白い葬送
吉野遥人が死んだ。
高校受験の迫る二月のことだった。粉砂糖みたいな雪が町を覆いつくした月曜の朝、担任の石谷先生は涙をこらえながら僕らに――三年五組の生徒たちにクラスメイトの死を告げた。ざわついていた教室は一瞬で静まり返った。暖房はきいているはずなのに全身の肌が粟立ち、体の芯がじんわりと冷えていく。
僕は右斜め前の空席を見つめた。引き出しに乱雑に詰め込まれた教科書、はみ出たノート、その合間に挟まれたしわくちゃのプリント。机の上にところどころ残る黒ずみは、休み時間に林や福田たちとバカ騒ぎしながら描いていた落書きの消し跡だろう。吉野らしさで溢れ返るいきいきとした席に、死という概念は滑稽なほど似合わなかった。たぶん誰もがそう思っていて、だからこそまだ泣き声ひとつ漏れないこの教室は、今か今かと壮大な種明かしを待ち続けているようでもあった。掃除用具のロッカーの中から「ドッキリ大成功!」と笑いながら飛び出してきた吉野がみんなに袋叩きにされるオチまで想像がつく。ありえないと頭では分かっているけれど。
「先生」
最前列に座る学級委員の斎藤さんがそっと手を挙げ、先生の顔を覗き込んだ。
「吉野くん、どうして亡くなったんですか」
先生の肩が強張る。無遠慮な問いに怯んだというよりは、覚悟していた質問が来た、と身構えるような仕草に見えた。
「……心臓発作よ。先週の金曜、学校から帰って急に倒れたそうで」
潤んだ目が不自然に泳ぐ。先生はいつも僕らに真っ直ぐに、嘘をつかず接してくれて、それは長所でも短所でもあった。おかげで恐らくクラスの全員が同時に吉野の死因に思い当たった。
「お葬式には、わたしたちも行けますか?」
斎藤さんは僕らみんなの代弁者だった。穏やかな声とは裏腹に、まるで猫が鼠を追い詰めるように容赦なく可能性を断ち、真実を炙り出していく。
「残念だけど、実はご家族のご意向で、葬儀は身内の方だけでもう済まされたらしいの」
今度の言葉は真実だと分かった。そして誰もが確信した。
吉野はキスで死んだのだ、と。
キス。接吻。口づけ。大切な人と唇を触れ合わせること。それが恋人同士のありふれた愛情表現だったのは、僕らが生まれるずっと前の話だ。
どうして、いつから、死に至る行為に変わってしまったのか。化学物質による環境汚染の影響だとか体液や粘膜の化学変化だとか、理科の授業で先生が雑談として説明してくれたことがあったけれど、テストに出ないことをいつまでも覚えていられるほど僕の頭は出来がよくない。ただ、どんなふうに死ぬのかという話だけはよく覚えている。
融ける、のだそうだ。
キスをした二人のうち一方が、触れ合った唇から跡形もなく、骨も残らず融けて、血肉の色をした液体になる。どちらが死ぬか分からない上に凄まじい苦痛をともなうらしく、自殺や心中の方法として選ばれるのはかなり珍しい。事例はもっぱら恋人同士の事故だという。目の前で愛する人がどろどろに融けていく絶望はいかほどのものか、僕には想像もできないししたくもない。
しかし、そんなおぞましい死に様など気にも留めず、吉野はキスに興味津々だった。先生の話を聞いて不謹慎に盛り上がる教室に「死んでもいいからやってみてえなあ」と恥ずかしげもなく大声を響かせ、相手もいないくせにと浅田さんたちにからかわれて大げさに机に突っ伏し、笑いを呼んでいた。あのときはいつもの冗談だとしか思わなかったけれど、あれは本心だったんじゃないか。先生が死因をごまかしたのも、葬儀が身内で行われたのも、吉野のプライバシーや体裁を守るためなんじゃないか。
僕以外のクラスメイトたちも、そう考えているに違いなかった。
『ご家族のご意向』のためか、吉野を悼む全校集会などは行われず、朝礼のあとは平常通りの授業が行われた。とはいっても吉野のいない教室は平常通りとは程遠い。この一年、彼は風邪でだって授業を休んだことはなく、いつだってみんなを笑わせていたから。
吉野とキスした相手は誰か。このクラスの中にいるのか。授業中も休み時間も、肌を刺すような沈黙の中で無言の探り合いが行われていた。そして極限まで張りつめた緊張の糸は、給食の時間にぷつりと切れた。班で机を向かい合わせてくっつけ、いただきますの合掌をして間もなくのこと。
ドン、と背後から鈍い音がした。驚いて振り返ると、真後ろに座る林が机の上で拳を握りしめていた。
「なあ」
