2.~デート~
五月晴れと言う言葉がある。元々は旧暦の六月を指し梅雨の合間に見られる晴れ間を表す意味だったらしいが、今では新暦の五月中旬に中国大陸からもたらされる高気圧の影響で晴天が続くことを指すようになった。俳句では夏の季語として用いられる。と、このような言葉が存在するように五月は晴れ間の多い月というイメージを持たれがちだが、中国地方を山陰と山陽の南北に隔てる中国山脈の影響で北側の山陰地方では雲が停滞することが多く晴天が続くということはなかなかない。文字通り山で雲が止まり影が生まれる地方なのだ。
朝起きると何故か体が軽い。今朝だって窓を開けてもどんより曇りで清々しくもなんともない朝で気分が晴れやかなわけではない。以前からも別に特段疲れることをしていたわけじゃないし平凡な生活を送っていただけだ。起きて学校へ行って部活に入るわけでもなく放課後に和也や悠士と寄り道をして、家に帰って寝る、こんな生活で疲れるわけがない。ただ、朝起きても体が軽いと思ったこともない。
「おはよう♪起きてる?」
近頃、新入生総代からおはようのLINEが来るようになっていた。全くをもってつくづく男と言うやつは、なのだ。本当に彼女はなんなのだ?なぜ彼の望む理想形を実行してれるのだ?こんな美味い話あっていいのか?等、今までの人生で殆ど異性交流してこなかった東磨にとっては当然と言えば当然の疑問が渦巻いていた。しかし、やはり男と言うやつは単純で前記した疑問よりも目の前の彼女からのモーニングメッセージが全てなのだ。ここ2週間余りで体育祭実行委員会を通じて随分仲良くなった。
「おはよう、起きてるよ。また学校で」
この時間に返すメッセージは直ぐに既読してくれる。既読マークが着いたのを確認してから顔を洗いに行くのが新しい日課だ。当然スキップをしながら鼻歌も忘れずにだ。
「…そりゃ体も軽いわな」
独り言の台詞も今なら妙に格好良く言えた気がする。
LINEをするようになったのは実行委員で業務連絡用にグループを作ることになり皆で交換し合ったのだが、なんとその夜に突然ともだち承認が届いた。
「委員会とは関係ないんだけどこっちでもLINEしていいですか?」
「うん、もちろん」
「ありがとう、よろしくね」
それから毎日ではないが他愛もない話をするようになった。ある夜、彼が最後に送った「おやすみ」に対して彼女は返すことが出来ない日があった、いわゆる寝落ちというやつだ。
東磨は気にしてはいなかった(若干凹んではいた)が彼女は自身を許せなかったのだろう。おやすみは自分が最後に言うと決めていたのかもしれない。
その翌朝からだ、「おはよう」が届くようになったのは。
どうやら前日の最後を飾れなかったから翌日から最初を狙いにきたのであろう、見かけによらず負けず嫌いな一面も発見した。
それだけじゃない、この約二週間でちょっとした家族構成や好きな食べ物嫌いな食べ物、好きな音楽や休日の過ごし方。何に喜び、何に怒り、何に悲しむのか。もちろん全てを把握出来たわけじゃないが表面的な部分には触れられたと思う。何より少しずつ彼女の事を知れていけるのが嬉しかった。
それから最近はもう一つ、いや二つか…日課になった事がある。一つは家の中でスマホを肌身離さず持つようになったことだ。今もこうやって右手に歯ブラシ、左手はスマホだ。
そしてもうーつは朝ご飯の最中にどうも表情筋が緩むのかニヤけているらしく二つ年下の妹の南未が彼のだらしない顔を一瞥して「お兄ちゃん、キモい…」と、しょっちゅう罵られるようになっている。
まだまだ今思い出せないだけで東磨の日課と呼べる日課なんて総入れ替えの勢いで変わっていってるのかもしれない。
二週間余りで出来上がった朝の流れでは大抵一言挨拶して終えるのだがこの日は歯ブラシを置きコップで口をゆすごうとしたら左手が震えた。
「いよいよ明後日は体育祭だね。その事で今日帰りながらでいいから話せないかな?無理なら明日でもいいんだけど」
口の中に泡を残してスマホを濡らしながら返信をした。
「今日も明日も準備で遅くなるかもしれないけど大丈夫かな?良ければ俺は全然平気なんだけど」
