなくて少し入院することになっちゃったの。今はもう熱も下がって元気だし大したことはないから心配しないで」
「そうだったんだ、でもよかった!無理はせず今は身体のことだけを考えて」
それから暫くして退院の許可が降り無事自宅へ帰ることが出来た。彼女と遊んだあの日から二週間ほど経っていた。
「きゃーーーっ!」「人が!人が落ちたぞ!」「女の子だっ!」
金属音の後に人々の怒号、悲鳴が徐々に耳に入り始めた。
モノクロの世界に色が戻り、吹く風の冷たさも頬で感じられるようになる。感覚が戻り始めると同時に今度は激しい吐き気が襲ってきた。
二月に入り寒さもピークに達していた。
年明けから対策し彼女の入院中も必死で勉強してきた中間テストも終わり東磨は初めて普通科クラスの十二位として結果が発表された。
瀬名朔来は療養中だったためテスト自体を受けれず今回は番外となったが、職員室前に張り出された模造紙に彼の名前を発見すると他の生徒が居るにも関わらず思いきり抱きついてきた。
「リア充爆発しろ」
彼の方が周りの生徒の視線が気にしながら和也の言葉に現実でそんな言い回しをする人間が居るのかと笑い出しそうになるのを堪えた。
「朔来、本当にありがとう」
「何よ改まって、頑張ったのは東磨くんだよ」
「正直に言うと不安で不安で堪らなくて何かしてなきゃ気が狂いそうでそれを紛らわすために勉強してただけなんだ。」
「そっか、そうだったんだ…じゃあ」
彼女は悪戯っ子のように何か企みの表情を向けてきた。
「もし私に感謝してるなら、お礼…して!」
突拍子もなくこんなこと言わないだろうし、何が目的なのかわからないが彼女のことだからきっと考えあっての事だろうと、とりあえず話に乗ってみることにした。
「もちろん、いいよ。それで、何か欲しい物とか?行きたい場所とか?なんでも言って」
「なんでも?」
「え、うん。俺に出来ることならね」
「言ったわね?」
彼女が更に悪そうな笑みを見せた。
「じゃあ、私の家に来て両親と会ってちょうだい」
タイミング悪く飲み込もうとした生唾が器官に入り漫画のように噎せてしまった。彼女は背中を摩ってくれるが意地の悪い伺いの眼差しはそのままだった。
「ゲッホゲッホ…え、えーっと?」
「逆もあるって話したでしょ。もちろん、あの時の仕返しってわけじゃないけど、私もちゃんと東磨くんを紹介したいし…」
急に恥じらう彼女見てやはりスイッチが謎だと思いながらも、そんな顔を見せられたら断れる余地など無いと彼は腹を括った。
「リア充爆発しろ」
友人が大事なことは二回言うのだと言わんばかりの顔を向け先に自分の教室へ戻って行くのを見送りながら二人で笑った。
二月に入って最初の日曜、早朝。日高家は全員が緊張と冷静を絶妙と微妙の間に混ぜ込んだ、例えるなら薄口と濃口の比率を悩み抜き結果的に中途半端な完成度となってしまった醤油味のメロンパン…のような、なんとも表現し難くわけのわからない空気に包まれていた。
「明日…朔来の家に行って両親と会ってくる」
前日の夕食中、この家の長男が発した言葉にミネストローネを啜っていた父親が吹き出し噎せ込む姿が先日の自分と瓜二つに思えた。一間置いてから箸の止まっていた母親と南未が顔を見合わせる。
「ええぇぇーーーっ!?」
大騒ぎに発展しそうになるので慌てて補足を入れる。
「あー、いや、会ってくるって言っても食事に誘われただけだし。そういうのじゃないから…」
なんで言い訳をしているのだと情けなくなる。
朝食の前に風呂に入って身を清めるよう勧めてくる母親。ひとの部屋の箪笥を勝手に漁り洋服を真剣に選ぶ妹。昨夜、食事を終えてから大慌てで手土産を用意してくれた父親。
(全く、ウチの家族ときたら…)
「羨ましいくらい素敵な家族よ」と言われたのを思い出した。
(まぁね、最高の家族だよ)
湯船に浸かりながら物思いになっていた自分が恥ずかしくなり湯の中へ潜った。
風呂から上がると自前の服だが自分では考えもつかないセンスでコーディネートされ、朝食を済ませた後に口臭ケアのキャンディと手土産を渡され戦場へ赴く軍人のように家族総出で見送られた。
家を出て駅に着く前に首元を締め付けていたチェック柄の蝶ネクタイだけは外してポケットに突っ込んだ。
彼女の家へは山陰本線で米子駅へ向かいゼロ番ホームの境線に乗り換え無人駅の三本松口駅が最寄りで、そこから歩いて十分程だと聞いた。
「さぁこちらには日高東磨選手に来ていただきました。日高選手、今の心境はいかがですか?」
アナウンサーのような口調で嬉しそうにマイクを向ける真似事をしてくる。正直吐きそうになっていた。
「うぅ、ぜ、全然。…普通だね?」
「へぇー流石ね、パパもママも楽しみって言ってたわ。でもパパの表情が一瞬曇ったのよねー、何故かしら?」
彼の顔が一瞬にして青ざめた。
「冗談よ、ふふ」
泣きそうになり帰りたい気持ちを必死に抑えた。世の中に存在する親公認のカップルは皆この試練を乗り越えているのか?