吉野と同じサッカー部で、いつも一緒に騒いでいた彼は、今は恐ろしいほど静かな空気をまとっていた。ゆっくりと立ち上がり、鋭い眼光で教室を見渡す。
「誰なんだよ、ハルとやったの」
「このクラスにいるんだったら正直に言えよ」
続いて中央列の後方に座る福田も腰を上げる。バスケ部だった彼は吉野と並ぶクラス一の長身で、立つだけで威圧感があった。
「本人ってわけじゃなくても、心当たりのある奴がいたら教えてくれ」
吉野と特に仲が良かった彼らは明らかに、『犯人』に対して腹を立てていた。けれど答える生徒はいない。もし相手を知っている人がいたとして、キスをした本人がいたとして、言い出せるわけがない。たとえ不慮の事故であろうと、クラスの人気者を「殺した」罪を負わされることは明白なのだから。
「浅田、お前じゃねえのかよ」
林が唸った。教室中の視線が吉野の隣の席に向けられる。派手な巻き髪に短いスカート、小柄で気の強い浅田さんは、確かに女子の中では吉野と一番親密だった。席替えのときには吉野の近くになった生徒とクジの交換をすることもしょっちゅうで、一時は付き合っているんじゃないかという噂も流れていたくらいだ。
「は?」
浅田さんは目を見開いて、牛乳パックを握る手に力を込めた。ぐちゅ、という生々しい音とともにストローから逆流した白い液体がスカートに滴る。普段なら「うわっさいあく!」と騒ぎ出しそうな彼女はしかし、全く構わず林を睨みつける。
「なんでよ」
「だってお前、ハルのこと好きだっただろ」
浅田さんの頬がみるみる紅潮していく。図星を指されたせいか、あてずっぽうを言われた怒りのせいかは分からない。鬼の形相で立ち上がりざま、林に向かって牛乳パックを投げつけた。林は咄嗟に払いのける。床に叩きつけられたパックは無残に潰れ、薄めた絵具のような白が辺りに飛び散って、周囲に座る女子たちの短い悲鳴が響く。
「何すんだてめえ!」
「死ね!」
カーディガンの袖で目許を押さえながら叫び、浅田さんは教室を飛び出していった。
「ゆりか!」
いつも彼女と一緒にいる女子二人がばたばたと後を追っていく。舌打ちをした林を見かねたように、斎藤さんが立ち上がった。
「やめてよ、林も福田も」
彼女はいつだって察しが良く、声を上げない、上げられない多数のクラスメイトが考えていることを口にしてくれる。
「何があったか説明されなかったのは、こういうことにならないようにじゃないの」
「知らねえよ、どうせあいつがやったんだ、調子に乗っていちゃついて事故ったに決まってる」
「でも、ゆりかが好きなの、吉野じゃない」
「は? じゃあ誰だよ」
「それは今関係ないでしょ」
「林、そのへんにしとけって」
低い声が前方から響いた。大蔵だ。元野球部のキャプテン、頼れるしっかり者で吉野たちとも仲が良く、彼らの悪ふざけをいつもキリのいいところで止めてくれていた。
「こういうの、ハルのプライバシーだろ。浅田に対しても無神経すぎる」
「うるせえ! 俺たちには事情を知る権利があんだよ」
林はもはや見境なく攻撃的だった。唐突に友人を喪った理不尽に対する怒りを、どうにか誰かに向けて発散したいだけにも見えた。対して福田はただ真相を確かめたいようで、縋るように教室を見渡す。
「ちょっとでもなんか知ってる奴いねえのかよ、なあ」
「ねえもういいでしょ」
斎藤さんが健気に宥め続ける。「みんな困ってる。誰も何も知らないんだって」
教室内の空気はまさに葬式そのものだった。のんきに食事をする気分には到底なれない。ただ肩を強張らせてポトフに浮いた黄色い油を見つめ、早く終われ早く終われと待ち望む。
「いや、一人一人に訊いていく」
しかし林の糾弾は止まらない。ずかずかと教卓の前に出て、名簿を掴み上げる。
「浅田は逃げやがったから、池口、お前だ」
廊下側の壁際の席で俯いていた池口がびくっと顔を上げた。科学部の彼は吉野とは殆ど関わりがなかったはずなのに、林は本当に誰彼構わず順番に訊いていくつもりらしい。
「ハルについて知ってること、全部言え」
僕に向けられた声ではないのに、自然と肩が強張る。林の話し方は苦手だ。乱暴な口調、強い圧力が、否応なしにクラス内での上下関係を思い知らせてくる。
「あ、う」
池口は明らかに怯えている。福田が歩み寄って彼の肩を軽く叩く。
「分かんねえなら分かんねえで、そう言えって――」
「いい加減にしろよ」
福田の言葉を遮り、窓際から鋭い声が飛んだ。