直ぐに返信がありブタが蹄を前に出して(ピースサインなのだろう)バックにOKと映ったスタンプだけが返ってきた。
(結局、今日か明日かどっちなんだよ?まぁ、後で直接聴けばいいか)
鏡を覗き込みながら緩む口元を手で直そうとしてみたが今朝も妹からの罵りは免れそうにはない。
体育祭まであと二日、ここまでくると実行委員だけでは手が足らず空いている一般生徒にも声をかけて準備を進める。校庭の外縁には色とりどりのキャラクターやメッセージの描かれた応援ボードが並び体育館前には競技で使うであろう器具たちが鎮座、テントも屋根が張られ脚を伸ばすだけの状態となっている。
東磨も和也と悠士に声をかけて三色の得点ボードの仕上げにかかっていた。
米子白鳳高校の体育祭はクラス対抗ではなく生徒をクジで赤、青、黄組に分けて競う方式がとられる。
この日ばかりはクラスメイトも敵同士だったり、特進と普通科が協力し合うことにもなる。
東磨は黄組、和也と悠士は青組だ。
完成した得点ボードを明日設置する北棟三階の視聴覚室に運んだところで今日は解散となった。
二人にジャックバーガーを勧められたが予定があると断った。
「今終わった。どこにいる?」
暫く視聴覚室の窓から校庭でまだ作業をする生徒たちの影を眺めているとスマホが震えた。
「こめん!こっちもやっと終わった、帰ろう」
「こめん?」
「ごめん!」
すっかり日も落ち校門前の坂道にも街灯が灯り新緑の桜並木が夜風にざわつく。
ジャージから制服に着替え直して校門のところで待ち合わせをする頃には18:30を回っていた。
校舎の方から三人組の影が近ずいてきて東磨を確認すると三つのうち二つの影は離れ始めた。
「朔来ー、また明日ねー」
「朔ちゃん、じゃーねー」
瀬名朔来に手を振りながらチラッとこちらにも目を向けお互いを見合わせてクスクスと笑う二人の女子は東磨の横を通り抜けていった。
「ご、ごめんね、待った?」
「ううん、大丈夫」
彼女は顔を赤らめモジモジしていた。
「あの二人は高校以前からの友達でね、ほら、右のポニテの子が柚絵で、左のショートボブの子がリサ。…一緒に帰ろうって誘われたんだけど用があるって断ったら怪しまれて結局ここまで着いてこられちゃった」
小指程の大きさなった前を歩く二人がこちらを振り返えりまた顔を見合せ盛り上がるのが見え東磨も頬を赤らめ頭をかいた。
「い、行こっか」
緩やかな坂道をゆっくり降り始めた。西の空には金星の瞬きとその横を航行する旅客機だろうか、赤い衝突防止灯が点滅する。
「な、何か話があるって、どうした?」
「あ、うん。えっとね…」
二人ともまだまだぎこちがない。LINEなら平気なのに実際に会うと上手く喋れないのは何故だろう、と今晩またベットの上で自問しニヤけ悶えるのだろうなと東磨は予想した。
「えっとね、体育祭が終わってからのことは聞いてる?」
「片付けってこと?」
「じゃなくて、後夜祭」
「いや、詳しくは知らないな。あれは生徒会の仕切りなんだよね?」
「うん、だから私も詳しくは知らないんだけど…生徒会の友達に聞いたんだけどね、その…キャンプファイヤーみたいなのをするらしいの」
「へぇ…それは凄いね」
何故そこまで歯切れが悪いのかの方が気になって返事が棒読みになってしまう。
「…そのね、踊るらしいの」
「え?」
横で俯きながら喋っていた彼女が意を決したように当惑する東磨の行く手を立ち塞いできたので慌てて立ち止まった。
「後夜祭の時ね、校庭でキャンプファイヤーをするらしいの。でね、音楽を流して踊りたい人は踊っていいんだって…」
「へ、へぇ…」
喉の奥がジリジリ熱くなってくる。手から脇から全身から汗が吹き出る感覚がある。話し方、明らかに緊張している仕草、間の取り方、ひしひしと伝わる勇気を振り絞ろうとする雰囲気。この後、彼女が何を言おうとしているのかわからないほど鈍感ではない。
無意識にキラキラ輝く長いまつ毛を見入ってしまった。
「日高くん、踊らない…私と」
「…ぎょっ」
「え?ぎょ…」
やらかした…自分でも何を言おうとしたのかさっぱりわからない、ぎょってなんだ?
