45 八時間煮込むからね!
炭酸水素ナトリウム。もしくは重炭酸ナトリウム。いわゆる重曹のことだ。
せっかく重曹が手に入ったのだから、いろいろと活用したい。
そういえば、イースト、というか酵母菌がないとかいったけど、一応はあるみたいだ。ただ、このあたりだとパンは主食じゃないため、使ってないみたい。帝国やアンラにいけば普通にあるのだとか。店売りしているのかどうかは知らないけど。
果物があれば自分で作ったんだけど、いまだに領都をまともに散策してないんだよね。果物屋さんを見つけてない。侯爵邸にいたときは、厨房にあったもので事足りたし。家に移ってからは、広場の周囲にあるお店だけで間に合っちゃたから、まともに散策してないんだ。
お店関連で一番遠くに行ったところがゼッペルさんの工房だよ。領都の北東寄り。職人街なのかな。そこの北門寄りの端っこ。職人街としては一等地だ。
と、それはさておいて。今日は重曹を使って調理をしていくよ。あとついでにパウンドケーキも作っていく。材料が一緒だから、たいして手間は変わらないかな?
そんなわけで、パウンドケーキはララー姉様が作っています。正直、畏れ多いんだけれど、楽しんでるみたいだからいいよね?
さて私はなにを作るかというと、麺です。
重曹と塩を水に投入して攪拌。これを小麦粉に加えてこねていきますよ。
あ、いまふたつの七輪の上それぞれに、でっかい寸胴鍋が載ってぐつぐついっている。中身は怪獣猪の大腿骨と、昨日お肉屋さんで貰って来た豚の大腿骨。全部でニ十キロくらいをふたつの鍋に分けていま煮込んでいるよ。すでに数十分の下茹でを終えて水は入換え済みだから、後はこのまま焦がさないように七、八時間くらいじっくり煮ていけば完成。できあがりは夕方になるかな?
濃厚な豚骨スープを作るのだ!
もちろん適当に野菜も投入済み。にんにくとショウガとリーキ。そしてテスカセベルムでくすねて、今日まですっかり存在を忘れていた林檎も放り込み済みだ。出来が楽しみですよ。
麺をこねてこねて、いわゆる耳たぶくらいの硬さにまでなったら、しっかりとしぼった濡れ布巾で包んで一時間くらい寝かせる。
一時間後。さてさて、麺うちですよ。昔、テレビかネットで見た、えーっと手延べっていうの? をやってみたよ。打ちひしがれたよ。胸が邪魔なんだよ。打ち粉でエプロンの胸のところが粉だらけになったよ!
くそぅ。
まぁ、それでも頑張ってやって、ところどころ千切れちゃったけど、なんとか麺の様相を呈したものはできたよ。
たくさん作ったからね。えーっと五十玉あるよ。これでスープが上手くできたら、ゼッペルさんのところに差し入れとして持っていけるよ。トッピングは塩漬け肉を焼いたのと、あとはほうれん草を炒めた物でいいかな。
「お姉様、この食欲をそそる匂いはなんですか!」
正午過ぎ、ほぼ日課であるかのようにやって来るリスリお嬢様が、挨拶よりも先に問うてきた。
「キッカ様、あたりがこの香りでざわめいていますよ」
え?
リリアナさんの言葉に顔が強張る。
「えーと、ざわめいているとは?」
「こんな食欲をそそる匂いが漂っていれば、誰でもそうなります!」
リスリお嬢様は相変わらず元気だ。
というか、そんなことになってるの? いや、換気のために窓は開けてあるけどさ。
「いま、スープを作っているんですよ。でも出来上がるのは、夕方くらいになりますよ?」
「夕方!?」
「随分早い時間から、この香りは漂っていたようですが?」
「時間が掛かるんですよ」
なんていったって八時間煮込むからね!