平川だった。信じがたいことにたった今まで食事を続けていたらしく、静かにスプーンを置いて林と福田を交互に睨む。物静かな優等生であるものの、にこりともしない表情や素っ気ない態度はかなり近寄りがたく、クラスの中では浮いていた。いや、浮いているというよりは、沈んでいるという方が、彼の雰囲気を表すのには適切な気もする。頭上を泳ぐメダカの群れとは冷ややかに距離をとり、水底でひとり動かずにいる石のような。
「あ?」
林が負けじと凄む。「なんか文句あんのかよ」
「くだらねえ」
はっきりとした一言に、僕の視界に入る全員の表情が凍りついた。
「探偵ごっこもそのへんにしとけ。吉野の死因がお前らの推測通りだったとして、本気で相手が特定できると思ってんのか? 他のクラスの生徒とか後輩とか他校の人間とか、そもそもお前らと面識のない吉野個人の知り合いって可能性もあるだろうが」
平川はいつものように冷めていた。「事情を知る権利? 笑わせんな、お前らが吉野について何も知らねえから傍迷惑な真似する羽目になってるんだろ。その程度の友情だったってだけの話じゃねえか」
教室の気温が急速に下がっていく。
言いすぎだ。平川が冷たいのはいつものことでも、ここまで攻撃的なのは珍しい。確かに吉野、林、福田のグループは悪く言えば落ち着きがなくやかましくて、彼が最も嫌っていそうな人種ではあったけれど。
「……てめえ、なんつった?」
福田が目を逸らす一方、林は表情を変えず、殆ど聞き取れないほどの低い声を零した。平川は臆することなく再び口を開く。
「だから」
続きは聞けなかった。猛然と飛びかかった林が拳を振り抜いていた。顔面に殴打を受けた細身の体が椅子ごと床に投げ出される。その上に机を蹴倒した林は、けたたましい音とともにぶちまけられたスープもサラダも教科書もまとめて踏みにじりながら、倒れた平川の胸倉を摑んで馬乗りになり、さらに拳を振るう。また女子たちの悲鳴が響く。斎藤さんが険しい顔で教室を飛び出した。先生を呼びに行ったのだろう。
息を荒らげながら、林は気でも違ったように殴り続けた。平川は抵抗する素振りも見せない、いや、できないのか。鈍い音が繰り返されるたびに鮮やかな赤が飛び散る、その様子を呆然と見ていた大蔵が我に返ったように林に駆け寄り羽交い締めにする。
「おい、やめろ!」
傍にいた数人の男子も慌てて加勢する。林は言葉にならない叫びをあげながら体を捩って拘束から逃れようとする。情けないことに僕は恐ろしさで動けず、見ていることしかできなかった。大半のクラスメイトはそうだった。
そのとき。
「やめて」
場違いなか細い声が、林の動きを止めた。
「もうやめて、林くん」
僕は信じられない思いで振り返る。
清水だ。僕と同じ、美術部だった生徒。クラスでは目立たない、勉強も運動も苦手な大人しい女子。不器用に傾いたスカーフ、膝を覆う長さのスカート、重たそうな長い黒髪に無骨な黒縁眼鏡――派手を絵に描いたようだった吉野とはまるで縁のなさそうな彼女が。
「わたしなの」
震えながら立ち上がり、毅然と言い放つ。
「吉野くんとキスしたのは、わたし」
「は……?」
林が目を見開いた瞬間、ばたばたと近づいてくる足音が聞こえた。学年主任をはじめとする男性教師たちが教室に駆け込んできて、状況を見るなり眉を吊り上げ、固まっている林を引きずるようにしてどこかへ連れていく。続いて走ってきた石谷先生が平川を助け起こし、保健室へ行こうと促した。立ち上がった平川の顔は血まみれで、既に痛々しく腫れ始めていたけれど、彼は泣いても怒ってもいなかった。鼻と口から流れ続ける血を鬱陶しそうに手の甲で拭い、誰の手も借りず椅子と机を立て直す。続いてお盆や食器、教科書を拾おうと屈んだところを先生にいいからと急かされ、黙って教室を出ていった。先生は深刻な表情で事件現場を見つめ、僕らを見回す。
「何があったのかみんなにも聞きたいから、終礼のとき少し時間をとります。申し訳ないけど皆で片付けをお願い。斎藤さん、任せてもいいかな」
「はい」
戻ってきていた斎藤さんは既に残飯バケツを手にしている。ありがとうと言い残し平川を追っていく先生を見送ってから、はきはきと指示を出す。
「一班の人、雑巾出して、床拭いてもらっていい?」
一班――平川の班の生徒たちがそのそと動き、掃除用具のロッカーへ歩いていく。軋みをあげて開いた扉の向こうには当然吉野の姿なんかない。林を止めていた男子たち、周囲の女子たちも手伝って、散らばった給食を拾い、血を拭き取る。僕を含め離れた場所に座る生徒は遠慮がちに食事を再開する。食器とスプーンのぶつかる音、床に散らばったおかずがバケツに捨てられていく生々しい音だけが教室に響く。
