52 こうして兎は手懐けられた?
「料理長、厨房を貸して下さい」
鍋を手に入ってくるなり、リリアナが私の答えも待たずに竈の元へと向かって行った。
私はフィルマン。このイリアルテ家で料理番を務めている者だ。
「いや、今は落ち着いているから構わないが、せめて返事を聞いてから竈を使え」
「キッカ様に無理を云って分けて頂きました。一人前ほどですが」
耳を疑った。キッカちゃんの料理だと!? この間のパウンドケーキのことでも驚いたんだぞ。そしてリリアナがこうして持ってきているということは――
「今日、街中でとても食欲をそそる香りが蔓延しているという話を聞きませんでしたか?」
竈に鍋を掛け、さらにその隣で湯を沸かし始めながらリリアナが問うてきた。
確かに、その話は聞いた。セレストが食材の追加注文から帰ってくるなり、興奮気味に騒いでいたからな。
さすがに私だって馬鹿じゃない。ここまで言われたなら分かるというものだ。
「その香りの元が、それか?」
「はい。素晴らしく濃厚なスープです。レシピは、近く戴けるとのことです。ですが、先に味を知っておいたほうがいいでしょう?」
どういうことだ?
リリアナの物言いになにか引っ掛かる。
こうして彼女がわざわざここにまで持ってきているのだ。味の方は、彼女の云う通り素晴らしいものなのだろう。だが、なぜ先に味を知っておけというのだ?
「どういうことだ?」
「多分、レシピを見た途端に、なんと申しますか、あり得ない、と思うかもしれないからですよ」
私は首を傾げた。
程よく温まり始めたのか、かぐわしい香りが鍋から立ち上り始める。
なるほど、確かに良い香りだ。
……いや、待て。そんな香りを立てていたら、面倒なことになるのではないか? お館様たちの分はないのだろう?
不意にこちらに視線を向け、私の表情を読み取ったのか、リリアナは言葉を続けた。
「あぁ、ご心配なく。旦那様や奥様がここに押しかけることはありませんよ。お嬢様が話しているでしょうからね。ですから、レシピを頂いたら、是が非でも一度は作らなくてはなりませんね」
リリアナがくすくすと笑う。
なるほど、すでに根回し済みか。これは気を入れなくてはならないようだ。
いや、待て待て、肝心なほうの答えを訊いていないぞ。
「先に味見をしておいた方が良いというのはどうしてだ? あぁ、キッカちゃんの料理に関しては、私はもう疑ったりはしていないぞ」
「あぁ、あの外れ岩塩を焼きだした時は大騒ぎでしたね」
『まぁ、待て』
「騒ぐみんなに、妙なイントネーションでそうとしか云いませんでしたからね、キッカ様」
「アンラや帝国のパンとはまた違ったからな。あれから確保しようと組合に依頼をだしたが、集まりはあまり芳しくないんだ」
「あぁ、一足先に、キッカ様が買い占めたみたいですよ。玄関先に木箱が大量に積まれていましたからね」
そうか。後先考えずに、ある程度確保しておくべきだったか。それぞれどの分量で焼くのがもっとも良いのか、じっくり調べていたからな。
だが、おかげでパウンドケーキは安定して作ることができるようになった。
奥様にも好評で、臨時報酬を戴いたくらいだ。キッカちゃんには感謝しかないな。
ここのところの奥様とお嬢様は、蜂蜜漬けよりも、単なるドライフルーツを加えた物がお好みのようだ。
「で、なぜ先に知っておいた方がいいんだ?」
「材料がですね、多分、私たちの常識とは違います」
……待て、その言い回しはなんだ。なぜか嫌な予感しかしないんだが。
「まさか、なにかのタブーに触れたりするのか?」
「いえ、それはありませんね。ただ、私たちは野菜くずに香草を加えてスープベースを作るのが基本じゃないですか」
「まぁ、そうだな。あとは、堅い筋肉なんかを入れたりもするが」
「使うのは豚の骨です」
……は?