さっき、大分減った水を継ぎ足すときに骨を見たけど、まだ髄はしっかり残ってたしね。あれが溶けきるまで煮込まねば。
味見をしてみたい気持ちに駆られるけど、未完成で味見しても意味ないからね。ここは我慢だ。
さて、本日のリスリお嬢様の話題は、もちろん昨日のことだ。
そして彼女の感想はというと――
「お父様がうざいです」
リスリお嬢様が半ば目を細めて、不満に満ちた声をだした。
「ジャキン、ジャキンと魔法を発動してはニヤニヤしているんですよ!」
侯爵様、喜んでもらえてなによりですが、娘さんがそのことを私に愚痴ってますよ。まぁ、使えると思ってもいなかった魔法が使えるようになったんだもの。気持ちはわかるな。
初めて【灯光】使った時は、私も狂喜したからね。
とはいえ、リスリお嬢様が不満を漏らすほどって、何をやらかしたんですかね、侯爵様。まさか魔法の鎧を纏ってドヤ顔でお嬢様の周りをうろついたりしてませんよね?
あれ? 私、もしかして幸せな家庭に不和をもたらした?
「こ、侯爵様も、いままでできないと思っていたことができるようになって、はしゃいでいるんですよ。数日もすれば落ち着くでしょうから、小さい子を見ているような気持ちで見守ってあげてください」
「あんな大柄な子供がいてたまるもんですか!」
リスリお嬢様が万歳をするように両手を振り上げた。
いや、そうですけど、リスリお嬢様。
リリアナさん、肩を震わせていないで、一緒に説得してくださいよ。
「あ、あの、侯爵様、なにかやらかしたんですか?」
「夜中だというのにお兄様と模擬戦を始めたんですよ!」
「模擬戦って、どんなことをやっていたんです?」
「最終的には、普通に剣を交えていましたが……」
「最初はお兄様に石を投げさせていました」
あぁ。普通の投石くらいなら、指で突かれた程度にしか感じないかな。石とか鉄球を撃ちだすタイプの弩だと怪我するだろうけど。
「それなら、効果を実感できたでしょうね。投げつけられた石程度なら、怪我することなく跳ね返すでしょうから。あ、ただ鎧の類を身に着けると、効果が半減するので、それは気を付けるように云っておいてくださいね」
「半減するんですか?」
「はい。基本的に魔法使いが身を護るための魔法ですからね。そのせいか、鎧に分類されるような、堅い装備品を身に着けていると、効果が落ちるんですよ。頑丈な革のブーツなんかもダメみたいですね。普通の柔らかい革のブーツとかは問題ないみたいですけど。ただそのあたりの基準が分かり難いんですけどね」
「旦那様に云っておきましょう」
「そうね。調子に乗って怪我をしてからじゃ遅いわ!」
おぉ、途端に真剣な顔に。うんうん、いい娘さんだよ。侯爵様は幸せですね。
「ところでキッカ様。キッカ様は以前、あのゾンビ共と戦ったときに【魔法の鎧】を使っていたのでしょうか?」
「えぇ、【黒檀鋼の皮膚】という熟練魔法を使いましたよ」
「なるほど。だからゾンビの腕が折れたのですね。素晴らしい防御力です」
……は?
「あの、リリアナさん? ゾンビの腕が折れたと云うのは?」
「キッカ様、最初に後ろから殴られたじゃないですか。あれであのゾンビは腕を折ったんですよ」
え!?
「あれ、リリアナさんがへし折ったのでは?」
「私はそんな力持ちではありませんよ」
あ、危な! 【黒檀鋼の皮膚】展開しておいてよかったよ。してなかったら死んでたんじゃないかな。頭蓋骨陥没とか、頸椎骨折とかして。
これからも【黒檀鋼の皮膚】は忘れずに張るようにしよう。あの蛙にも簡単に足折られたりしたし。
……それとも、重装鎧をメイン装備に切り替えようか。いや、鎧を扱い熟せるようになる前に、盾を使いこなせるようにしないとダメな気がする。
まぁ、その辺はおいおい考えよう。
がこがこと焦げないように鍋を攪拌しつつ、そんなことを考える。
「あの、キッカ様?」
「はい、なんです? リリアナさん」
「呪文書なんですが、高価なものなんですよね?」
「高価なものというか、高価なものになっちゃいましたね」
もうちょっと手軽にとも思っていたんだけれど、いろいろと影響だのなんだのを加味すると、どうしても高価にしたほうがいいってことにね。
「その、そうとは知らず、私はみっつも……」
ん?
