17 仕上げを御覧じろ:後
憂鬱だ。
まさか三十五にもなって、こうも酷い失態をしでかすとは。
娘の失望に満ちた目は、どんな罰よりも堪える。
だがそれも致し方ない。甘んじて受けるしかない。
自分がどれだけ礼を逸していたのか、後になってから気付くなど、愚かにもほどがある。どう振り返ってみても、あの時の私の態度は、娘の命の恩人に対するものではないのだ。
ヴィオレッタの冷たい視線に加え、ワルターの失望で満たされた言葉も堪えた。
王都別邸の維持管理を完璧に行っている忠実なるワルター。彼がいるからこそ、私はなんの心配もなく王都に滞在できるのだ。
その彼の言葉を何故私は無視したのか。
『お父様、なぜあのお方を威圧などしたのですか!』
『旦那様、だから申し上げようとしておりましたのに……』
ふたりの怒りと失望の声が、私の胸を締め上げる。
娘に嫌われるのだけはなんとしても避けたい。
どうにかして挽回しなくては。
それはさておき、この薬だ。
懐に忍ばせてある小瓶に、ポケット越しに触れる。
切り裂かれた喉をもたちどころに治すほどの薬。
ダンジョンからも魔法の回復薬が発見されることはあるが、あれはゆっくりと傷を治していくものだ。いや、ゆっくりといっても、目に見えて治っていくのが分る速度ではあるが。
だが、その治癒速度では致命傷を癒すには至らない。間に合わない。大抵は傷が塞がるまでに失血死してしまうのだから。
致命傷をも回復させる薬。そんなものをポンと渡す者。
そしてヴィオレッタとワルターの証言。
まるで月光のような艶をたたえた闇のような黒髪を持った美女。
ヴィオレッタは救われた時、膝に抱えられていた際に彼女を見上げ、その顔を見たという。
そしてワルターはヴィオレッタの有様に、慌てて娘の前に跪き怪我を確認しようとした際に、隣にいた彼女を下から見上げ、その顔を見たとのことだ。
ふたりは声を揃えて云ったのだ。
あの方は、女神様であると。
だが、さすがにその言葉を簡単に信じる訳にはいかない。いや、信じたくないというのが本音だ。
六神はそれぞれ対となっている神がいる。
テスカカカ様とナナウナルル様。ディルルルナ様とナルキジャ様。そしてノルニバーラ様とアンララー様。
対となっている神々は、それぞれを補い合っている。
ヴィオレッタとワルターの云うことが確かなのなら、顕現されている神は女神アンララー様なのであろう。
だが、これが問題なのだ。
正義の神の対となる女神。
美の女神の隠された側面は、謀略と粛清。
正義の下した審判の執行者。罪に対し罰を与える女神なのだ。
そのアンララー様がこの地を闊歩しているということは、我らの頭上になんらかの罰が落とされるということではないのか?
そんなことを考えていると、侍従が陛下の到着を私に告げた。
本来なら控室で待ち、呼び出し後にこの謁見の間に入るわけだが、私はそんな慣例など無視して既に謁見の間で待っている。
少なくとも、それが私には許されるようになっている。
それも十年前に起きた森津波の最中にあったことが原因だ。
よりにもよって、防衛戦の真っ最中に王都へと呼び出されたのだ。私は作法など無視してこの謁見の間に入り、先に謁見していたどこだかの男爵を押し退け、陛下に求められていた報告をするだけし、とっとと帰ってきたのだ。
森津波が終息するまで二度と呼びつけるな。状況を知りたければ自身の足で見に来るようにと云い残して。
……田舎貴族の若造が云う言葉ではないな。
恐らくは、公式の場でこれだけの無礼をしておきながら、首が繋がっているのは私ぐらいだろう。だが私の首を刎ねることさえできぬほど、十年前の森津波の規模は酷かったのだ。私の代わりとなる者がいなかったことが幸いした。まぁ、あんな田舎で延々と魔物と殺し合いを続けるなど、誰もやりたくないだろうよ。
もっとも、それが原因で褒美は一切もらえなかったが。とはいえ、防衛に掛かった経費分はふんだくったのだから、全く問題はなかったがな。
自嘲めいた笑みが浮かぶ。
以来、謁見は朝一番となり、私はこうして陛下を待つようになったのだ。当時は、下手に控室に押し込めてもロクなことにならないと思っていたに違いない。
扉の閉まる音が聞こえた。ついで複数人の足音。
跪き、頭を垂れる。
さて、此度の森津波の報告をしたあとは、ヴィオレッタのことに関して問い質させてもらうとしよう。
陛下の言葉を待つ。だが、聞こえてきたのはいつもの決まり文句ではなかった。
「あぁああああぁあああっ!」
突然の叫び声に、私は頭を上げた。
すぐに目に入った光景は異常なものだった。
頭を抱え、喚き叫ぶ国王陛下。
抜剣する護衛の近衛騎士ふたり。
玉座へと駆け込んでくる王太子殿下とその護衛。
さすがにこれはマズい。
私は立ち上がり玉座へと駆ける。
近衛が陛下を殴り倒した。距離が近すぎたのが幸いしたのだろう。陛下は斬られることはなかった。だが、もうひとりが倒れた陛下を斬り殺すべく、剣を振り上げた。
させるかよ!