「骨?」
「はい。骨です。あぁ、そういえば、こっちの料理でも鳥の骨を煮込んだりもしますね」
「あれは骨と云うより、骨についた肉がもったいないからだろう? 少なくとも私の師匠はそんなことを云っていたぞ」
「まぁ、理由はどうあれ、美味しければ問題ありません。モラルに反しているようなことさえなければ」
地味に恐ろしいことを云っていないか、リリアナ。
帝国で起こった食人食堂の話は思い出したくもないぞ。敬虔な者が何人か自害するに至ったほどの事件であったからな。
「まぁ、レシピに関しては私も詳しくは訊いていないので、なんともいえないのですけど。でも八時間煮込んだそうですよ」
「八時間も煮詰めるのか……」
「いえ、煮詰めるというか、減った分、水を継ぎ足すようですから、煮詰めるというのとは違うのでは?」
「継ぎ足す? せっかく味を凝縮したのにか?」
「まぁ、レシピを頂いてからですね。そして一度作ってみれば、なぜそうなのかは分かるのではないのでしょうか」
湯が沸いたのだろう。答えながらリリアナが、鍋にパスタ? を投入していた。
なんだかごちゃっとしていた感じだが。
やがて深めのボウルに、簡単に湯がいただけに思えるパスタを入れ、そこに例のスープを注ぐ。
「私たちが頂いたものは、この上にほうれん草の炒め物と、塩漬け肉を焼いた物が載っていました。いまは用意できませんでしたので、これで」
「……ハムでも切って載せるか」
私は使用人用の食材からハムを取り出し、適当にスライスしてボウルに載せた。
「さぁ、お召し上がりください。料理長が近く、これを作ってくれることを期待します」
なぜか得意げな顔をしているリリアナに、納得のいかない思いが沸き上がるが、それよりも今は目の前にあるこの料理だ。
やや黄みがかっているように見える白濁したスープに泳ぐパスタ。
まずはスープを口にする。
濃厚な、どっしりとした味。だが、いつまでも口の中に残るようなしつこさはない。豚の骨を煮込んだというが、特有の獣臭さも感じない。
美味い。
その感想が素直に浮かぶ。
「あぁ、そうそう。キッカ様が、パスタに関しては多分失敗した、とおっしゃっていましたね」
「失敗? キッカちゃんが?」
「『コシがいまひとつだと思うのですよ』と云っていました」
「コシ?」
コシとはなんだ?
そう思いながらも、フォークにやたらと細く長いパスタを絡め、口に運ぶ。
このあたりでは四角く切った物を使うのが普通だから、このような形状のパスタは非常に珍しい。
ふむ、なにが問題なのだろう? 十分な出来だと思う。強いて言うならば、個人の好みによるところになるのではないだろうか?
もう少し堅い方がいいとか、そういったものだ。
私はそのまま不乱に食べ続け、グイと、スープの最後の一滴まで飲み干した。
ふぅ。
量的にどうかと思っていたが、この一杯で十分に満足のいくものだ。
付け合わせはハムだけだったが、それでも本当に満足であった。
ふむ、スープもハムも同じ豚だ。合うのは当然の事だな。
私が作る時にも、豚肉を用いたものを載せるのが無難だろう。
「いかがでしたか」
「美味い。そのひとことで十分だな。ごたくはいらんよ」
それが正直な感想だ。現状、レシピが分からない以上、自分ならどうこうすると云うのは、無意味なことでしかない。
あぁ、だが――
「領軍の連中には、若干量が物足りんかもしれんな」
あいつらは大食いだからな。まぁ、有事の為に、毎日訓練を続けているんだ、当然の事だろう。それに、領都の治安維持も連中の仕事だ。
「あぁ、量を食べたいときには、パスタを追加するそうですよ。まぁ、その為にはスープを先に飲み干してはダメでしょうけど」
なるほど。確かにスープ二杯分は少々多いだろう。大食いの者でも、スープだけで腹を満たすなんてことはしないからな。
むぅ、これのレシピを貰えるというのか。いい加減、キッカちゃんにはなにかしら礼をせねばならないな。
「そういえば、これはいわば大衆食のようなものらしいですよ」
「なんだと?」
