97 ディルガエア王の苦慮
やっと積み上がっていた書類の処理が終わり、ディルガエア王、アダルベルトは安堵していた。
ここ数日、執務室にひとり籠りっきりだったのだ。執事、メイド、共に執務室から追い出し、黙々と書類を処理していたのである。
部屋から出たのは、食事、トイレ、風呂の時のみであり、それ以外はずっと書類とにらめっこをしていたのだ。
全ての書類が片付き、これで安心して八ノ月の一日を迎えられる。ほっと息をつき、執務机に隠し持っていた酒をひとり楽しんでいた。
この酒は高級なものではない。どちらかというと安酒の部類に入るものだ。というのも、酒精が弱く、水代わりに飲む者もいるくらいの酒だからだ。
立場上、昼間から飲んだくれるわけにはいかない。だが、酒は飲みたい。そんな願いを叶えてくれた酒がこの発泡果実酒だった。
もともとは葡萄酒の出来損ないとされてきた発泡葡萄酒。それをヒントに、別の果実でつくられたのが、この安酒である。安酒などといっているが、この酒に限っては品質の悪い酒、という意味合いの酒ではなく、単に安い値段の酒という意味だ。
数年前から出回り始め、最近では農夫たちが好んで飲んでいるようだ。アダルベルトはお忍びでの娼館通いをしている際、この酒と出会い、以来、愛飲している。いくつか種類があるが、アダルベルトのお気に入りは、桃でも杏でもなく、林檎の発泡酒だ。
シュワシュワとした喉ごしと、林檎の風味がたまらない。
ただ、最近、不穏な噂を聞いた。
この発泡果実酒を作っている醸造所が買収され、潰されるという噂だ。なんでも最近急激に勢力を伸ばしたハロン醸造所が、ここの発泡酒を毛嫌いしているという話だった。だが、そのハロン醸造所はそれまでの悪行から潰れ、いまではレブロン男爵が買取っている。
そのため、この噂が単に噂で終わるか、それともレブロン男爵が引き続き潰しにかかるのか、注視しているところだ。
もし潰そうとするのなら、連中より先に、醸造所の経営権を買い取ってしまおう。
いや、レブロン男爵はキッカ殿に云いがかりをつけていたな。その真意次第で男爵の扱いが変わって来る。ふむ、まずは一日の様子を見てからだな。
そんなことを思いながら、陶器製の酒瓶からグラスへと酒を注ぐ。
グラスを満たす淡い琥珀色の酒に、ひとりニマニマとしていると、執務室の扉が叩かれた。そして入室の許可もないのに扉を開け、赤毛の青年がずかずかと入って来た。
入室してきたのは、アダルベルトの息子、アキレスであった。
「父上、一大事です」
「アキレス、どうしたのだ? 騒がしい」
アダルベルトは慌てて酒瓶を隠した。
「城下に不死の怪物が現れました。先の不審な殺人事件、犯人が吸血鬼という噂も一笑に付するわけにもいかなくなりました」
アダルベルトは顔を半ば顰めるように目を細めた。
「それは真実なのか?」
「不死の怪物を捕らえました。いまは地下牢に幽閉してあります」
「それは大丈夫なのか? 警備は?」
「問題ありません。拘束し、箱詰めにしたまま牢に入れてありますから」
息子のその言葉に、アダルベルトは思わず目を瞬いた。
聞き違いか? 箱詰めと聞こえたが。
「箱詰め、なのか?」
「はい」
「いや、なぜ箱詰めなのだ!?」
「バタバタと動かれても目障りだからと、バレリオ卿が箱に放り込んだそうです」
アキレスの言葉に、アダルベルトは眉をひそめた。
バレリオ卿だと? なぜ彼の名前がでてくるのだ?