剣を持つ騎士の手首のあたりを掴み、振り下ろすことを阻止する。と同時にその腹に右膝を叩き込んだ。
む? どういうことだ?
たかが私の膝蹴りの一撃だけで、騎士は崩れ落ち、喀血した。鎧を着ていないとはいえ、いくらなんでも打たれ弱すぎる。
だが白目を向いて倒れている騎士は、もはや戦闘不能であると云うのは明らかだ。
いや、いまはこんなことを気にしている場合ではない。
私は剣を拾い上げると、すぐ背後で暴れている騎士に向き直る。
状況は最悪だった。
殿下の護衛は、陛下と戦っていた。さすがに斬り伏せるわけにはいかず、彼は陛下を無力化するのに手古摺っている。陛下もかつては、一線級の剣士だったのだ。そこらの兵士なぞよりはるかに腕が立つ。
だが陛下までもが乱心するとは、いったいどうなっているのだ!?
『本日はなんとしても国王陛下に一番に謁見することをお勧めしますよ』
彼女の言葉が思い出される。
こういうことか!
そして殿下は――
近衛の剣が、殿下の胸を刺し貫いていた。
さすがに丸腰では、剣を持った騎士には敵わなかったのだろう。
ちっ!
私は卑怯とは分かっていながらも、背後から剣の腹で騎士の側頭部を殴りつけた。その一撃で騎士はフラフラと数歩よろけ歩いたかと思うと、ばたりと倒れた。
気絶したか。
陛下は殿下の護衛が押さえつけ、侍女のひとりが手際よく拘束していた。
殿下は……まずい、致命傷だ。
刺さったままの剣を一気に引き抜く。
「殿下、これをお飲みください」
私は懐から小瓶を出すとコルク栓を抜き、薬を殿下の口に流し込む。
殿下が薬を嚥下した途端、金色の光が殿下の体を覆うように巡り消えた。
その光景に私はもとより、護衛の騎士と医療箱をもった侍女も目を丸くして見ていた。
噴出していた出血が止まっている。
『その効果はその時目の当たりにすることになるでしょう』
またも彼女の言葉が思い出される。
あぁ、本当に思い知った。このような、おとぎ話にしか出てこないような薬が本当にあるなどとは、これまで思いもしなかった。
いったい、どこまで予見しているというのか?
いや、愚問か。なにせ女神様であらせられるのだからな。
自嘲めいた笑みが浮かぶ。
あぁ、もう信じるしかない。
「へ、辺境伯、この、薬は?」
咳き込みながら、殿下が私に問う。
胸を刺し貫かれたというのに、意識をしっかりと保っているとは、なんという胆力か。
「さるお方より授かったものです。昨夜、私の娘もこれで命を救われました」
私は答えた。そして確認をする。
「なにがあったのか、お教え願い――いや、その前に確認させて頂きましょう。
約二十日ほど前に、異世界より英雄を召喚した、というのは事実ですかな?」
私の問いに、殿下があからさまに動揺した。
あぁ、なんてことだ。できればペテン師の戯言であって欲しかった。
我が国は、今、非常に悪い状況にあるということではないか。
「どこで、それを?」
「この薬を授けてくださった方より聞いたのですよ。そしてそのお方はこうも云っておられましたよ。
英雄として召喚された三人は、ひとりは殺人鬼、ひとりは強姦魔、そしてひとりはただの町娘と」
「なん……だと?」
「私の娘は昨夜、その強姦魔に襲われ、抵抗した結果喉を切り裂かれました。あのお方の慈悲なくば、その場で果てていたことでしょう」
殿下は額に手を当て項垂れた。
「あぁ、なんてことだ」
「殿下、お話は別室で。すぐに用意いたします。レナート、ここの始末は任せます」
「わかった。何人か人をよこしてくれ。それとダミアーノ医師を。あとここは閉鎖してくれ」
「了解」
そういうと彼女は、側に控えていた侍女にテキパキと指示すると、やおら殿下の服を空いた穴のところから破いた。
「お、おい、ヴァンナ?」
「一応、傷の確認を。……傷跡ひとつありませんね。この目で見ていなければ、剣で貫かれたなどとは、誰も思いませんよ。
辺境伯、私、ヴァンナ・サルヴァトーリからも感謝を。ありがとうございます」
サルヴァトーリ!? あのサルヴァトーリ家の者か。
い、いや、いくらジャンルイジ殿に憧れているからといって、いまはそんな場合ではないな。
とにかく、把握しておかねばならない情報が大量にありそうだ。
「では殿下、バレルトリ辺境伯、こちらへ。お部屋へご案内致します」
殿下と私は立ち上がると、ヴァンナ嬢について謁見の間を後にした。
どうやら今日は長い一日になりそうだ。
それにしても、すべてはヴィオレッタの云う通りだった。
あぁ、本当に、もうどう挽回したものか。
もし『大嫌い』などと云われようものなら、私はもう生きていけんぞ。
今ほど私は、数時間前の自分を殴りたいと思ったことはなかった。