199 ブラッドハンド
月神教教皇ヴァランティーヌは、疲れ切ったように目を伏せた。
テーブルに肘をつき、手を組み、口元を隠すかのように項垂れる。その姿は、見た目の二十代半ばのものではなく、本来の年相応にみえた。
教皇ヴァランティーヌ。女神アンララーの加護により、その姿は加護を受けた当時の姿のままだ。
すぐ目の前には、テーブルに突っ伏すように倒れるマリーズ大主教の姿。五十年もの間、教会を支えて来た重鎮のひとりだ。
それが、あっさりと殺されてしまった。神罰を受けてしまった。
彼女の目指していたものは、正しいことであった。だが、その手段を誤った。
何故、なんの関りもない少女の命を奪ったのか。
教会内での勢力争いに、まったく関りのない少女を殺す。これがどれほどの罪であるかを知らないわけでもなかったであろうに。
しかもその少女はアレカンドラ様の加護を受けし者。
それを考えれば、この程度の神罰で済んだことを喜ぶべきであるのだろうか?
いや――
「やれやれ。こうなることは分かっていたのではなくて? まさかと思うけれど、アレカンドラ様の加護を受けし者を害しておきながら、なんの咎めもないと思っていたのかしら? だとしたら、あなたたちは随分と傲慢ね」
突然響いた女言葉の男の声に、室内にいた者たちは驚き、その声の聞こえた方へと視線を向けた。
果たしてそこ、ヴァランティーヌ教皇のすぐ脇に、その人物は立っていた。
黒を基調とした上下に、色褪せた赤黒い布を巻き付けたような服装の……男?
その顔は猫を模した仮面に覆われ、表情を推し量ることができない。
「自己紹介が必要かしら? 私はリンクス。粛清者のひとりと云えばわかるかしら?」
彼? は、軽く腕を組んだ姿勢のまま、その口共に微かな笑みを浮かべている。その体形はまさに男性のもの。だが仮面に覆われていない口元、顎のラインなどはまさに女性のようにみえる。
「いきなりのことで、状況を把握できていない者もいるでしょうから、私から説明するわ。
あぁ、知っていると思うけれど、【ブラッドハンド】は教皇直轄組織と便宜上なってはいるけれど、実際にはあの方の直轄よ。だから、以前のアリーヌのような真似はしないように。彼女の上司であるデボラがどうなったかは……いう必要はなさそうね」
そういってリンクスは席についている者たちをぐるりと見渡した。
「さてと。アレカンドラ様の妨害を行い、その使徒として活動をしている彼女の殺害に関わっている者の元には、レイヴンがお邪魔をしているわよ。
遠からず愚かな者どもはひとり残らず自由となるでしょう。これで少しは風通しもよくなるんじゃないかしら」
「リンクス殿、処罰を受ける者はどれほどの数になるのでしょう?」
リンクスが組んだ腕を解き、まるで指でも鳴らすかのような動作で右腕を振る。するといつの間にかその手には丸められた羊皮紙が握られていた。
「彼の世に旅立つ者のリストよ。今頃はレイヴンが自由にして回っている頃よ。ついでに目障りな暗殺結社も潰しているわ」
羊皮紙を広げ、教皇の前に置く。
羊皮紙に記されている名前の列。百名ほどはあるだろうか?。
「そこに記されているのはマリーズに与していた者と【狂犬】のメンバー。それに加え、教会転覆を狙った無神論者共よ。
あの方は間違った信仰の狂信者も無神論者も必要としていないわ。関わりさえしなければ問題視はしない」
そこで言葉を切り、リンクスは微かに頭を上げる。仮面のため見えはしないが、居並ぶ月神教の重鎮たちを見つめているのだろう。
「でも、もし今回のようなことがあれば、私たちが動くことになるわ」
「リンクス殿、よろしいか?」
「なにかしら? シドニー枢機卿」
「今回の件、どれほどの問題を引き起こす可能性があったのでしょうか?」
シドニー枢機卿、前教皇である彼女の問いに、リンクスが口をゆがめる。
「神々の事情に人間如きが介入すると云うの? ならば世界の破滅から護ってみせるといい。云っておくけれど、ここアムルロスだけではなく、天に瞬く星々の彼方の世界も含めての話よ」
突然の大袈裟な表現に、何人かが笑い声を漏らした。だがリンクスが云った言葉は冗談などではない。