「最初から話せ。なぜイリアルテ侯爵の名が出て来る?」
問うたところ、アキレスは順を追って説明を始めた。
まず、イリアルテ家からの使者により、不死の怪物捕縛の報がもたらされた。アキレスは直属の、不審死の捜査に携わっている兵士と共にイリアルテ家へと直行した。そこで渡されたモノは、箱詰めにされた不死の怪物。
不死の怪物は拘束された上、袋を被せられ、さらに箱詰めにされるという、念の入った措置をとられていた。
不死の怪物を捕縛したのはキッカ殿。なんでも城下見物の折、襲撃され、それを返り討ちにしたのだそうだ。
「キッカ殿曰く、治安維持隊の兵士たちが、適切に対処するのかどうか、不安だったそうです。なにしろ、街中には絶対に存在しないハズの化け物ですからね。そんなものの侵入を許し、野放しにしていたとあっては、任せるのは不安になるというものでしょう」
息子の言葉に、アダルベルトは表情を曇らせた。なんとも情けない話だ。
「無力化した不死の怪物を緊縛し、侯爵邸へと運ぶために袋に詰めたそうです。なぜそんな大きな袋を持っていたのかは謎ですが。そして箱詰めに関しては先に云った通りです」
そういってアキレスは苦笑めいた笑みを浮かべた。
「それで、キッカ殿は無事であったのか? 怪我は?」
「……無傷でしたね。私が現れたことに驚いていたようですが」
それは当然だろう。本来、王族は軽々しく動くものではないのだ。それにしても無傷とは、キッカ殿はどれほど強いのか。それとも、不死の怪物に対してのみ強いのであろうか?
「ふむ……。しかし、不死の怪物を生け捕りか。なぜキッカ殿は生け捕りにしたのだろうな? ゾンビの群れを一瞬で焼き払うこともできる御仁だぞ。生け捕りなど面倒であったろうに」
「なんでも、キッカ殿を狙っているような言動をしたそうです。実際、イリアルテ家で簡単に尋問してみたのですが、キッカ殿を睨み、『お前を連れていく』としか云いませんでしたからね。
ただ、キッカ殿を特定して狙ったのか、単に若い女性を狙ったのかは不明です。
キッカ殿がアレを生け捕りにしたのは偶々だそうです。当初は灰にしないように気を付けて滅ぼすつもりだったようです。街中に不死の怪物がいるという証拠を残したかったそうですよ」
なるほど。確かに灰となってしまっては、不死の怪物がいたと云っても、信じる者はまずいないだろう。少なくとも、彼女のことを知らぬ者ならば。
「それと、昨日の侵入者騒ぎとの関係も確認しました。賊の遺体を運んだものに確認を取らせたところ、恐らく、同一人物であるとの証言を得ました」
「なんだと!? では、昨日の賊は不死の怪物であったのか!?」
「もしくは、生きたまま不死の怪物となっていたかのどちらかでしょう。落下死したのでしょう? 一度死に、そして体の修復を待って逃げたと見るべきでしょう」
アダルベルトは口元に手を当てると、考え込むように俯いた。
「その不死の怪物とは意思の疎通はできるのか?」
「人語は解しているようですが、どうなのでしょう。こちらのいうことを一切無視していますからね。ただ同じ言葉を繰り返しているだけ、ともとれます」
「審神教に助けを請うか。尋問にたちあってもらうべきだろうな。あと、バスケス子爵にもこのことを伝えておけ。こんなものが跋扈しているなど、あってはならんことだ。最近は治安維持隊の評判も落ちているからな」
治安維持隊の評判。そんなものを国王陛下が何処で聞いてきたのか、察しがついてアキレスはため息をついた。本来、そんなものは余程の失態でも起こさない限り、国王の耳にまで届くことはないのだ。
「父上、お遊びはほどほどに」
「もう行っておらんわ。さすがにこれ以上オクタビアの機嫌を損ねるほど、私は阿呆ではないぞ。
あぁ、アキレス、話は変わるが、今後も事件の捜査は続けるのだろう?」
「えぇ、そのつもりですが」
「ならば、この剣を持って行け。不死の怪物を殺すことのできる武器だ」
アダルベルトは執務机の端に置いてあった木箱を取り、その蓋を開けた。
「この剣は……」
アキレスは箱の中に納められている、青く透き通った剣に言葉を失った。
硝子で作られた剣? 確かに見事な造形だが、それでは単なる美術工芸品でしかない。だが、そんなものを『使え』と、父上が云う筈がない。それにはっきりと、不死の怪物に対抗できる武器と断言していた。
アキレスは剣から視線を上げ、アダルベルトをしっかり見つめた。
アダルベルトは、してやったりというような笑みを浮かべていた。
「キッカ殿より献上された剣よ。なんでも、神より下賜されたものだそうだ」
「な!? 神剣ですと!? そんなものをキッカ殿は献上したのですか!?」
「なんでも神が、贈答用に使えと、キッカ殿に渡したものだそうだ」
アキレスの口元が引き攣った。
何故に贈答用。いったいどういうことなのだ!?