「キッカ様が以前住んでらした場所は、どうやら食文化がかなり進んでいるようですね。曰く『なにを血迷ってこんな調理手順を思いついたのよ!』というようなものもあるらしいです。いずれ訊いてみたいものですね」
キッカちゃんの故郷の料理か。興味が尽きんな。
そんなことを想い、手の中の空となったボウルを名残惜しいような気持ちで見つめた。
◆ ◇ ◆
「おはようございます、フィルマンさん。リリアナさんから聞いていると思いますが、レシピを持ってきましたよ」
翌朝、朝食の片づけが終わったころ、先日と変わらず妙な仮面を着けたキッカちゃんが厨房に顔をだした。
「これがレシピですよ。すいません、分量は全部目分量でやったので、材料と、調理の仕方しか書いてありません」
目分量。ふふ、相変わらずのようだ。パウンドケーキを初めて作った時も、『多分、これくらい。……かな?』とか云いながら作っていたからな。
「それでですね。使う野菜については絶対必要なものしか書いてありません。私が昨日作ったのには、それに加えてリーキと林檎が入っています。できれば林檎は必須で。他の野菜はお好みで適当に入れていいんじゃないでしょうかね」
ふむ、リーキの替わりに玉ねぎとか、他には……無難なところでキノコの類か? まぁ、その辺は慣れてからだな。
「ありがとう。材料を集めて、明日にもでも作ってみよう。味見をしてくれるかい?」
「明日ですか。えーと、明日は多分、夜にこちらにお邪魔することになると思います。ですので、できたらその時に。あ、それとですね、葉野菜、面倒だから玉菜でいいか。玉菜をいくつかと、人参を四、五本用意しておいてもらえませんか?」
野菜の準備?
「構わないが、なんに使うんだ?」
「明日、番犬代わりの猛獣を連れてきます。それの餌ですよ!」
猛獣の餌? 野菜が?
「それではまた明日。よろしくお願いしますね」
そう云うと、彼女はブンブンと手を振り、帰って行った。
小さい女の子を見送るような、ほほえましい気分であったのだが……。
そういえば、キッカちゃん、ダリオ様より年上だったな。
もしかしたら彼女は、意外と強かなのかもしれない。
そして翌日夜。予告通り彼女はやってきた。
兎を担いだ傭兵を引き連れて。
執事のミゲルの連絡を受けて、庭の端に半ば放置されていた番犬小屋へと向かう。もちろん、持っていくのは先に頼まれていた玉菜と人参だ。
だが、連れてくると云ったのは猛獣の筈だ。どうみても普通の兎は猛獣ではないハズだが、どういうことだ?
……前言撤回だ。
なんなのだ、あの兎は。
いま目の前では、檻の中で旦那様とオレンジ色の縦縞の兎とが戦っている。正確には、旦那様が兎の苛烈な攻撃をすべて受け流している。時折聞こえるジャキン! という金属音がなんなのかは分からないが。
檻の天井部分に、光の球のようなものが見える。あれは先ごろ奥様が身に着けた光の魔法と同様のものだろう。
ガイン、ゴインという鈍い音をさせつつ、旦那様が左右から繰り出される変幻自在の兎の打撃を受け流す。
さすがは昔、【血鬼バレリオ】などという異名を付けられるほどの猛者であったというしかない。最初こそたかが兎と思っていたが、あの兎は異常だ。
キッカちゃんが旦那様の前に青縞の兎を抑え込んでいたわけだが、こうしてみると、キッカちゃんも大概おかしいというのが分かるな。
あの子はいったい何者なのだろう? お嬢様たちの恩人としか聞いていないが。
「あ、見つけた。フィルマンさん、こんばんは。お願いしたお野菜はどうなってます?」
「あぁ、キッカちゃん。ここにあるよ」
足元に置いておいた背負い籠を前に差し出す。
中には玉菜と人参が入っている。
「それじゃちょっと頂きますね。ほら、あんたのごはんよ。たんとお食べ」
籠から玉菜を取り出し、キッカちゃんが付き従っていた兎に差し出した。
兎は玉菜を受け取ると、玉菜とキッカちゃんを交互に見つめる。
「いいわよ。お食べ」
キッカちゃんがそう云うと、兎は器用に玉菜を手に持ったまま、バリバリと食べ始めた。
一心に齧りついている兎を微笑ましく見ていると、不意にキッカちゃんが何事かを口にした。
『…れ…した…え』
ん? いまキッカちゃんは何と云った?