「その、私にはお支払いできるだけのお金がありません」
「あぁ。あれは魔法頒布のための試用ですから、気にしなくていいですよ。おかげで頒布の際の注意点も分かりましたし。あの魔法そのものが、試用してもらった報酬ですよ」
「そう云われましても」
うーん。ある意味あれ、押し売ったというか、押し付けたようなものだしなぁ。 気にしなくていいんだけれど、そうもいかなさそうだね。
それじゃ、うん、もうひとつ実験につきあってもらいましょう。
「では、返してもらいましょう」
「は、はい?」
「ついてきてください」
寸胴鍋を攪拌するために使っていたでっかいお玉を、そばのまな板の上に載せると、台所を出て二階へと向かう。
行くのは呪文合成台。
そういえば、呪文の合成はしたことなかったな。四作目の魔法もあるから、【解毒】と【疾病退散】の魔法も使えるようになってるんだよ。
……なんで五作目でリストラされたのか、いまでもさっぱりわからないけど。
で、このゲーム、自分に掛ける魔法と、他者に掛ける魔法が明確に分かれている。だから回復魔法も自分用と他人用の二種類あるんだよ。
かなり回りくどい説明だな。要は、【解毒】と【疾病退散】は、他人に掛けるタイプのものが存在しない。なので、それをするためには他者を回復する魔法、例えば【治療】とかと合成して魔法を作らないといけないわけだ。まさか攻撃魔法と合成するわけにはいかないからね。
ただ、できた魔法は使用魔力が跳ね上がる。まぁ、当然だよね。あと……使用魔力軽減ってできたっけ? 違う系統の魔法を合成したら、できなさそう。
実のところ、あまりメリットがないんだよね。浪漫はあるかもしれないけど。
あぁ、でも【解毒】は需要あるか。薬でできない限りは魔法頼りしかないし。
呪文合成台の前に到着。
ふたりともキョロキョロしてるよ。ここには妙なものばっかり置いてあるからね。二階に上がったことはあっても、ロフトのこっち側には来たことなかった筈だ。
「ではリリアナさん。【太陽弾】を右手にセットして、この台に向けて魔法を撃つように魔力を込めてください。あ、撃っちゃだめですよ」
云われた通りにリリアナさん右手を合成台に翳し、魔力を込めていく。手の魔力が臨界に達すると同時に合成台が起動。魔力を吸い上げ、呪文書へと変換する。
リリアナさんとリスリお嬢様が目を丸くして見ている中、合成台の上に色あせた黄色い呪文書が錬成された。
「はい。ありがとうございます。これで呪文書は返していただきました。あ、魔法が使えなくなるなんてことはありませんから、そこはご安心ください」
そういうとリリアナさんは緊張していた顔がホッとしたように緩んだ。
あぁ、やっぱり魔法が使えなくなると思ったんだ。
「こんな風に呪文書を作っていたんですね」
「えぇ。覚えている魔法なら、この作業台で呪文書を作り出すことができます」
私もちょっと実演して見せる。作るのは【召喚盾】。これがあるから、もう完全に【魔法盾】はいらない子なんだよね。まぁ、ゲームだと五作目でリストラされてた魔法だけど。これもなんでリストラされたんだろ? 鎧系は、効果時間が過ぎると全裸になるから、リストラされたのは分かるけどさ。
そういや常盤お兄さん、その辺はどうしたんだろ。今度確かめないと。
色あせた紫色の呪文書を手にとる。
「私ひとりで呪文書を作るのにも限界がありますからね。この台は組合と教会に置く予定です。ただ、きちんと管理して貰わないといけませんけどね」
「あぁ、無料で身内に頒布とかされると問題ですね」
「もしくは、独自に販売でしょうか。組合の値段より若干安値にすれば、簡単に売れるでしょう。元の値段が高額なので、簡単に元は取れるでしょうね」
その辺は、どこまで作業台を管理できるかだよねぇ。まぁ、流出は覚悟しているよ。というより、そこは組合と教会任せだからね。それに流出するとしたら、内部からだろうから、もう組織のモラルの問題になるよね。
ま、人は信用するもんじゃないから、そこは諦めましょう。だから危険な魔法は出さなかったんだし。
「そのあたりの管理は組合と教会にお任せですよ」
「ここに忍び込む者とか現れるのではないでしょうか?」
「リスク管理はきちんとしていますから、大丈夫ですよ」
現状はララー姉様がやっていますからね。後々は私がなんとかする予定だけど。
いやインベントリに入っていた我楽多だと思っていた物が、実はとんでもない代物だったんだよ。ゲームだと溶かしてインゴットにするだけだったんだけどさ。
常盤お兄さん、なに放り込んでるんですか! って思ったもの。
確実に私は面白がられているんではなかろうか?
