361 十年が過ぎました
お姉様が姿を消して、十年が過ぎました。
予想に反して、神に認定された者が姿を消したからといって、騒ぎになるようなことはありませんでした。
まぁ、そうですよね。ふらりと一ヵ月二ヵ月ほど留守にしたかと思うと、ダンジョンを攻略してきたとか、ドラゴンを退治してきたとか、そんな感じでしたから。
普通であるならば、そのようなことは与太話と一笑に付されるのでしょうが、お姉様はきっちりと証拠をお土産に持ってきたのです。
ドラゴン丸ごとというのは当たり前。遂にはダンジョン【ミヤマ】より、聖武具の鎧一式を入手し、王家へと献上したくらいです。
もっとも、それら聖武具【カノン】の一部は、お姉様が姿を消した直後に、王宮の国王陛下の執務室に置手紙と共に置かれていたそうですが。
お姉様がお金の使い道と、最後に設立していった【如月機械研究所】は順調そのもの。【カノン】の報奨金やイリアルテ家からのレシピ料などを活動資金として、順調に成果をあげています。
レシピ料などなくとも、潤沢な予算を蓄えているのですが。
えぇ、私、名誉付きとはいえ、所長ですからね。基本的には看板のはずですが、実務面の監督もしているのですよ。
洗濯機は生産すればするだけ売れるという状況が、お姉様が姿を消した翌々年から続いています。一年間、所長兼主席研究員であるグレーテル女史が、お姉様の残した簡易の試作機を改良した結果の成果です。
自動式と足漕ぎ式の二種類が商業組合を通して発売され、貴族はもとより、市井の平民にも広く売れています。一家に一台、というには高額であるため、複数家族が共用で購入しているようです。
この実用品に向けての改修を行っていた一年の間に研究員も増員されました。グレーテルさんひとりしかいなかったわけですから、増員しなくてはならなかったのですが。
中には、グレーテルさんの同期という男性二人がいましたが、グレーテルさんの対応は酷く辛辣でした。
……まぁ、それも当然でしょう。誘拐されたお姉様を見捨てたとのことですから。ですが、そのような誘拐犯の一味である輩を罰せず、見逃したお姉様は本当に人が好すぎます。
他には、ナナトゥーラで召喚されたという異世界人の殿方がやってきました。アイザック・クナーブという人物です。家名持ちですが、キッカお姉様同様、貴族ではないとのこと。なんでも、帝国で暴れたお姉様の大型オートマトンを目撃したそうで、それに感激し、保護国であるナナトゥーラを離れ、お姉様に会いに来たそうです。できれば弟子入りをと考えていたようですが、残念ながらお姉様は姿を消した後でした。
お姉様はいませんでしたが、グレーテルさんと意気投合し、その結果、研究速度は加速度的に上がっていきました。
そして遂には、お姉様が残したヒントを元に蒸気機関なるものを用いた、骸炭を燃やして走る荷車……汽車というそうですが、それを完成させました。今ではサンレアンと【アリリオ】宿場間を汽車が走っています。途中のここ【如月機械研究所】を加え、三か所に停車する定期便が日に三回走っています。
サンレアン、【アリリオ】間の駅馬車はイリアルテ家が運営していたのですが、こちらの方が格段に利益があがることにより、廃止されました。
もとより魔物被害が年に数回ある馬車よりも、魔物も近寄らない巨大な箱が高速で行き来する汽車のほうが安全ですし、輸送量も多いですね。
お姉様が最後に残されたレシピ集……いえ、実際には最後、というわけではなかったのですが、姿を消す直前に残されたレシピ集は、お母様にとっては本当に宝の山となりました。
それは今現在も変わらず、【エマのお菓子屋さん】において、定番の一番の売れ筋お菓子として人気を誇っています。
菓子職人たちが、まるで細工職人であるかのようにお菓子を美しい造形に作り上げていく様は、いつみても不思議な光景です。……ハサミは、調理器具だったのですね。
食べる芸術品と呼ばれるようになったそれらが不動の人気を誇っているのも、当然でしょう。