「人殺し」
誰なのか分からないほどの小さな声がぼそりと囁いた。胸が鋭く痛んで、僕は教室の隅にちらりと目をやる。清水は立ち尽くしたまま俯いている。
「おい」
林の暴走を目の当たりにして放心していたらしい福田が、やっと声を発した。
「清水、お前、本気で言ってんのか」
教室が再び水を打ったようになった。誰もが耳を澄ましている。目を凝らしている。この騒動の結末に。
「……」
清水は黙ったまま、微かに頷いた。真実か嘘か確かめる術はなくても、福田は怒りをぶつける相手を得たのだ。ここぞとばかりに怒鳴り散らすかと思いきや、彼は気が抜けたように壁に寄りかかり、ずるずると床に座り込んだ。宙を仰ぎ、顔を歪め、泣き出す寸前のような震え声を絞り出す。
「なんでだよ」
清水はなおも、何も言わない。福田は低く唸りながら片手で顔を覆った。
「なんでハルなんだよ、なんでお前じゃなくて、くそ、ふざけんな……なんで……」
責め立てる声がやがて行くあてのない嗚咽に変わる。それを皮切りに次々とすすり泣きが伝染していった。吉野と大して仲良くもなかった僕ですら、涙が溢れそうになるのを必死で堪えていた。こんなとき皆を元気づけるのはいつもあいつだったんだ。常に明るい声を響かせ、笑いをもたらし、クラスを一つにまとめていた要を喪ったことを、もう二度と戻らないのだということを、僕らはようやく理解した。
三年生に進級した当時、吉野は五十音順名簿の最後で、僕の一つ後ろの席だった。
同じクラスになる前から彼のことは知っていた。サッカー部のキャプテンで、背丈と声が大きく、容姿にも恵まれた『最上位』。モテてうるさくてとにかく目立つ、僕とは違う世界の人間。下々の生徒なんて視界にも入らない傍若無人な奴なんだろうと勝手に想像していた。だから始業式の日、後ろの席が吉野だと分かったときにはかなり憂鬱になったし、終礼で配られたプリントはなるべく背を向けたまま、目を合わさずに渡すようにした。
しかし不運にも、最後に配られた学級通信は一枚足りなかった。反射的にどうすべきか考える。俺のがないじゃねえかと騒がれたらおっかないし面倒だ。先生はもう話を始めてしまっているし、足りませんと言って堂々遮る度胸もない。自分のぶんはあとでこっそり取りにいけばいいやと、肩越しにプリントを渡したそのとき、
「先生! もう一枚!」
大きな声に驚いて振り返った。目が合った吉野はにかっと笑った。彼にとってはなんでもないことだったんだろうし、こんな小さなできごとを今でも覚えているなんて馬鹿みたいだけれど、僕はあれから吉野のことがなんとなく好きになったのだ。もちろん友情が芽生えたわけでは全くない、ただ僕にないものを何もかも持っている彼が、対等に話すこともできないくらい輝きを放つ彼が、それでもちゃんと僕を見ていたというだけのことがとてつもなく嬉しかったのだ。
「いやー、めちゃくちゃしんどかったな今日」
放課後。僕はクラスメイトの辻元と二組の小西とともに、駅前のマックの片隅でフライドポテトをつまんでいた。僕ら三人は一年の時から同じ塾に通っていて、三年にあがってからは塾が休みの日にはよくここで受験勉強をしている。しんとした自習室や図書館より、適度な雑音がある場所の方がかえって集中できるものだ。というのは建前で、勉強の傍らだらだらと駄弁りたいというのが本音なんだけれども。
「あー、吉野な。朝礼の時に聞いた」
小西が頷く。「しかも原因キスなんだろ?」
噂はクラスの外にも広まっていた。人の口に戸は立てられない。あれだけ目立つ奴のこととなればなおさら。
「まあ十中八九。そんで犯人捜しよ。林と福田はキレるわ、浅田はヒス起こしてどっか行くわ、平川が空気読めねえこと言って流血沙汰になるわ、最終的には皆泣き出すわ。最悪だったよな」
なあ山村、と同意を求められ、僕は曖昧に頷く。茶化すような口調は不謹慎にも思えるけれど仕方がない、クラスメイトとはいえ、僕らと吉野では生きる世界が違う。テレビの中のスキャンダルと同じ感覚で話題にしてしまう辻元の気持ちも理解できた。
「事故チューで死ぬって相当間抜けだし、あいつだったら絶対笑い話にしたがるのにな」
辻元はふにゃふにゃのポテトを選り分けて口に放り込みながらまくしたてる。「もしあの場に吉野の幽霊がいたらさ、『おいおい誰だよ皆泣かしたの!』とか言ってそうじゃね」