「アキレス、口を閉じろ。お前の悪い癖だ。どんなに驚愕することがあろうとも、堂々としていろ。今のお前は馬鹿みたいに見えるぞ」
云われ、アキレスは慌てて口を閉じた。口を閉じ、そして、ごくりと唾を呑み込んだ。
目の前にあるあり得ない造形の剣。不死の怪物を屠ることも可能な剣。それも神剣であるという。畏れを抱くのも当然のことだろう。贈答用というのが謎ではあるが。
「ち、父上、私に神剣を帯剣せよと?」
「そうだ」
「父上、そんな畏れ多い。私などが――」
「キッカ殿が云っていたが、道具は使ってこそだ。それにその神剣は、キッカ殿が実用できるレベルに調整しなおしたとのことだ。ただ飾っておいたのでは、キッカ殿に申し訳ないだろう」
父の言葉に、今度は目を瞬いた。
「は? キッカ殿は、魔け……神剣を鍛え直すことができるのですか?」
「いや、仕上げの調整や、砥ぐことができるだけといっておったな。だが、そういった類のものを砥げる職人など、私は他に誰も知らぬな」
アキレスは剣を手に取る。少々変わった形状の剣だ。刀身が対称になっておらず、剣先部分の片側が鋭角に膨らんでいる。その為、剣の重心がやや剣先寄りだ。恐らくは、剣を振った際により遠心力を利用するための工夫なのだろう。
「しかし、本当に良いのですか? もし、神剣を折りでもしたら――」
「だからどうしたというのだ。剣というものは飾っておくものではない。振るってこそのものだ。しかもそれは神剣。それが折れるような攻撃ならば、剣が折れるよりも先に担い手が跡形もなく消し飛ぶわ」
そういって、ニタリと笑む。
「その神剣は斬り付けた相手の活力を奪い、担い手のものとするするそうだ。いうなれば疲れ知らずの剣といったところか。ただ、二十五回、敵を斬り付けると魔力切れを起こすそうだ。魔力の充填には魔石を使う。充填用に、幾つか持っておくことを忘れるなよ」
「わかりました。で、充填はどのようにして行うのですか?」
「……」
アダルベルトは押し黙った。
確か、キッカ殿が方法を云っていた筈だ。だがそれを思い出せない。
視線を神剣の入っていた箱に向ける。そこには神剣について書かれた羊皮紙があった。
そう、こういう時にこそ説明書を読むべきだ。
「……父上」
「……魔石を一緒に握り込んで、気合を入れれば充填されるそうだ」
半ば閉じた目で息子に見つめられ、アダルベルトはたじろいだ。
「ま、まて、息子よ。説明書を読むのは、こういう場合であろう?」
「いえ、あらかじめ読んでおくものですよ、父上」
そう答え、アキレスはそれこそ処置無しといわんばかりに、肩を竦めて見せた。
◆ ◇ ◆
ディルガエア王国宰相マルコスが、またも王宮内を走っていた。
このところ、あまりにもバタバタと走っているのを見かける為、王宮内では半ば名物となりつつあった。
マルコスは国王の執務室にまでくると、ノックをしながらドアを開け、勝手に入室した。
「陛下! 一大事にござりますぞ!」
血相を変えて執務室に飛び込んできたマルコスに、アダルベルトは不機嫌そうに目を細めた。
「マルコス、いったいなんなのだ? 不死の怪物の件ならもう、アキレスより報告を受けているぞ」
「不死の怪物ですと!? そんなことは、私は聞いておりませんぞ!