……お値段も、ものによりますが、リーズナブルですしね。なにせ原材料のメインが豆ですから。
そしてそのお菓子に一番合う緑茶も、遅ればせながら販売を開始した結果、売り上げが倍増したそうです。いつの間にやらリリアナがキッカお姉様のところにいたルナ様から譲り受け、栽培していたようです。もっとも、まだ十分な量を収穫できるほどでもないため、緑茶に関しては、ミストラル商会から卸してもらっている状態ですが。
【エマのお菓子屋さん】はこの十年で支店を増やし、王国の主だった大都市に進出したものの、お母様はどこか寂しそうです。
イリアルテ家で大きく変わったことと云えば、セシリオがアルカラス家へと養子として入ったこと。ダリオお兄様がアレクサンドラ様と無事結婚。いまでは七歳と五歳、そして一歳の子供がいるということ。そしてイネスお姉様は、クリストバル王弟殿下が公爵家を興したことにより、無事、いろいろと制限がなくなったことでしょうか。もちろん子供もできて、いまは五歳の長女と三歳の長男がいます。可愛い甥っ子姪っ子たちです。
王家の跡取問題などの為に、イネスお姉様たちは子作りを控えていたそうです。キッカお姉様が「子ども扱いされていないかな?」などと云っていましたが、どうやら事実だった模様。
クリストバル様ですが、公爵家当主となりましたが、いまも農業研究所の名誉所長をしています。現状、領地となるダンジョン【ミヤマ】周辺は開拓中……いえ、まだそこに至る街道を整備中であるため、領地運営もなにもありませんからね。
あぁ、公爵家の家名はアノーとなりました。キッカお姉様からいただいたサツマイモの品種から取ったのだそうです。それでよいのかとも思いましたが、クリストバル様曰く『家名としてもおかしくないだろう』と得意気でした
さて、そのクリストバル様の領地の中心ともいえるのがダンジョン【ミヤマ】です。現在、赤羊騎士団の一部が、ダンジョン【ミヤマ】一階層に簡易ながらも砦を建築。度重なるゴブリンの集落発見から、今後、そのような事態を防ぐために、一年交代で部隊が常駐してます。
報告によると、年に二、三回は、ゴブリンの集団がやってくるそうです。おかげで実戦訓練には事欠かないようです。
騎士のひとりが、浅層を徘徊している魔物である妖犬を手懐けたことが何年か前に話題になっていました。
最後に私ですが、私は特に変わりありません。社交界デビューも見送りました。誘拐された事実が広まってしまった以上、ただの晒し者になるだけですからね。そんなこと、お母様はもとより、なによりお父様が許しはしないでしょう。
もともと学院時代より周囲にロクな者はいなかったのです。ある意味、イリアルテ家の者としては中途半端にまともだったのが問題だったのでしょう。だからこそ、特に他者と交流することもなく、とっとと単位を修得して卒業したのですが。
イネスお姉様は攻撃をしてくる愚か者共を、ケタケタ笑いながら叩きのめしていたそうですし、ダリオお兄様は侯爵家の威光を上手く利用して相手を破滅させていましたしね。セシリオが一番ひどく、お父様同様に『侮辱と受け取った、いいだろう、決闘だ!』を繰り返していたそうですから。唯一弱気になっていたのは、お姉様から頂いたナイフが一時没収されていた時だけですね。後に、一部の教師が買収されていたと知りましたが……イリアルテ家も舐められたものです。もっとも、結果はお姉様に完膚なきまでに叩きのめされたわけですけれど。お姉様に片思いをしていたセシリオとしてはいい思い出でしょう。報われませんでしたけれど。
そういった意味では、私は大人し過ぎたのでしょうね。
いまも独り身ですが、社交界デビューをしているわけでもないので、気楽なものです。
教会にも変化がありました。お姉様の立像が奉られました。右手を自身の腰に回し、左手に仮面を持った姿勢の立像。仮面を外し、正体を見せた、というような雰囲気のものです。ただ、その立像の置かれた場所が、祭神のすぐ隣に置かれているというのが解せませんが。
お姉様がみたら頭を抱えるんじゃないでしょうか?
