76 長い一日が終わらない
彼女はベッドから跳ね起きるや、手早く身だしなみを整えると法衣に着替え、部屋から飛び出した。
同じように近くの部屋から、この教会の責任者であるバレンシア大主教も飛び出してくる。
神託。
神より遣わされる言葉。それは時と場所を選ばない。だが基本的に教会で活動している時に賜るもので、就寝中に神託があったという記録はなかったはずだ。
だが、彼女たちはいま、その神託に叩き起こされた。
なにより今回のこの神託は、信仰する女神の焦りも感じられたのだ。
「バレンシア様もですか?」
「えぇ、急ぎませんと」
宿舎を出、暗い街中をふたり並んで走る。
負傷者たちの介護も落ち着き、忙しい長い長い一日が終わった。そう思って就寝したのだが、どうやらまだ終わらないらしい。
サンレアン西側へと続く橋にまで来たとき、更にひとり加わった。
「バレンシア殿、ガブリエル殿、そちらにも神託があったようですな」
「ラドミール殿!?」
「はっは、飛竜襲来と聞いて、慌てて戻って来ました。まぁ、間に合いませんでしたがな。話は侯爵邸で。走りながらでは息が切れますからな」
大柄な赤毛の中年男は、ふたりに並走しながら楽しそうな笑みを浮かべていた。
その顔を横目で見、バレンシアはなにか諦めたような顔をしていた。
◆ ◇ ◆
「では、そのレイヴンと名乗る男に助けられたのだな?」
「はい。素晴らしい魔法の使い手でした。ゾンビをたちまちの内に灰に帰し、あの伯爵もあっという間に捕縛してしまいましたから」
助け出された翌朝、わずかながらも休み落ち着いたリスリは、父、バレリオに救出された顛末を話していた。だがその一部はあまりにも荒唐無稽に取れる物だった。なにしろ、話の中に女神が登場するのだ。それは致しかたないといえよう。
もし、先の魔法販売に関する会議の際に起きた勇神教の暴挙に対し、神々が介入するという事象に遭遇していなければ、頭から笑い飛ばしていたに違いない。
「粛清者か。これはガブリエル様に問い合わせた方がいいだろうな」
「そうですね。お礼はしませんと。例え目的が不死の怪物討伐で、そのついでであったとしても、娘を救ってくださったことには変わりありませんもの。あぁ、それと、月神教に寄付もしなければ」
エメリナがバレリオに云う。
リスリは無事な両親の姿を見て安心していた。攫われた時、この屋敷は多数のゾンビに襲われていたのだから。
リスリが屋敷に戻った際に捕らえられていたオルボーン伯爵は、現在屋敷の一室に軟禁中である。軟禁といっても拘束は一切解いていないので、拘禁といったほうが適切かもしれない。
「寄付か……今回のことで少々厳しくもあるが、なんとかしよう。それよりも伯爵の扱いだな」
「吸血鬼ですか。父上、どうしますか? 吸血鬼の対処の仕方など、私たちは欠片も知りませんよ?」
「伝説の通りだと、そもそも抑えることなど不可能としか思えんしな」
息子ダリオの言葉を聞きながらソファーに深く座りこみ、バレリオは大きく息をついた。
吸血鬼。人の血を啜り、永遠の時を生きる化け物。曰く、蝙蝠や狼の姿に変わることができる。曰く、自らを霧とすることができる。曰く、影と同化し姿を消すことができる。曰く、他者を魅了し操ることができる。曰く、雷と氷の魔法を自在に操ることができる。曰く、血を吸った者を自らの眷属とすることができる。
バレリオはそれらのことを思い出し、顔を顰めた。
「いまは完全に無力化しているようだが、いったいどうやったのだ?」
「まったくの無抵抗でしたわね」
「レイヴン様が捕らえる際、なにかしていましたけれど、詳しくはわかりません」
娘の答えに、バレリオとエメリナは顔を見合わせた。
「なんにせよ、下手に拘束を解くことは止めた方がよいな」
「えぇ、私たちでは止められませんよ。きっと」
ダリオが力なく答えた。今日のことでは反省することばかりだと、彼は落ち込んでいるのだ。飛竜討伐ではさして役に立てず、あげくに妹を攫われたのだ。
リスリ誘拐に関しては、ダリオは飛竜討伐のため前線にいたので、どうにもならなかったのだが、それでも自分を責めているのである。
「お兄様の助けは期待していなかったので、問題ないです」
と、帰って来た妹に云われたのでは、兄として立つ瀬もない。