「笑いたければ笑えばいい。でも、今回のことはテスカセベルム――勇神教がやらかしたことと同レベルよ。それを肝に銘じておきなさい」
そしてもう一枚、羊皮紙をどこからか取り出すと、それもまたテーブルに広げた。
そこに記されているのはアンラ王国に属する七つの貴族家の名称。公爵を筆頭に、伯爵家が二家、子爵家が三家、そして男爵家が一家だ。
「本日中にここに記されている貴族家は潰れると思っていいわ。少なくとも、当主は軒並み死ぬでしょうね。運が悪くなければ」
「運が悪くなければ? では、運が悪ければどうなるのです?」
「生きていられるわよ。もちろん。ただ、残りの人生、命乞いをしたことをそれこそ死ぬほど後悔するでしょうけれどね」
そういってリンクスは肩を竦めて見せた。
「現に、我らが主はドワイヤン公爵夫人の願いを聞き入れ、ガスパールの命は取らずにいたわ。もっとも、手足を失くした上に呪われた状態で生きて行かなくてはならなくなったけれど。命あっての物種などというけれど、私だったら願い下げだわ」
リンクスの口元に笑みが浮かぶ。
「では皆さま、私はここでお暇しますわ」
いうだけ云い、一礼すると、リンクスの姿は溶けるように消え去った。
★ ☆ ★
ペンを走らせる手を止め、モルガーナはゆっくりと顔をあげた。
手の羽根ペンをインク壜に放り込み、やや目を細め周囲を伺う。
ここは慣れ親しんた執務室。室外に護衛の者はいるが、室内には自分以外は誰もいない筈だ。
「気のせい……?」
眉をひそめる。どうにもおかしい。
「ほう……。さすがは女王陛下。まさに諜報王国の頂点というべきか」
突如として目の前に現れた仮面の男に、女王はビクリと震えた。
「何者か?」
「これは失礼を、女王陛下。【ブラッドハンド】粛清者のひとり、レイヴンだ」
男の名乗りに、女王の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「ふふ。遂に私の番ということか?」
「いや。城内にいた目障りな暗殺者共は、まとめて中庭の植え込みに放ってある。後で回収し、好きなように尋問するといい」
「……何人おった?」
「四人。内ふたりは財務大臣を、残りふたりは宰相閣下を狙っていたようだ」
レイヴンの答えに、女王は目をそばめた。
「やれやれ、随分と妾も侮られているようだ。して粛清者殿、此度の来訪理由は?」
「これを」
レイヴンが懐から取り出した羊皮紙を女王に手渡す。
ここに来るまでに始末してきた者たちのリストを。
「公爵を除き、他の者は帰らぬ旅に出た。女神アレカンドラに唾吐きし者どもだ。我らが女神様よりの伝言だ。『潰せ』以上だ。」
「ま、待ってくれ粛清者殿。こやつらはなにをしたのだ?」
殺された者のあまりの数の多さに、さすがの女王も狼狽えた。
「そこに記されているのは貴族だけだ。教会関係者となると、その倍以上になるぞ」
女王は呆然とレイヴンの朧げな仮面を見つめた。
「よりにもよって連中は、アレカンドラ様より使命を帯びている少女を殺したのだ。いや、ディルルルナ様の加護により、少女は死ぬことができずに存えた、というべきだろう」
レイヴンは説明した。
反教皇派が女神アンララーの加護を得ている少女を、次期教皇として擁立しようとし、それを察知した教皇派の最右翼であるマリーズ大主教の派閥がその少女を殺害。
これにより女神アレカンドラはもとより、女神アンララーは激怒。今回の粛清が行われたということを。
「少女と云うのは、話に聞く神子様のことであろう? 殺害されたというのに、生きていると云うのはどういうことか?」
「彼女は女神ディルルルナ様の加護により、即死することはできないのだよ。もっとも、そのままだとすぐに死んでしまうがね。彼女の殺害は冒険者組合事務所で行われた。故に助かったのだろう」
答え、そしてレイヴンは女王の持つリストを指差した。
「暗殺組織【狂犬】を擁し、彼女の殺害を実行したドワイヤン公爵は女神自らが粛清された。ドワイヤンは残りの人生、一切の平穏を得ることもなく生きていくことになるだろう」
レイヴンの言葉に女王は震え上がった。それはまさに、テスカセベルム王に架せられた呪いと一緒ではないか!