(すげーな、まじ尊敬する…うぅぅ…)
旗ケ崎にある再開発されたマンション郡の真新しい一棟のオートロックを潜り、一体こんなところ誰が使うんだというような立派な応接セットの置かれたエントランスからエレベーターに乗り込み玄関前まで辿り着くと、人はこれ程まで緊張出来るのかというくらい緊張してきた。ここが何階なのかもわからず、もう一度一人で来いと言われても迷わず来れる自信はなかった。
「大丈夫?行くよ」
鍵を解き扉が開かれると嗅ぎなれた朔来の甘い匂いが漂ってきた。頭の中だけで人という字を書き飲み込む。
「ただいまー、連れて来たよー」
「おかえりなさーい」
完全にクリスマスの日の逆バージョンだった。あの日彼女もこんな気持ちだったのか…違うのは彼女の両親は落ち着いた様子で玄関先へ出迎えてくれた。
「パパ、ママ、紹介するわ。日高東磨くん、私の大切な彼氏です。東磨くん、ウチの父と母です」
「は、はじめまして!日高東磨です!宜しくお願い頂きます!」
ここも違う。「大切な彼氏です」発言で更に追い討ちをかけられたがあの日の彼女はもっと落ち着いていた。
「はじめまして、東磨さん。母親の恵です、娘がいつもお世話になってます。」
「父の裕一郎です。東磨くん、会えて嬉しいよ。そんなに緊張しないで、さぁ上がってください」
とりあえず彼女の両親から笑顔を貰って少しだけ冷静さを取り戻せたが、父親から借りてきた皮靴を揃えて上がろうとすると後ろから指でつつかれた。
「宜しくお願い頂きますって…何!?ぷっ」
クスクス笑いながら再び赤面した彼を追い越して廊下を歩いていった。
リビングへ通されると良い香りが立ち込めていた。二十畳はありそうな広々としたリビングに壁一面の大きな窓、外の景色からここが最低でも二、三階ではないことが伺える。
あとはパスタを湯掻くだけだからと母親が言うと娘も手伝うとキッチンに消えていってしまった。
「まぁどうぞ」と彼女の父親にソファーを勧められ腰を下ろす。
「今日はお招きありがとうございます、これつまらない物ですが…」
出かけに彼の母親から助言された通り紙袋から品物を取り出して渡した。
「お気遣いありがとう、おーい」
キッチンの方へ呼ぶと母親がお茶持って現れた。
「まぁ白うさぎ、ありがとうございます。あの子、今頑張ってるからもう少し待っててね」
正体はわからないが相変わらず良い香りがする、緊張はしているが思わず腹が鳴ってしまった。
「…すみません」
「ふふ、愛情も空腹も最高スパイスよね。急いで支度するわね」
笑い方も笑顔も朔来そっくりだった。あと何年かしたら俺たちもこんな家庭を…
「なぁ東磨くん。聞いているかね?」
「あっ、す、すみません」
十五分ほど父親とたどたどしく話しているとダイニングへ呼ばれた。テーブルの上にはオレンジ色のソースがかかったパスタとカルパッチョと呼ばれる料理が載った皿、それにサラダとスープが四人分用意されていた。
「さぁ、いただきましょう」
東磨はテーブルマナーに気をつけるよう周りを盗み見ながら、フィットチーネをフォークに巻き付け口に運んだ。
「…美味しい」
「まぁ、良かった。実はこのソース昨日のお昼から作ってたのよ。アメリケーヌソースって言うんだけどね。先ずは海老や蟹の殻とニンニク、セロリ、タマネギなんかのお野菜を炒めてね…」
「おいおい、作り方のレクチャーはいいじゃないか。東磨くんが困るだろ」
「あ、いえ。でも本当に美味しい、お店で食べているみたいです」
「朔来も手伝ってくれたのよねー」
エッヘンと無邪気に笑う彼女が親の前だからだろうか、いつもより幼く感じられる。また新しい彼女を見つけられたような気がした。
「ところで東磨くん、この後どうだい?」
父親が右手の親指と中指薬指を折り下から上へ振る仕草を見せながら問いかけてくる。
「あっ、ボーリングですか?」
一瞬なんのことかわからなかったが閃いて答えると父親がにっこり頷いてくる。そう言えば家族でも行くと聞いたことを思い出した。
「家内とは昔から二人で行っていたのだが、朔来も行きたいと言い出したのは去年のことでね。おそらくは君の影響なのだろうと話していたんだよ」