全く似ていない声真似、けれど容易に想像できてつい笑ってしまう。
「すごく分かる」
「だよな?」
「お前だよ! ってクラス総ツッコミが入るね」
「霊感がないばっかりにツッコミ不在で申し訳ねえなあ」
「でも皆を泣かしたという観点から言えば、吉野というより清水のせいなんじゃ?」
小西が唐突に出した清水の名前に驚いて、僕はろくに噛めていないポテトを飲み込み激しくむせた。彼女のことまで他のクラスに知れ渡っているのか。
「おい大丈夫か?」
「あー、山村はショックだったよな」
むせる僕の背中を辻元がさすってくれた。小西はトレイから僕のウーロン茶を取って手渡してくれる。
「そっか、清水と仲良かったもんなお前。何も聞いてなかったの?」
僕は喉に詰まったポテトをウーロン茶で流し、息を吐く。
「……聞いてないし、ショックというか信じられないよ……」
僕の知っている清水は、人が死ぬような危険を冒してまで欲望や好奇心を満たそうとする奴じゃない。普段の彼女のおっとりとした振る舞いと、吉野とキスしたと聞いて想像する女子の姿が全く結びつかない。
「大人しいし、優しいんだよ。恋愛で羽目外すなんてありえない」
「やっぱ意外だよなあ」
意外と言うなら、と小西が急に声をひそめる。
「そもそも釣り合いがね」
「それは俺も思った、失礼ながら」
「どういうこと?」
彼らの言いたいことはなんとなく分かっているくせに、僕は白々しい疑問を投げかける。だってそうしなければ清水に悪い気がして。
「普通はイケメンのお相手は美少女、陰キャの相手は陰キャだろ。林の言ってた通り、浅田ならお似合いだったんだけどなあ」
残念そうな言葉とは裏腹に、辻元の口許は緩んでいる。彼は前々から浅田さんのことを好きなアニメの推しに似ていると言っていたので、吉野の相手が彼女じゃなくて安心しているのだろう。小西もそれが分かったのか、すかさず彼の脇腹を肘で小突く。
「だからって浅田とお前は万に一つもねえぞ」
「分かってるようるせえな」
「でも浅田さん、明日から学校来るかな」
「来てくれねえと目の保養に困る」
あのあと浅田さんは結局戻ってこなかった。慰めに行った友人たちだけが昼休みに戻ってきて、彼女の荷物を持っていったことから察するに、恐らく早退したのだろう。
林と平川は五限から復帰し、教室に緊張を走らせた。特に林の発する殆ど殺気と言っていい怒気は少しも薄らいでおらず、福田でさえ話しかけるのをためらっていたほどだった。彼の爆発を避けるためか、終礼での先生のお説教も名指しを避けた無難なものになり、林は不機嫌なまま、平川は関心を失ったような無表情のままで、一言も発することはなかった。
「でも清水なら清水で吉野の株が上がるよな」
「確かに。性格重視の堅実な選択というか」
辻元と小西は飽きることなく吉野の相手についての見解を言い交わしている。
「まあ偉そうに言えるほど清水のことよく知らねえんだけど。山村から見てさ、あの二人はお似合いなわけ?」
お似合い。
僕は言葉に詰まる。即座に頷きたい気持ちはあるのに、どうしてか動けない。いつも真摯にキャンバスに向かい、繊細に筆を操って、人柄を表すように柔らかく優しい色合いの水彩画を描いていた清水。絵と向き合う彼女の真剣な瞳が、こちらを向いた途端にふわりと和らぐのが僕は好きだった。吉野みたいなかっこいい奴が、大人しく目立たない彼女を見つけてくれるなんて、まるでおとぎ話だ。事故のことはともかく、それ自体は喜ばしいことのはずだ。なのにどうして。
「あー」
僕の戸惑いを察したのか、辻元が気を遣って話を変えてくれる。「とにかく早く卒業してえよな。死んだのが吉野じゃなくて俺だったら全くギスギスしなかっただろうに、残念だ」
「お前とキスした奴むしろ同情される説」
「泣くぞ」
ふざける二人に合わせて僕も笑顔を作った。笑いながら、頭の中は清水のことでいっぱいだった。浅田さんのことより、清水が心配だ。明日から学校に来るのだろうか。
『人殺し』
棘のような声が今も耳の奥に残っている。今日一日、僕は清水に話しかけることができなかった。人と関わるのに消極的な彼女にはあまり友達がいない。クラスの中では僕が一番親しいつもりだった。他の誰が責め立てようと、僕だけは彼女の味方でいなければいけなかったのに。じわじわと胸に広がる苦い後悔をごまかすように、ポテトを三本まとめて口に押し込んだ。舌に滲みる塩気が痛かった。