「残りは我らが女神の命に従い、俺が粛清を行った。とはいえだ、このままだと血縁だのなんだのが後を継ぐだろう?
我が主はそれを望んでいない」
モルガーナは頭を抱えたくなった。貴族家を潰す。それは問題ない。だが公爵家を潰すとなると、いろいろと面倒なのだ。
既に血は大分薄れてはいるが、紛れもなくドワイヤン公爵は王家に連なる家である。柵のすべてを断つことを考えると、陰鬱な気分になる。
「さて陛下、これを」
レイヴンが小さな木箱を置く。
「これは?」
「面倒な仕事が発生するのだ、それに対する報酬を払うのは当然だろう。それは我らが主から陛下への報酬だ。では、俺はこれで消える。邪魔をした」
木箱を開ける。そこには、柔らかな布の上に指輪がひとつ。その指輪の台座に乗る宝石に、女王は目を見開いた。
指輪に固定されたそれは――
「黒い……真珠!?」
★ ☆ ★
ふたりの少女は不安げな面持ちで席についていた。
先ごろ組織を脱退し、月神教暗部の総責任者であるガブリエルに庇護を求めたふたりだ。
本来であれば、簡単に組織を抜けるような輩など、どこも相手にはしないだろう。だが、彼女たちの場合は事情が違った。
その組織の中枢が、本来、彼女たちが仕えるべき者に対する忠誠を、信仰を失ってしまったからだ。叛意を示すのではなく、利用するという方向に。
そのような事情であるのならば、話は別だ。
間諜としては、このコンビは非常にアンバランスであった。
情報収集、分析に非常に長けた痩せぎすで長身の娘。そして間諜としての技能は残念であるものの、対人を目的とした徒手格闘術に関しては非常に優れた、ぽっちゃりとした小柄な娘。
ふたりは姉妹として、このサンレアン教会に修行に来た侍祭となっている。
部屋の扉に手が掛かる気配を感じ、ふたりは立ち上がった。
「待たせたわね、ふたりとも。あなたたちの移籍は上手くいったわ。それと、あなたたちの元いた組織は、このままだと分裂、解体となりそうね」
「どういうことですか?」
姉ともいってよいような年齢のガブリエルに、痩せた少女は問うた。
「女神様を裏切ることを決意した愚か者がいるそうよ」
「あぁ……多分、【七】ですね。ほかにも彼女について行った連中は多いと思います」
「……」
だがガブリエルはただ肩をすくめるだけだ。
「ま、そっちはどうでもいいわ。粛清者が大々的に動いているみたいだもの。きっと後悔することでしょう。
それであなたたちの新しい所属だけれど、【ブラッドハンド】所属になったわ」
「は?」
「え?」
ふたりは目を瞬いた。【ブラッドハンド】に所属できないか、などと考えたことはあるが、単なる夢物語程度に思っていたのだ。
「あなたたちは【小指】。情報収集役ね」
ふたりの少女は驚きのあまり、ただ目を見開いていた。
「コードネームはいずれつけるとして、名前はどうする? 今使っている偽名を本名にする?」
ガブリエルが問うた。
痩せた少女はエリー、ぽっちゃりした少女はエミーと名乗っていた。
エリーがどうするか悩んでいると、急にエミーが手を挙げて発言した。
「あの、神子様につけていただくことはできないでしょうか?」
「キッカ様に? お願いすれば大丈夫だろうけれど……」
どう、説明したものか。
「先日、私の正体が露見してしまったので、正直に話しても大丈夫だと思います」
ふたりの少女は名前を持たない。物心ついたときには【ナンバーズ】で養われており、その時には数字で呼ばれていたのだ。
実力に合わせて序列が変動するため、その番号もコロコロと変わる。
このサンレアンに来た時には、エリーは十三、エミーは十九の序列であった。
「キッカ様はふたりのことを、エリーとエミーで認識しているから、それでいいじゃないって云うかも知れないわよ」
「その時にはそれにします!」
元気よく答えるエミーに、エリーは苦笑する。
「エリーはそれでいい?」
「はい。構いません。神子様が選ばれた名前であるのなら、それが私の一番です」
淀みなく答える少女に、ガブリエルもまた苦笑した。
感想、誤字報告ありがとうございます。