リスリとしては、あれこれ全てをやろうとせずに、ひとつに集中すべきという意味で云ったようだが、言葉が足らずにまるきり気持ちが届いていない。
この辺りの機微は母親とは通じるのが問題なのかもしれない。更には、最近懇意にしているキッカとも通じていることが、やや気配りを忘れさせているのだろう。
「失礼します」
扉を開け、執事長のミゲルが姿を現した。
「旦那様。バレンシア様、ガブリエル様、ラドミール様がお見えです」
ミゲルが云い終える間もなく、三人が慌てたように室内へと入って来た。
「失礼します、侯爵。火急故、ご無礼ご容赦を。吸血鬼はどうなりました?」
「吸血鬼が運び込まれたと聞いています。吸血鬼は無事ですか?」
「バレリオ卿、まだ件の吸血鬼は生きていような?」
執事を押し退け、三人の大主教は立て続けにバレリオに問うた。
「待て、待て待て待て、その反応はなんなのだ?」
バレリオが慌てた。
「オルボーン伯爵を……吸血鬼を私がどうにかできるわけもなかろう。拘束をそのままに、部屋に軟禁してある。いったい何事なのだ? なぜ吸血鬼のことを知っている?」
「神託があったのですよ」
「バレリオ卿、あなたの昔の通り名を知っておれば、軟禁などと、そのような穏便な反応が出るとは誰も思いませんよ」
ラドミールが呆れたように答えた。
血鬼バレリオ。探索者時代、鉈を両手に魔物を薙ぎ払っていた人物である。三男である彼は早々に侯爵家を出奔し、現【アリリオ】出張所のネリッサやペペたちとともに各国のダンジョンを回っていたのだ。
ここで異名の元となったのが両手に持つ鉈。刃渡り約三十センチの肉厚な代物。刃と峰の幅も約十五センチほどもある、鉈としてはやや大ぶりで無骨なものだ。狭いダンジョンの通路では都合が良いと、そんなものを振り回し、魔物を容赦なく屠るのが彼の戦い方だった。
盾? そんなもん使う暇があったら殴れ!
そんな気概の彼は、小奇麗な状態でダンジョンに入り、必ず血塗れで戻って来ることから色々と異名をつけられたが、最終的に『血鬼』で落ち着いたのである。
もっとも、そんな暴れん坊の時代は、彼の両親と兄たちが病によって倒れるまでのことであったが。
ラドミールが呆れたように、バレリオのかつての評判を口にした。
「……お母様は知っていたのですか?」
詳細までは聞いたことのなかったリスリが、母エメリナに訊ねた。
「もちろん。血塗れの彼に求婚したのは私だもの」
リスリの顔があからさまに引き攣った。
血塗れのって、なぜその状態の父に求婚したのですか? わざわざそんな状態の時ではなくともよかったでしょうに。
リスリは思った。父も父なら、母も母だと。そして姉であるイネスのあの性格も納得できてしまった。王弟殿下は無事なのだろうか?
思えば、そうそう物怖じしない自分の性格も、ふたりから受け継いだものなのだろう。
「えぇい、いくら私が向こう見ずだと云っても、罪人の扱いくらい弁えておるわ。彼奴は陛下直々に裁いて貰わねばならん。さすがに私情に任せて、ここで処刑などせぬわ! 彼奴のその罪状は広く知らしめねばならん。我が街をここまで滅茶苦茶にしたのだぞ! 死者がでなかったのが不思議なくらいだ!」
やや顔を赤らめながらバレリオが云う。顔が赤いのは怒りの類の為ではなく、単に昔のことを掘り起こされて、恥ずかしいだけだ。
「それでは、私たちの用を済ませるとしましょう」
「えぇ、重要な案件ですから。ラドミール殿もそのことは神託を受けたのでしょう?」
「あぁ、その為に私はきたのだ。【看破】が必要だろう?」
ラドミールが答えた。
大主教ラドミール。祭神たるノルニバーラより【看破】の祝福を得ている者。彼の前においては、あらゆる虚実は無意味となる。
「神託ですと?」
「えぇ。テスカセベルムで使われた例の召喚具については、もちろん先日のことでご存じでしょう? それと同じものをオルボーン伯爵が使ったようなのですよ」
ガブリエルの言葉を聞くや、バレリオは真っ青になってソファーに倒れるように腰を落とした。
「なんということだ……」
「ここで神々が問題としているのは、召喚された者の行方です。凶悪な人物である可能性が高いとのことですので」
「私たちがここに来たのは、バレリオ卿が伯爵を処刑してしまうのではないかと思ったからです。伯爵には召喚に関して、洗い浚い話してもらわなくては」