明らかに反応に困っている、首を傾げている彼女も可愛い、だが断られると不安にさせたかもしれない、でも可愛い。
「ぎょ、御意…」
苦し紛れではあるが敬礼のポーズも追加サービスし呆気に取られた彼女がクスクス笑い出すのを見てようやく一度沸点まで到達した身体中の血液が徐々に冷めていくような感じがした。
この後、どの道を歩いて、どんな会話をして、何処で彼女と別れて、どのように家まで辿り着いたのか殆ど覚えていないのだが。
その山は県西部に位置する中国地方最高峰の1706m。市内では殆どの学校の校歌に登場する地元のシンボルマークで、過去には日本百名山のベスト3に数えられたこともありその佇まいかた伯耆富士と呼ばれるほどの名峰、大山がある。
古くから神の宿る山とされ幾度の災害もこの地方だけは山の加護に守られてきたと伝えられている。
あいにくの天気で今日は麓より上は完全に雲に隠れている。
この時期になると先ず晴れない。大袈裟ではなく本当にそれくらい晴れの日が少なく感じる。
雨の日が続くか良くて曇りの日、やはり日光を浴びなければ人の心は憂いてしまう。
駅方面から通りを直進して二百m程のところを右折すると元町サンロード商店街があるのだが、昔は活気もあったそうだが今は昼間でもシャッターを下ろしている店の方が多い、この商店街も憂いているのだ。地方都市は何処もそうなのだろうが。
そんな雰囲気など何処吹く風と商店街のど真ん中を闊歩する若者の姿があった。
彼は日高東磨、この物語の主人公である。
六月に入って三度目の日曜日、時刻は十分後には正午になる。これからこの物語のメインヒロインと初めて二人きりで遊ぶようだ。待ち合わせの場所はこの先にある最近では放課後に二人でも入るようになったジャックバーガー、約束の時間は十三時だ。
最後のオクラホマミキサーが終わってから数秒間は手を離せなかった。気持ちが昂っているのかキャンプファイヤーを背にしているからか、彼女の表情が見えなかった。焦点が徐々に合っていくように目が合いようやく我に返り半歩引いた。とても緊張した、使い古された感想だろうが心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと不安になるほど高鳴った。
近くから向けられる和也、悠士、リサ、柚絵のニヤニヤ視線で追い討ちもかけられた。
目の前の朔来も恥じらいながらも笑っていた。
この日から二人の仲が更に急接近するということはなかったが、彼女はおはようコールを毎日くれるし学校でも意識してるせいか出会う回数も増え、会えば一言二言交わすようになった。
変化があったとすれば学校で朝の挨拶が「おはよう」から「やっほー」になった。最初は親しみが込められそれだけ距離が縮んだのだと解釈していたが、たまたま下駄箱で出くわした時に特進クラスの友人には「おはよう」で何故自分だけ「やっほー」なのか夜に何気なくLINEで聞いてみた。
「朝におはようってLINEしてるんだから、学校で二回目のおはようは変でしょ」
ブタが両手を傾げるポーズを取りバックにDo you understand?と描かれたスタンプと共に送られてきたメッセージに納得しながらニヤけた。ブタの周りを飾るハートマークにもニヤけた。
南未にはまたキモいと言われる口実になったのだが。
正午、人口数全国最下位の鳥取県のローカルファストフード店でも流石にこの時間は人集りが出来ていた。店内は混んでおりレジ奥のバックヤードからはそれなりに活気が伝わってくる。
お昼をどうするのか決めるのを忘れていたのでとりあえずコーラとポテトだけ注文し一人分の席を確保した、彼女が来る頃にはもう少し空いているだろう。
ポテトをマスタードソースに突っ込みながら今日どうするか練り直した。もちろん今日の約束が決まってからずっと考えているし、当たり前だが昨日だって殆ど寝れなかった。
ただ前途したが人口数全国最下位を誇る鳥取県、県内では二番目の都市であるここ米子市とはいえ同世代が遊ぶ場所といえばカラオケかゲーセンかボーリング、それもそれぞれの店が幾つもあるわけじゃなく何処に行くかはジャンルではなく店舗名で話が伝わるのだ。大手チェーンではなく個人経営の店が多いから大学進学を機に県外に出る若者は早目にその言い癖を直さなければ恥をかくことになるかもしれない。
しかし彼ら彼女らはそれが日常で逆に都会の同世代たちにはどんな遊び場があるのか具体的には知らないのだからそこには漠然と憧れがあるだけで愚痴りようもないのだ。
(瀬名朔来と二人きりでカラオケ?ゲーセン?ボーリング?…)
どれを想像してもしっくりこないというか、断片的に言えばゲーセン行ってプリクラくらいは撮りたいとか、ボーリングでストライクが出たらハイタッチをしたいとかいう願望は湧くのだが…
(うーむ…)
「ね、次の休みデートしない?」
既読を付けてから返信するまで三十分は要したそのメーッセージが届いたのは四日前の夕食後のことだ。その日は朝のおはようだけで学校で会うこともLINEすることもなく軽く意気消沈していた後のメッセージだったので感情も凪の海に巨大な隕石が落ちた様なビックウェーブ…は流石に大袈裟だが、大きな岩を放り投げて水飛沫が上がったような感覚だった。
枕を抱えてベッドの上を何往復転がっただろう、血迷って妹に相談しようか本気で迷ったこともよく覚えている。
そこから三日間は割と普通に過ごせた。極力北棟へ行くのは避けたし、彼女に会わないよう細心の注意を払った。LINEでは普通に会話もしたし、妄想劇の中では四回告白を受けて六回付き合って二十回以上彼女の裸を…見ました、ごめんなさい。三回結婚にも至った。
要するに…割と普通に過ごせた。
ポジティブにばかり考えていたわけでもない。
誘い文句のデートという単語が引っかかった。付き合ってるわけでもない異性を誘うのにいきなりデートなんて言葉を選択するだろうか?何か裏があるのではないだろうか?