「だって最初は東磨くんに全然勝てなくて本当に悔しかったんだもん、でも最近は結構いい勝負するようになったのよ」
「先月も二人で行きましたけど、確かに最初に比べると見違えるくらい上手になっています」
「はっはっは、そうだろう。なにせコーチが良いからな」
第一印象は落ち着いた威厳の中に優しさを感じさせる人だと思ったが、余程ボーリングが好きなのだろう。砕けたようにはしゃぐ中年男性へと変わっていた。
「でも、朔来さんは大丈夫ですか?病み上がりなのでは?」
「私は大丈夫!逆に体が訛っちゃって大変。それから、朔来さんはや、め、て!」
昼食の片付けを急かしていたが、結局後は自分がやるから早く着替えて来いとボーリングを楽しむには相応しくない格好の母親と娘をキッチンから追い出した。東磨もじっとしているわけにもいかず父親の横で皿を磨く、二人とも手つきがぎこちない。
パンツスタイルに変身した女性陣と共にマンション入口まで降りて車を取りに行った父親を待った。エレベーターに乗り込む際、自分は八階に居たのだとようやくわかった。
暫くその場に居ると奥の駐車場からエンジン音が聞こえ現れたのはそれほど車に興味があるわけでもない東磨ですら知っているイタリア産の白い高級スポーツカーだった。土足で上がり込んでいいのか尋ねると三人とも笑いだす。
後で聞いたが彼女の父親は一級建築士の資格を有する建築事務所の社長なのだそうだ。
数時間後、彼らは地元で有名な個室の焼肉屋で肉を堪能していた。帰りの運転は母親に任せると言い二杯目のビールに口を付け始めた父親は上機嫌のようだ。
「ふっふっふ、これで対戦成績は九勝十六敗。今日は五分だったけど勝率はまた上がったわ」
いつも持ち歩いているのか、彼女の見慣れた日記帳に書き込みながら嬉しそうに言った。
「東磨くん負けるなよ!君のコーチならいつでも引き受けるよ」
「ごめんなさいね。この人、あなたのことをかなり気に入ったみたいで。でも二人とも負けないよう頑張ってね」
謎の応援を貰いながら日高家の焼肉では食べたこともないような霜降りのロース肉を焼いてもらいながら、あの時彼女もこんな気分だったのかなと想像した。
(…勇気を出して会いに来てよかった。…それにしても)
「朔来、食べてる?最近ちょっと痩せたんじゃない?ガリガリになっちゃうよ」
「いいの!女の子にあんまり体型のことを言わないの!セクハラだよ?」
彼女にあしらわれ両親も笑っていた。一瞬、父と母の表情が固まったように感じたが気のせいだったかと東磨も直ぐに忘れた。
彼女の母親の運転で米子駅まで送ってもらい礼を言って別れた。電車に乗ると彼女がウチに来た帰りを思い出し、確かに疲れたといつの間にか眠ってしまっていた。
帰宅すると待ち侘びるように玄関まで出迎えられた。家を出てから今の時間までを全て報告し質疑応答を終えるのにそれから二時間も要した。途中、南未から蝶ネクタイを問われてしまい焼肉で汚したら嫌だから外した、と頓珍漢な言い訳をした。
7月28日 付き合い始めてからの初デートは皆生ビーチで海水浴だ。更衣室から出ると日高東磨は明らかに健全な男子高生の反応を見せたので少し懲らしめてから初めて手を繋いだ。それにしても水着には自信がない。この胸はもう少しどうにかならないだろうか。
8月8日 夜に電話をかけ日高東磨と話をした。とくに用があったわけではなが、話の流れで彼の課題が遅れていることを知り翌日図書館で勉強を見ることにした。
今夜は少し身体がダルい。
8月9日 それにしても日高東磨は何故こんなに待ち合わせ時間を無視するのだろう?予定より三十分前は当たり前のようだ。そこが彼の良いとことなのかもしれないが。もう一つ利点を発見したが彼は集中すればきっと勉学に向いた才能を持っている、頑張ってほしい。
月は出ていない。星たちも心做しか少なく感じる。
散々読み散らかしてきたコレも二度と読むことはないだろう。ようやくこまで来られた、最後だけは決して間違わないようにように。
眠れないことを悟ってか、その夜は部屋の明かりが消えることはなかった。
瀬名家訪問から一週間が過ぎた今月二度目の日曜日、厚い雲に覆われ昼間なのに暗く何をするにも億劫になりそうな日だったが、東磨の母親の提案で贔屓にしているピザ屋でピザが食べたいと言い出し米子の両三柳にある店に向かう車中にでスマートフォンが震えた。