バレンシアとガブリエルの言葉に、バレリオは疲れたように立ち上がった。
徹夜の状態ではあるが、眠いなどとは云ってはおれない。
◆ ◇ ◆
「処刑の時間か?」
「貴殿は陛下に裁いていただく。ここではなにもせんよ」
ベッドに横たわったままのオルボーン伯爵に、バレリオは抑揚のない声で答えた。
ここは伯爵を軟禁している部屋。伯爵はいまもってなお動くことができないようで、此処に連れてこられた時と同様の姿勢のまま、ベッドに横たわっている。
当然ながら、拘束のロープや目隠し、覆面のように覆った布には一切の乱れがない。
「ふふふ。血鬼バレリオともあろう者が、随分と丸くなったものだ」
「私が丸いのは年のせいだ」
父親のふざけた受け答えに、リスリは思わず額に手を当てた項垂れた。
「……お父様」
「待てリスリ、今のはわざとだぞ。本気で勘違いをしての受け答えではないぞ」
「あなた……あなたのその論法は分かり難いのですから、おやめなさいな」
娘と妻の冷めた視線に、バレリオはうろたえた。
「キッカ殿とは楽しく分かりあえたぞ」
「それはキッカ様が相手に合わせて話をしてくれるからです。どうして私がキッカ様の所に入り浸っていると思うのですか。それよりも、すべきことをしてしまいましょう」
打てば響く、というのはこういうことだとリスリは思っている。だが父との会話は、いうなれば打てば罅入るの類だ。
気持ちに余裕のある時は楽しいが、そうではないときは苛立たしいだけだ。
「まぁいい、本題に入ろう。オダリス卿、少々確認をしたいことがあるのだ」
「ほう? だが私が正直に答えるとでも思っているのかね?」
「別に嘘を吐いても構いませんぞ。嘘は嘘と分かりますからな。失礼、私は審神教大主教ラドミールと申す」
拘束のせいで表情は見えないが、伯爵の雰囲気が変わった。それをラドミールは察し、ぐいと片眉を上げ、口元に笑みを浮かべる。
「神の信徒が、神に見放された私に何用かね?」
「オルボーン伯爵、神があなたを見放したのではありません、あなたが神を裏切ったのですよ。言葉は間違えないように」
バレンシアが不快感を隠しもせずに横たわる伯爵を睨みつけている。
「地神教大主教バレンシアです」
「月神教大主教ガブリエルです。さて伯爵、こちらの質問に答えてもらいましょう。あなたは【召喚器】を用い、異世界から神の子を召喚しましたね? どこでその【召喚器】を手に入れたのか? 召喚した者はどうしたのか、話していただきましょう」
ガブリエルが伯爵の言葉など無視し、淡々と訊ねた。
「……あぁ、月神教の者もいるのか。すまないが、あの小僧に私が礼を云っていたと伝えてもらえないだろうか」
「礼? あの小僧とは誰です?」
「レイヴンと云ったか。少なくとも、これ以上私が道を踏み外すことを止めてくれたからな。あぁ……使用人たちの家族にも謝罪せねばならんな。全員殺してしまった」
抑揚もなく、淡々と話す伯爵の感情は読み取れない。
「ふふふ。神の子。神の子だと? あれが神の子などと、あってたまるものか。
……さて、あの骨をどこで拾ってきたか――からだな」
伯爵はゆっくりと話し始めた。
五年前、隠居の身であったオダリス・オルボーンは伯爵として復帰することとなった。跡取りであった息子夫婦、六人の孫のすべてが暗殺されたからである。いわゆる、貴族間抗争の末に起きた事件だ。
オダリスが現役時代に買った恨みが、息子たちに降りかかった結果だった。
血縁がいなかったわけでもないが、誰もが伯爵位を継ぐことを断ったのである。当主を含め、領都邸で働く者全員が毒殺されるという大事件であったのだ。誰でも自分の命は惜しいだろう。
むしろ、ここで嬉々として跡を継ごうなどといえば、この大量殺人の犯人と疑われ兼ねないと思ったのかもしれない。
結局、オダリスが復帰し、この暴挙を行った連中を見つけ出し、報復を終えたのが四年前。結果として幾つかの貴族家が取り潰しとなり、二十六名の首が単なる犯罪者として刎ねられることとなったのである。
そしてそれ以降、オダリスは暇をみつけてはダンジョンへと向かうようになった。向かったダンジョンは帝国にある【ユルゲン】。理由は、ここでオダリスの求める物が見つかったという実績があったからだ。
だが、探索者を雇い、彼が手に入れたものは【召喚器】という名の得体の知れない骨だった。