現状では【工神教】というものは出来ていません。通例として、加護を得た者が教皇となるわけですが、現状、そのような者はいませんからね。そのことを鑑みたことなのか、各教派が祭神同様に祀っているようです。
なにぶん教会内の事ですから詳しくは不明なのですが、七神教内で決まったことなのでしょう。
それとお姉様の自宅ですが、当時のまま保全されています。権利はイリアルテ家のままですが、管理は教会が行っています。
お姉様と一緒に住んでいらしたルナ様とララー様も姿を消されました。ララー様はミストラル商会の商会主、会頭ということですので、本来の拠点であるアンラへと戻ったと思われますが、姉であるルナ様も一緒に帰られたのでしょうか?
そのお姉様の自宅ですが、十年経った今も一切ビクともせずに、当時のまま、どこも傷んだ様子はありません。掃除などは教会の方々がおこなっていますが、鍛冶場と温室には近づけていません。そこはいまもなお、お姉様のオートマトンが警備をし、守っているのです。
自宅の清掃が許されているのは特例なのでしょう。夜間になると、オートマトンの一体が玄関へと入り、番をしていますから。
そういえば、教会と云えば……えぇ、今頃になってですが、知らされた事実がありました。
【月神教】に存在する粛清機関【ブラッドハンド】。十年ほど前に突如として名が知られ【七神教】が公式に女神アンララー様直轄の組織であると認めた、ある意味前代未聞の存在です。
かつて、その【ブラッドハンド】の実働部隊の構成員であるレイヴンに、誘拐された私は助けて頂きました。
そしてこの程、キッカお姉様関連の事で、【ブラッドハンド】のひとりであるハッコさんと話す機会がありました。そして今更ながら、衝撃的な事実を知らされました。ほんの数時間前の事です。
「初代のレイヴンがキッカ様であると分かりました」
私は目を瞬きました。
「ど、どういうことでしょう?」
「リスリ様を吸血鬼から救いだしたのはキッカ様であるということです」
きっと私は間の抜けた顔をしていたことでしょう。もうじき二十五にもなるというのに、あるまじき失態です。
「なぜ、お姉様はそんな変装などしていたのでしょう?」
「おかしな存在であることを知られたくなかったようです」
私は沈黙しました。ハッコさんも沈黙しています。表情は白い狐の仮面のせいで読めませんが、恐らくは、非常に微妙に表情を強張らせている私に、なんと云っていいのか分からないのでしょう。
おかしな存在も何も、出会ったその時からおかしな存在でしたでしょう、お姉様は!
そういえば、あの誘拐事件後、お姉様に会った時には妙にそっけない態度でしたね。あれは、ボロが出ないようにしていたのでしょうか?
「……なぜその事実を今頃私に教えてくれたのです?」
「アンララー様が、そろそろ必要だろうと」
「どういうことです?」
「リスリ様もこちら側に来るのでしょう? 魔力量からそろそろリスリ様の侍女同様、変質化するとアンララー様は見ておられます」
私はまたしても目を瞬きました。
えぇ、リリアナは三年前に姿が完全に変わりました。どこからどう見てもエルフとなったのです。いえ、エルフではありませんね。エルフであるならば、もっと華奢ですもの。なんというか、エルフと似て非なる者となりました。それに伴い。それまでは魔力不足で扱えなかった魔法も次々と扱えるようになりました。いまや単身で【アリリオ】の二十階層を踏破できるほどです。ただ、その二十階層まで単身で到達することは不可能なのですが。
……リリアナはどこを目指しているのでしょう? いえ、いずれはキッカお姉様にお仕えすると公言していましたね。
「本来はそのような事は起こらない、と、アンララー様は断言しておりました。が、お二方……いえ、イネス様を含めればお三方は別です。
キッカ様と強く接触し過ぎました。リリアナ嬢は魔法のレクチャーを受けた際に、そしてイネス様とリスリ様はキッカ様とご一緒に就寝されていたでしょう?」
理解はできませんが、お姉様との長時間の直接的接触が、私とイネスお姉様に影響を与えていたようです。いうなれば、人を辞める素地を作り上げていたということでしょう。私も、お姉様が姿を消された後、ずっと魔力を向上させる鍛錬を行ってきましたからね。魔力を消費するだけなら、仕事をしながらでもできますから。