翌朝もまた雪が降っていた。自転車通学は当分できそうもない。仕事に向かう父さんの車に乗せてもらい、普段より少し早く学校に着く。
校門へ続く道は新雪に覆われていた。まっさらな白に足跡を刻むのは普段ならとてもわくわくすることなのに、足は弾まない。教室に向かうのは気が重い。この一年である程度連帯感が生まれ、居心地良くなっていたクラスの雰囲気は、昨日の出来事で修復不可能なほど険悪なものになってしまったから。
どこかで時間を潰すべきか。悩みながら校門を抜け生徒玄関に向かう途中で、微かな水音が耳に届いた。
校舎横の体育館の方からだ。コンクリート製の手洗い場の前に、紺色のコートを着た男子生徒が一人、腰を屈めている。部活の朝練に備えて顔でも洗っているのだろうか、想像するだけで凍えそうだ。しかしその細身の後ろ姿はどことなく見覚えがあるもので、思わず足が止まった。
「平川?」
驚いたように振り返ったその顔はやはり平川だった。昨日林に殴られた頬や口許、目の周りが、腫れていたり青紫の痣になっていたりとかなり痛々しい。彼は僕を認識するなり面倒そうに眉をひそめる。
「山村?」
「う、うん」
「なんか用か」
いつもと変わらない温度の低い声。関わるな、と言っているようにも聞こえる。
「何、してるの」
けれど気になって、つい歩み寄った。平川の手がぴくりと動いて何か茶色い塊を掴む。隠そうとしたのだろうか、でもそれより早く僕は見てしまった。泥にまみれた学校指定の上履き。頭を殴られたようなショックを受けて、かけるべき言葉を探して、目を泳がせた先には踵の部分にマジックで書かれた名前が――
清水
「え」
今度こそ愕然とした。平川はひとつため息をついて僕に背を向けた。湿らせたハンカチで靴の汚れを丹念に拭っていく。乾いた泥が徐々に剥がれ落ち、地の白色が覗く。あっという間に茶色く染まったハンカチをまた洗って、絞って、また拭う。細く骨張った指は真っ赤になっていた。
「……手伝うよ」
「いい。すぐに終わる」
その一言に重なるように、校門の方から挨拶を交わす男子たちの声が聞こえた。反射的に体が強張る。クラスメイトかもしれない、林や福田かもしれないと思うと膝が震えた。こちらに気づくだろうか。平川と一緒にいることを、どう思われるだろうか。
「行けよ」
僕の怯えを察知したのか、平川が淡々と促した。汚れた靴はもう一足ある。留まって手伝おうと思っていたはずなのに、僕の足は無意識のうちに後ずさっていた。その事実にひどく打ちのめされる。清水の友達を名乗る資格を、たった今、自分自身で踏みにじってしまったようで。
「ごめん」
情けない小声を残して踵を返す。一刻も早くここから逃げ出したかった。林たちへの恐怖以上に、平川に顔向けができなかった。
「おい」
即座に呼び止められる。振り向けない僕に押し殺した一言がかかる。
「言うなよ」
誰に、何を。訊かなくたって嫌というほど分かる。頷くと、平川はそれ以上念を押すことはなかった。再び流れ始めた水音を背にして、僕は生徒玄関へと駆け出した。
朝礼が始まる時間になっても、清水は教室に来なかった。
空席は他にも三つあった。林、福田、そして浅田さん。最低だとは自覚しながら心底ほっとした。清水が責められるところも傷つくところも見なくて済むのだと思うと、鉛を抱えているようだった体がほんの少しだけ軽くなる。
しかしだからといって、クラスの雰囲気がよくなるわけではない。授業中や休憩時間にふと聞こえる囁き声や、ちらちらと交わされる視線は、教室の空気を負の感情で澱ませていくようだった。午前の授業が終わり、給食の時間が過ぎ、昼休みのチャイムが鳴って、僕はようやく深く息をすることができた。
これがあと数週間続くのか。教室にいたくない一心で、辻元を誘って図書館にでも行こうかと考えながら腰を上げた瞬間、
「山村、ちょっといい」
タイミングよく名前を呼ばれた。斎藤さんだ。給食ワゴンを片付けるのを手伝って、とでも言われるのかと思ったけれど、近寄ってきた彼女は深刻な顔をしていた。
「どうしたの」
たずねると無言で手首を摑まれ、廊下へ連れ出される。窓際まで来てから斎藤さんはようやく振り向き、押し殺した声で告げた。
「清水さん、美術室にいるから、ちょっと様子見てきてくれない?」
「え」
学校に来ていたのか。喉の奥がぎゅっと締まった。泥まみれの上履きが脳裏にちらついた。