「自分でもなぜそれを使おうと思ったのかは、もう覚えておらん。酒も入っていたしな。恐らくは気の迷いという奴だろう。だが、それが最悪の結果をもたらした」
【召喚器】で召喚されたのは、真っ白いドレスを着た金髪の女だった。
その姿は美しかった。だが、ドレスの胸元は朱に染まり、その口元は血で酷く汚れていた。そして、その手に握っていたのは、どう見ても何かの生物の臓物だった。
その美しくも恐ろしき姿に唖然としていた伯爵は、直後その女に襲われ、その血を吸われたのである。伯爵が殺されずに済んだのは、【召喚器】による隷属の強制力によるものだった。だが、血を吸われたことで伯爵は女、クラリーヌに隷属することとなる。互いに互いを隷属させるという、いわば歪んだ形で双方の強制力が働く形となった。
だが、皮肉にも吸血鬼となったことで、伯爵は自らの目的を達することができた。
オルボーン家存続のためには、跡取りが必要であるのだ。さすがに歳も歳だ。跡取りを作るのは難しいと言わざるを得なかったのだ。だが、その問題が吸血鬼化で解消できたのである。
以降、伯爵は夜な夜な人気のない場所で、吸血鬼としての力のひとつひとつの確認を行っていた。そんなおり、彼はゾンビ病に罹患した青年と出会ったのだ。
名をペテル。彼は伯爵に適切に殺してくれと懇願してきた。伯爵は彼に対し、あることを試すことにした。それは血を与えること。
クラリーヌから吸血鬼の血の呪いのことは聞いていたのだ。血を吸う際に、対象の血に影響を与えることで吸血鬼化させ、眷属とすることができると。
ならば、血、そのものを与えても同じ結果がでるだろうと伯爵は考えたのだ。
結果は、その通りとなった。ペテルは吸血鬼となり、伯爵の忠実な部下となった。
その後【召喚器】をペテルに貸与。ペテルは多数のゾンビを召喚した。なぜか、ゾンビしか召喚することができなかった。
「こんなところだ。あぁ、安心するといい。クラリーヌは殺した。ペテルに殺させた。もうあの女による被害はない」
伯爵は言葉を切り、大きく息をついた。
「ラドミール殿?」
「嘘はありませんな。オダリス卿の話は真実です」
ラドミールの言葉に、ガブリエルは安堵の息をついた。
被召喚者はいない。神託に、危険人物である可能性が高いとあったのだ。事実、非常に危険であった。だが、それはもう終わった話だ。
「オダリス卿。明後日には王都に向かって出発する」
「あぁ、覚悟はもう済んでいる
リスリ嬢。不快な思いをさせたな。それに怖い思いも。すまなかった」
伯爵の謝罪に、リスリはほんの少し表情をこわばらせた。そしてわずかに口を開きかけるも、すぐに歯を食いしばり、ズカズカと部屋を出ていった。
◆ ◇ ◆
ガブリエルたちが侯爵邸を後にしたのは、すでに陽が傾き、空が赤く染まり始めた頃だった。
教会ではもう、侍祭たちはとっくに活動を始めているだろう。
「もう夕刻になってしまいましたな」
「えぇ、やっと一日が終わったと思ったら……」
「次の一日が終わってしまいましたね」
ガブリエルとバレンシアはため息をついた。これで丸二日徹夜だ。
「正直、早く休みたいですね」
「そうもいっていられませんよ、ガブリエル様」
「ふむ、お二方は昨日、さぞ忙しい思いをされたのだろう? もう、しっかりと休みなされ。代わりに私が代行しよう」
赤毛の大男の申し出に、ガブリエルとバレンシアは彼を見上げた。
「女神の神域で、男の私が仕切るわけにはいかないが、怪我人の面倒くらいなら問題無かろう?」
やたらと元気なラドミールの言葉に、ふたりは疲れ切った笑い声をあげた。
「では、お願いしましょうか」
「えぇ。ですが、教会に戻ったら、ラドミール殿にはあの魔法を憶えてもらわねばなりませんね」
魔法、という言葉にラドミールが片眉を上げた。
「どういうことですかな?」
「キッカ様から非売にするようにと、教会でのみ使うようにと注意と共に授かった魔法ですよ」
「えぇ。非常に有用な魔法です。ですが、有用であるがために、非常に危険な魔法だと、キッカ様は仰っていました」
ラドミールの表情が強張る。
「そのような魔法が必要なのですかな?」
ラドミールは眉根を寄せたままふたりに問うた。
するとガブリエルが微かに笑いを含んだ声で彼に答えた。
「えぇ、必要ですとも。なにせその魔法は、傷を癒す魔法ですから」