まぁ、ただ現状だとやることが多すぎるのと、それ以上に私に技術が身についていないので、留守番役を作るのはまだまだ先になるけど。
「……お姉様、この作業台はどこから調達したのですか?」
「魔法の普及、頒布は神様から授かったお仕事ですよ」
リスリお嬢様がじんわりとした視線で私を見つめる。
「そんな胡乱な目で見られましても、他に答えようがありませんよ」
「ほんとーに神子様ではないのですか?」
「はい。アレカンドラ様の神子ではありませんよ。というか、そもそも神子の定義がわかりませんよ」
そう答えると、リスリお嬢様はほっぺを膨らませた。
どうやらお嬢様も神子の定義に関しては曖昧らしい。話によると、神様直々に選ぶらしいからね。私は選ばれたりしていませんからね。
「キッカちゃ~ん。出来たみたいよぉ」
ララー姉様の声。いいタイミングだ。
「それじゃ、おゆうはんにしましょうか。すぐに用意しますね」
私はパタパタと階段を降り、台所へ。
「お湯は沸かしてあるわよぉ。トッピングは任せてねぇ」
ララー姉様が手際よくほうれん草を炒めている隣で麺を茹でていきますよ。
作るのは三人前。私は差し入れにゼッペルさんのところで作るからね。そこでみんなと食べる予定。食べそこなったら、帰って来てから作って食べればいいし。
どんぶりに麺を入れて、スープ……はと、仕上げをせねば。一回インベントリに入れて、スープを分ける。要はざるで濾して骨とかを取り除く作業を、インベントリの分別機能で行う。
麺、スープ、トッピング、で豚骨ラーメン……のようなもの、完成!
かなりシンプルだけどね。そして若干、麺が不安だけどね。
かくして、実食です。
「キッカ様、これのレシピを教えて戴けませんか!」
「ダメよリリアナ! これを無償で戴くわけにはいきません!」
「いや、どれだけ大袈裟なんですか。レシピなら差し上げますよ。フィルマンさんにはお世話になりましたし」
よし、反応は上々。よかったよかった。
「キッカお姉様、それはまったく問題ないです。むしろ料理が格段に美味しくなったので、なにかお礼がしたいです」
「えぇ。私、なにもしてませんよ」
好き勝手やって、邪魔しかしてなかったと思うんだけれど。
「キッカ様は料理長の調理の幅を広げましたよ」
「重曹くらいだと思うのですが」
「パウンドケーキがお茶菓子の定番になりました。毎日のお茶がこれまで以上に楽しみになりました」
こっちじゃカステラ的なものはないのかな?
「お菓子に卵を使うことは殆どないわねぇ」
えぇ。となると、クッキー的なものがほとんどか。もしくは私がこの間つくったボーロみたいなの。いや、テスカセベルムで、白いゼリーっぽいものがあったよね。バレルトリ辺境伯のところで食べ損ねたやつ。あれ、なんだろ?
とはいえ、思ったより料理の幅が狭いみたいだ、こっちの世界は。
まぁ、作れそうなもので、自分で食べたいものがあれば今後も私は作るけど。
ただ下手なことやって食のタブーには触れないよう、そのあたりは調べておいた方がいいかな。多分、モラル的なことが殆どだろうから問題ないとは思うけど。
さて、それじゃ、もうひとつの寸胴鍋を持って、差し入れに行くとしますか。
「それじゃお二方。申し訳有りませんが、私はゼッペルさんのところに差し入れに行ってきますので、食事の方はゆっくりとしていってくださいね。
レシピは明日にでも、フィルマンさんに届けますので」
ふたりの様子から味は問題なし。むしろ成功だもの。ゼッペルさんたちの反応が楽しみですよ。
さぁ、寸胴鍋を台車に載っけて、お肉とほうれん草と麺も担いで出発だ!
……台車に載せる寸胴鍋はダミーで、本物はインベントリに入れるけどね。ひっくり返したら目も当てられないもの。
では、行ってきます!
誤字報告ありがとうございます。