「先生に頼まれて給食持って行ったの。でもわたしより、山村が行った方が元気出ると思うからさ」
誰もが清水を責め、恨み、あるいは蔑む中で、斎藤さんは純粋に心配してくれている。なぜだか僕が泣きそうになってしまう。目の前で恋人を亡くした上に、加害者として恨まれ嫌がらせを受ける清水が痛ましくて仕方なかった。かけられる言葉などなくても、傍にいて、味方でありたい。でも。
「……僕じゃ、駄目だよ」
あんな裏切りの後で友達面なんて、恥知らずにもほどがある。今だってもし林や福田がこの場にいたのなら、会いに行く勇気なんてきっと出なかった。
「僕よりも、平川に頼んだ方が」
「平川? なんで」
斎藤さんが怪訝そうに首を傾げたのを見て、しまった、と焦る。教室での平川はいつもと同じ無表情で静かに本を読んでいるだけだ。
「なんでもない、大丈夫。行ってくる」
慌てて取り繕ったせいで、つい引き受けてしまった。斎藤さんはまだ不思議そうにしながらも、安心したように笑った。
「元気になったら授業来てねって言っておいて」
その言葉も先生に託されていたのだろうか。学級委員は大変だ。斎藤さんと別れ、僕は美術室へと向かった。
美術室は三年生の教室と同じ四階にある。美術の授業以外では全く使わないひっそりとした渡り廊下の先、校舎の端っこだ。生徒の生活動線から見事に外れた位置の悪さからか、美術部は毎年新入部員の獲得に苦しみ、今年僕らが引退したことでついに実質的な廃部となっていた。
扉に手をかける。鍵はかかっていない。中へ入ると人はおらず、四限目に使われたのだろうニスの匂いがかすかに残っていた。二人だけの部活にこの部屋は広すぎて、僕らはいつも、隣接する小さな準備室で制作をしていた。部屋の奥まで進み、準備室のドアを軽くノックする。
「はい」
清水だ。ドアを開けた。泣いているのではないかと思ったけれど、見慣れたイーゼルの向こうからひょこりと覗いた顔は驚くほどいつも通りだった。
「山村くん」
黒縁眼鏡の向こうの目も、色の白い頬も、少しも濡れた様子はない。安心しつつも、どこか拍子抜けする。
「絵、描いてたの?」
「うん」
清水は窓の外に目をやった。ここからはちょうど三年生の教室が見える。窓枠の向こうでいくつもの小さな人影がうごめいている中、五組だけは時が止まっているようだった。
「さぼっちゃった」
「いい、と思うよ、たまには」
「そうかな」
むしろ卒業式まで学校には来ない方がいい。来ちゃ駄目だ。そう言っていいのか迷って、視線を落とす。行儀よく並んだ清水の上履きは少し薄汚れてはいたけれど、泥は綺麗に落ちていた。
「山村くんは」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。清水は僕を見ていなかった。生真面目な表情で面相筆を構え、まるで作品に語りかけているように囁く。
「どうしたの。何か描きに来たの?」
少し血の気の失せた唇が、小さく動く。リップグロスなんて塗っていないのだろう、艶のない、でも柔らかそうな唇。吉野と触れ合った唇。その生々しい、確かな感覚に比べれば、どんな励ましも慰めもちっぽけで幼稚なものに聞こえてしまう気がした。冷たい水に躊躇なく手を晒して上履きを拭っていた平川の背中を、どうしてか思い出していた。
「山村くん?」
何も言わない僕を訝しく思ったのか、清水がこちらを見る。穏やかで落ち着いた眼差し。あまりに普段通りに見えて、昨日の発言は全て冗談だったんじゃないかとすら思えてくる。
「……吉野の、どこが好きだったの」
衝動的にたずねてしまって、すぐ後悔した。清水が目を瞠った。穏やかな表情があっという間に崩れ、限界まで張りつめた眦が震える。泣き出してしまうのではと焦って、ごめんと口走りかけた。けれど。
「内緒」
――誰もに好かれる吉野の、誰も知らない一面を、大切に心の奥にしまい込むように。
清水は目許を和らげて微笑んだ。その表情がとてつもなく綺麗に見えてうろたえる。吉野は清水のどこが好きだったんだろうか。彼女の決して目立つことのない美しさに気づいていたんだろうか。そうだとしたら嬉しい、嬉しいことのはずなのに、どうしようもなく悔しいのだと今更のように気づく。僕だけが知っていたはずだった清水のやわらかな魅力は、いつの間に吉野の手の中にあったのだろう。あいつは本当に、全てを持っていたんだ、僕にないものを、何もかも。
「……それ、どうするの」