いや、それも一大事にござりますが、これはそれ以上の大事ですぞ!」
アダルベルトの言葉に驚くものの、マルコスはすぐにもたらされた緊急の報告を国王に伝えた。
「治安維持隊と聖堂騎士団が衝突いたしました。治安維持隊の一部の者たちに神罰が降り、ビシタシオン教皇猊下が断罪、捕縛しました」
あまりのことに、アダルベルトの脳は、その言葉を理解することを放棄しかけた。だが、そんなわけにはいかない。
一瞬、呆けたようにアダルベルトはぽかんとしていたが、言葉の意味をしっかりと理解するや、慌てふためいた。
「な、なにがあったのだ!?」
「そ、それが、治安維持隊の一部隊が、キッカ殿に窃盗の濡れ衣を着せ捕縛。その上で裸――」
「いい、皆まで云うな! 言葉だけでもキッカ殿を穢した気分になる」
マルコスの言葉を止め、そしてアダルベルトは頭を抱えた。
最悪である。
なにより、神罰が降ったというのだ。それは女神ディルルルナの介入があったということだ。本来、人の諍いなどに介入することのない神の介入だ。それがどれだけ悪い事態であるかは、火を見るよりも明らかだ。
明後日には勲章伝達式だというのに、とんでもない失態だ。隊員全員を調べあげ、まともな人物のみで部隊を再編するには、時間がまるで足りない。
こんなことなら、悪い噂を聞いた時点で、厳しく対処しておくべきだったと、いまさらながらに後悔していた。
だが悪い噂のひとつふたつで、目くじらを立てるのも問題ではあるのだ。職務上、嫌われたり、敬遠されることも多いのだから。
「更迭なさいますか?」
「いや、いま更迭するわけにはいかん。代わりを務める者がおらぬ。ひとまず綱紀粛正を徹底させろ。
で、キッカ殿を罪人に仕立て上げようとした馬鹿は誰だ? 王都の治安を守る者としての誇りに泥を塗った者は?」
アダルベルトが訊ねた。
「パチェコ子爵の私生児を中心とした兵士五名だと」
「ほう。パチェコ子爵の。出生を示す物はなにか持っていたのか?」
「子爵家の紋章の入った護身刀を所持しているとのこと。同僚によく見せびらかしていたとか」
「ふむ。ならば、一応は子爵家の跡取り候補というわけだな? ……男、なのだろう?」
一応、アダルベルトは確認した。私生児を認知したとあれば、跡取りとなりうる男児であることが殆どだ。
「えぇ、男です」
「よし。ならば、子爵に責任を取ってもらうとしようか。自慢かどうかは知らんが、自分の息子がなにをやらかしたのか、しっかりと知った上でな」
アダルベルトがまるで肉食獣のような笑みを浮かべる。
「それでマルコスよ、キッカ殿はもちろん無事なのだろうな? 安否についてなにも云わぬのだから、問題ないと思うのだが」
「はい、しっかりと自衛されたようです。馬鹿共が魔女などと呼びはじめておるようですが」
「馬鹿者共が。バスケス子爵には、しっかりと絞め上げてもらわねばならんな。
それで、マルコス。教会のほうからは抗議は来ていないのか?」
「いまはまだなにも」
これだけのことをやらかしたと云うのに、教会が沈黙を保っているというのが、酷く恐ろしく感じられる。
「此度のことに関して、こちらから出向いて確認したほうがよさそうだな」
「では、私が行ってまいりましょう。事が事ですからな。使いの者をだすより、私が出向いた方がよいでしょう」
「すまんな、マルコス、よろしく頼む」
マルコスが出ていくのを見送ると、アダルベルトは椅子に深く腰掛け、背もたれに体を預けた。首が仰け反り、天井が目に入る。
深く息をつき、大きく吐き出す。
あぁ、こんなことで本当に無事に一日の式典を終えられるのだろうか。
今更ながら、アダルベルトは心配になるのだった。
誤字報告ありがとうございます。