(誘い慣れているのか?テレビのドッキリ企画とか?ジャン負けの罰ゲームとか?)
何度も言うが今まで殆ど異性交流がなかった高一男子ならここまでの思考は正常だと言えるだろう。
不意にスマホが震えた。
「今バス乗ったから後十五分で着くよ」
「こっちは今着いたとこ、中で待ってるから慌てずに来て」
「えー、早い!」
ブタが両前蹄を目に当て申し訳ないの意味合いで使うスタンプと共に送られてきたのは、彼が入店してから四十分が過ぎようとした頃だった。
十分後、待ち合わせ時間の十分前。息を切らせ気味に入口から現れた彼女に見とれると同時に東磨は既に到着したと伝えたことを後悔した。
白いリボンの付いた麦わら帽子を軽く直しながら
「はぁはぁ…ごめん、お待たせー。」
「いやいや、今来たとこ」
勢いよく立ち上がって両手で否定する。
制服かジャージ姿しか見ていなかった東磨には刺激が強すぎる、私服…いい。
「…いやいや、バレバレだし」
飲み干した紙カップと丸められたポテトの袋でその発言は虚偽だと証明されたぞ、とテーブルを指してから掌を合わせ申し訳なさそうに笑って礼をした。
「お、お昼食べた?注文するなら俺もするけど?」
「うん!」
鞄を椅子の上に置いて中から白い長財布を取り出し東磨の腕を引くその掌からはまだ少し手汗の湿りと暖かな体温と胸の鼓動を感じた。
ジャックバーガーを後にした二人は歩いて十分程のところにある商業施設へ向かっていた。
ランチ中も具体的な予定を立てられずとりあえず言ってみようと彼女が提案したのである。
そもそも東磨はこの街の出身ではないし彼女もそこら辺は気を使いリードしようとしているのかもしれない。
お互いの好みを紹介するように雑貨屋では格好良い可愛いや、服飾を眺めながら定番の質問どっちが似合う?など割とデートらしい雰囲気にはなっていた。
ゲームコーナーのUFOキャッチャーで様々な動物のマスコット人形を眺めていたので
「どれが欲しいか当てよう…ブタでしょ?」
直後に大きくバツを作って
「ブッブー!あのキリンが可愛い」
「えー、スタンプでよく使ってるからてっきりブタ好きかと…」
「あれは何となくだよー」
口元を抑えてクスクス笑っていた。
時計の長針が二周と少しした頃、二人は浜辺に居た。
「海が見たい」
初めてリクエストを貰えたので東磨は胸を撫で下ろした。
駅前のバス停から乗り換え無し二十分程で日本海に面した弓ヶ浜半島の付け根に位置する皆生海岸に辿り着ける。西へ伸びる半島の先は境港市でその先に境水道を挟んで島根半島が見える。
天気が良ければ反対側に大山も望めパンフレットでもよく観る画角構図だ。
あとひと月も過ぎれば海の家が並び海水浴客でそれなりに賑わいをみせるであろうビーチも、すぐ隣の温泉街も今はまだ閑散としていた。
水平線の向こうから吹いてくる風に白波が立ち、ビーチから数メートルのところに積まれたテトラポットに打ち寄せる。
サンダルを脱ぎ裸足で波打ち際を歩く彼女を少し離れた所から眺めていると手招きしていることに気がついた。踝まで海水に浸かる場所に立ち水平線の方を見ていた彼女は麦わら帽子を抑えながら上半身だけこちらを向けた。
「凄く楽しかった、ありがとう。またデートしようね、東磨くん」
初めて名前だけで呼ばれ浮かれて馬鹿面を晒しそうになる脳みそを抑え心臓を握り潰されそうになる痛みを覚えたのは、こちらを向いて微笑んでいた彼女が再び水平線の方へ向き直ろうとした時に見せた今にも泣き出しそうな深い悲しみを滲ませた儚い少女の憂いた表情だった。
一瞬の出来事だったのに彼の心に激しくフラッシュが焚かれ深く焼き付いた気がした。
鞄に括り付けたキリンの人形だけが笑いながらこちらを見つめてくる。