卑しい考え方をする自分が嫌で、気を逸らそうと話しかけた。
「コンテストに出すとか、考えてるの」
「ああ、これ」
清水は筆を止めずに、なんでもないことのように笑う。
「捨てようと思うんだ」
「え?」
聞き間違いかと思った。目の前の丁寧な筆遣いと、捨てるという言葉がすぐには結びつかない。
「なんで」
「捨てなきゃいけないの。でもどうしても完成させたかったから」
「捨てなきゃ、って」
どうして。吉野が死んだからか。自分への罰だとでも言うのだろうか。呆然とする僕を尻目に清水は、小刻みに動かしていた筆をそっと紙から離した。
「できた」
パレットを置き姿勢を正して、清々しい表情で作品を見つめる。つられて僕はイーゼルの正面へ回り込み、初めてその絵と向き合った。
白い。
真っ先に目に飛び込んできたのは、雪だ。降り続く雪。淡くやわらかいのに、冬の朝の空気のように冴え冴えと眩い。ひとかけらすら手を抜かず描き込まれた、圧倒されるほど優しい白の向こうには、クリーム色の校舎の外壁と見慣れた窓が――ここから見た、僕らの教室があった。半ばまで閉められたカーテンの隙間から何かの影が覗いている。見たこともない形をしたそれがなんなのか、しばらく考えていると唐突に理解できた。人だ。二つの影が寄り添って、まるでひとつの生き物のように輪郭を融け合わせている。雪の降る音が聞こえてきそうなほどの静寂に包まれて。
清水と、吉野なのだろうか。
言葉も出なかった。僕の頭では、この作品に見合う言葉は思いつかない。
イーゼルから淡々と絵を取り上げようとする清水の手を、反射的に摑んでいた。だってこんなに美しい白を僕は初めて見たのだ。純粋で、どこまでも透き通って、触れることすらためらわれるほど澄み切ったこの絵が清水の想いそのものなのだとしたら――
「本当に、吉野とキス、したの」
どうしても信じられずにたずねた。清水は否定も肯定もしなかった。
「一人じゃたぶん踏ん切りつかないから、山村くん、見ててくれない」
摑んだ手をやんわりと外される。なおも縋ろうと微かにあがいた指先は届かない。届くはずもないほど深い思慮の末に決められたことなのだと思い知る。
「わたしと一緒にいると、嫌なこと言われるかもしれないけど」
「いいよ、そんなの。どうせもうすぐ卒業するんだし」
苦い後悔がこみ上げた。どうして今朝、平川の前で同じことを言えなかったんだろう。どうして、あと数ヶ月もない教室での立場なんてかなぐり捨てて、清水の味方になってやれなかったんだろう。
「ありがとう」
何も知らない笑顔が、詰る言葉よりも鋭く胸に刺さった。合わせる顔がないと思う自分と、それでも拭えない想いを繋ぐ楔のようだった。きっとこれから先どんな罪滅ぼしをしたって抜けないままで、清水の顔を見るたび痛んで、でもそれでいいのだと思う。
美術室を出てすぐの非常階段から、僕と清水は外に出た。雪はいつしか小降りになっていた。階段を下りきり、内履きのまま雪を踏みしめる背徳感は、やがて爽やかな解放感に変わる。髪や制服が濡れていくのも構わずに、僕らは無言で歩いた。
「ここでいいかな」
人気のない校舎裏で立ち止まった清水は、近寄ろうとする僕を片手で制止した。
「ごめん、付き合わせておいてわがままなんだけど、そこで待っててもらってもいい?」
「あ、うん、分かった」
見えない境界の向こうで、スカートに覆われた膝が雪に触れる。ゆっくりと広げられた絵は冬の空気に溶け込み、そのまま消えていってしまいそうに見えた。細い指が制服の胸ポケットを探る。取り出したのは小ぶりなライターだ。僕の動揺を感じ取ったのか清水はこちらを振り向き、人差し指を伸ばして、唇にそっとあてがい微笑んだ。
暖かな灯りが一面の白にぽつりと浮かぶ。火は頼りなげに揺らめき、絵の端をじっくりと舐め、やがて激しく燃え広がる。紙が裂け、苦悶するように歪み、情景はあっという間に黒く塗り潰されていく。
風が吹いた。清水が手を離すと、くしゃくしゃに縮んだ絵のなきがらは少し飛ばされて、すぐさま雪に受け止められる。舞い上がった灰は降り続く白いかけらとすれ違いながら、躍るように楽しげに空へと吸い込まれていく。もう戻らないそれを、僕らは別れも告げずに見送った。
美しい絵だったものを。清水の好きだった人を。
この作品は、所属している文芸サークルのサイト(https://parcaesstrelitzia.web.fc2.com/)にも重複掲載しています。