聞きなれぬ発音に、思わず私はキッカちゃんを見つめた。
キッカちゃんは膝に手を当て、前のめりになるように身を屈めて兎と目線をあわせると、こんこんと云い聞かせるように話していた。
「いーい。あんた、この家の人に危害を加える輩をやっつけるのよ。あんたがみんなを護る。わかった? そうしたら、ご褒美に美味しいもの貰えるからね」
キッカちゃんの言葉に答えるように、青縞兎がシュタっと、右手を真上に掲げた。そして再び玉菜に齧りつき始めた。
「よし、いい子ね。あ、リスリ様、せっかくだから人参をあげてみますか?」
「だ、大丈夫なのですか? 殺人兎なのでしょう?」
さ、殺人兎!? これが!?
「問題ないですよ。ちゃんと云い聞かせましたから。もうイリアルテ家の番犬ならぬ番兎です。……また微妙に語感が悪いな」
いや、キッカちゃん、語感がどうこうというわけではなく。
お嬢様は籠から人参を一本抜き出すと、恐る恐るという感じで玉菜を食べ終わった兎に差し出した。
兎は差し出された人参をフンフンと匂いを嗅ぎ、一口恐る恐るといった感じで齧った。
途端、兎がまるで雷にでも撃たれたかのよう硬直した。
まさに、こんな美味しいものは食べたことが無い、というような顔で固まったのだ。それこそまるで人間のように。
青縞兎は人参とお嬢様を交互に見た後、キッカちゃんに視線を向けた。
「私じゃなくて、リスリ様にお伺いしなさい」
キッカちゃんがそういうと、青縞兎はお嬢様に再び視線を向け、カクンと首を傾げた。
こいつは本当に兎なのか? 完全に人語を理解しているとしか思えないぞ。
「お、お食べ」
お嬢様が微妙に緊張した調子で兎に人参を勧める。
すると兎は両の手で、いや前足というのが正しいのか? ともかく、しっかりと人参を掴んでボリボリと食べ始めた。
「兎にとって人参は、食事というよりデザートみたいなものらしいですからねぇ。とはいえこの子たちは雑食で、兎としてはイレギュラーでしたからね。人参が普通の兎と同様に効果があってよかったですよ」
雑食? ということは、肉も食べるのか。
「なのでフィルマンさん。時々は適当になにかクズ肉。食べずに処分するような内臓なんかを食べさせてあげてください」
キッカちゃんの言葉に、口元が引き攣れるのが分かった。
肉を食う兎か。なんとも、常識からかけ離れていて、まるで想像がつかないな。
口元を血で真っ赤に染めた兎を想像し、思わずげんなりとした気持ちになる。
その時、周りから歓声が上がった。遂に、あのオレンジ縞の兎が倒れたのだ。
「お、あっちも終わりましたね。それじゃ橙もきちんと手懐けてきましょう」
そういってキッカちゃんは旦那様のところへと向かった。
こっちの兎はすっかりお嬢様に懐いたらしく、体を擦りつけて人参を強請っているようだ。
こうして見ると、話に聞くほど獰猛ではないようだ。お嬢様に人参を強請る姿は、まるで猫を思わせる。
向こうのオレンジ縞の兎も、キッカちゃんの前でまるでお説教でもされているかのように項垂れていた。
こうしてイリアルテ家は、まぼろしと云われていた凶悪な兎を番で手に入れたのであった。それも番犬代わりとして。
きっと、こうした未確認生物を好む一部の貴族が、一目見ようとイリアルテ家を訪れるに違いあるまい。
その時には、しっかりと腕によりをかけた料理を作るとしよう。
なんといっても、キッカちゃんの故郷の料理は素晴らしいからな。
あぁ、そうだ。ちゃんとキッカちゃんに例のスープの味見をしてもらわないとな。本日丸一日を掛けた成果を、しっかりと評してもらうとしよう。