えぇ、リリアナだけキッカお姉様の元へと向かわせてなるものですか。
「……こちら側に、とのことでしたけれど、あなたも?」
「アンララー様に気に入られましたので。それに、私のこの名はキッカ様より頂いたのです。誰に襲名させるものですか」
ハッコさんは力強くいいました。
「では、これを。キッカ様が戻ってらしたようです。いまもまだこちらに居られるかは不明です」
そう云ってハッコさんが私に封蝋で封じられた手紙と、革ひもで厳重に封印された二冊の本、そして小さな包みを差し出しました。
えぇ。時折、キッカお姉様の家のホールにある大テーブルの上に、このような手紙や物品が置かれているのです。
一度は、教会宛てに【神枝の剣】が四振り置かれていたりもしました。【地神教】以外にも渡さないと、と云っていましたが、【勇神教】を除いたのはお姉様らしいといえましょう。いまだに許していないようです。
羊皮紙は今回の“お土産”の目録でした。
新しい飲み物のレシピと、その材料となる実をつける植物の種。それと新しい呪文書。力を増強する魔法のようです。
ざっと目録に目を通し、視線をあげると、そこにはもうハッコさんの姿はありませんでした。
私はちいさく息をひとつつきました。
レシピはお母様に。呪文書は冒険者組合に。でもその前に、呪文の方は修得し、私が呪文書をあらたに拵えましょう。
そんなことを考えていると、突如として慌ただしく執務室の扉が開かれました。
「お嬢様! あの愚か者を首にするように、ダリオ様にご進言ください!」
完全に頭に血を登らせて、リリアナが執務室に飛び込んできました。ノックもなしに入室してくるなど、リリアナにしてはあるまじき事です。
「なにがあったの?」
「エミリオ様の護衛をしている愚か者です。エミリオ様を放置し離れ、あまつさえ、そのエミリオ様の面倒をみてらしたキッカ様を十字弓で射貫いたのです。警告もなしに!」
私は耳を疑い、目を見開きました。
「それは事実なの?」
「間違いありません。あの背格好に腰まで届く黒髪。初めてお会いした時の姿と変わりありませんでした。キッカ様です!」
「黒髪!? 見たの!?」
「はい。持ち場を離れていた馬鹿者を叱りつけ、私もエミリオ様の元へと向かっていたのです。エミリオ様の側に人が居るのをみるや、あの愚か者は……。
キッカ様は私に気付かれたようで、胸に突き刺さった矢玉をこともなげに引き抜いた後、私に手を振ってくださいました。そしてその直後に姿を消されて……」
口元が引き攣れます。
なんでしょう、この感情は。
失望? 憤怒? 嫉妬? 無念?
ふ……ふふ……。
意図せず笑い声が漏れます。
「お嬢様?」
「その馬鹿は拘束してあるのかしら?」
「もちろんです」
「理由はどうあれ、神に弓を引いた大罪者です。教会に引き渡します。そもそもお姉様の側にはエミリオがいたのでしょう? 例えそこにいたのが賊であったとしても、誤射の可能性もあったというのに矢を射かけるとはなにごとですか!」
私は声を荒げました。リリアナに向かって声を荒げても意味はないのですが、私がどれだけ激昂しているのかは伝わるでしょう。
それにしても……。
これまではご自宅に戻っていることしか確認されていなかったお姉様が、こうしてここ機械研にまで足を運ばれていたとは。
機械研を心配して足を運んでくださったのでしょうか? それとも――
あぁ……どうしましょう……その愚か者の首を刎ねたくて刎ねたくて仕方がありません。
「私が直接、沙汰を伝えましょう」
私は立ち上がりました。本日の執務はこれで終わりとしましょう。名誉所長ではありますが、所長業は私が引き受けています。グレーテルさんには研究に専念してもらう方がよいですからね。
その愚か者を教会に送り届け、お兄様を問い質さなくては。いったい何を思ってそんな無能者を大事な息子の護衛に付けたのかを。お義姉様に知られたら大変なことになりますよ。
そして私は足を踏み鳴らしつつ、執務室を後にしたのです。
誤字報告ありがとうございます。
※次回が最終回となります。