「何してる?」
「家族で米子に向かってる、昼ごはん食べに行くとこ」
「そっかー、その後は?」
母親に予定を確認してから何も無いことを伝えると
「じゃあ会えないかな?時間の目処がついたら教えて」
食事が済んだら別行動するからと家族に伝えながら、今のLINEのやり取りに何故か違和感を感じ考え込んだ。
(…なんだろう?何処かよそよそしいような)
彼女とは皆生の海で待ち合わせた。相変わらずの北風が日本海の荒々しさを過剰とも思える程に演出しているように思えてくる。
何となく普段のデートではないような気がしていた。もしかするとチョコレートを渡すために?とも思ったが、明日学校で会えるのにわざわざ前日の今日呼び出してまで渡すのは変かとその考えは棄てた。
「ごめんね、家族水入らずのとこ」
やはり何処かおかしい、必死で掴もうとしても簡単にすり抜けていく海水のようなもどかしい違和感を拭いきれない。
「全然いいんだけど、どうしたの?」
「…なんとなく会いたかっただけ…ごめんなさい」
言うなり急に近づきキスをされた。
彼女に応えるように目を瞑ったがそれは長い時間唇が重なり合った。
どれくらいそうしていただろう…彼女の唇が離れていくので目を開ける。
「えへへ、襲っちゃった」
白い歯を見せ髪を耳にかける見慣れた仕草なのに、今日は無理しているように映る。
「…やっぱ、なんかあった?」
「んんー…ごめん。やっぱりまだ駄目、今度話すから」
彼女も真剣に考え出した答えのようだし、そう言われてしまうと彼はもう何も聞き返せない。彼女もそれをわかっているようだ。
「…ごめんね、それから一つお願いがあるの。ここじゃなくて、東磨くんの地元の海が見たい」
「今から?時間は平気?」
頷くと彼女から東磨の左手を掴み駅行きバス停へ向かった。
米子駅に到着すると少しだけ待ってて、と何処かに消え十分もしない内に戻ってきた。
彼は定期券、彼女は切符を購入し入場した。
ホームにはサラリーマン数人と、幼い子を連れ更に弟か妹だろう抱っこ紐の乳児を抱える母親、水色の作業着を着てヘルメットを被っている駅の職員が線路内に降りて作業していた。
ゼロ番線には有名な妖怪漫画のキャラクターが描かれた車両がちょうど入線してくるところで何人かの愛好家が思い思いに写真を撮っていた。
東磨たちの乗る電車は次に通過する貨物列車の後のようだ。
彼女の後から続くように右側に立ち反対ホームを眺めていた。あちらは安来や松江方面で、電車を待つ乗客の数はこちらと同じくらいだった。
そういえば朔来の親戚の家も安来にあるんだっけ、と以前教えてもらったことをぼんやり思い出した。
電車がまもなく通過することを告げるアナウンスが流れ始めた。
その時だった。
アウターの左ポケットに何かを入れられる感覚があり振り向こうとした瞬間、真後ろから何かがぶつかって来た衝撃があった。そのまま前方へ倒れそうになり通過する貨物列車の気配も感じた。
(…えっ?…やば。これ死ぬんじゃ…)
走馬灯のようなものは見えなかったがスローモーションのようには感じられた。
次の瞬間、倒れ込んでいく前方から更に何かがぶつかる衝撃があり倒れ込む方向が変わった。一瞬甘いシャンプーの香りを感じた。
スローモーションの中で目が合った彼女は笑顔にも取れる表情を残してゆっくりホームへ落ちていった。
この世の終わりのような甲高いブレーキの轟音が鳴り響いて、それが収まってくると今度は人々の怒号と悲鳴が入り交じった。
「きゃーーーっ!」
「人が!人が落ちたぞ!」
「女の子だっ!」
辺りは騒然となっていたが彼は何が起こったのか理解出来ずにいた。近くには最初にぶつかってきた幼い男の子が倒れて泣いていた。
(…ぁあ…あぁ…あぁぁ…)
徐々に感覚が戻って来るのを感じる。
しかし彼はそれを拒絶するように頭を抱える。
(…嫌だ、駄目だ…戻りたくない。知りたくない、このまま…このままで居させてくれ…)
そんな彼の嘆きの想いが受け入れられるわけもなく激しい頭痛と吐き気、そして何より恐ろしい現実が容赦なく襲ってきた。
この日、瀬名朔来は死んだ。