15 王太子の憂鬱
「戦争だ」
馬鹿なことを云いだした陛下に、私は深くため息をついた。
突然スパルタコ二世と名乗りだしたかと思ったら、今度は戦争などと。
我が親ながら呆れ果てる。こんなことだから母上に愛想を尽かされるのだ。
確かに我が国は行き詰りつつある。
現状はさしたる産物もなく、死の森と山岳に囲まれた国だ。
だがすべてが開発されつくしたわけではない。
山が、それこそ山ほどあるのだ。
探せば資源はいくらでも見つかるだろう。やるべきは国内の産業開発であり、決して戦争ではない。
人的資源を悪戯に減らしてどうするというのか? いまだに我が国は十年前に同時発生した森津波と山津波……魔物共の集団暴走から立ち直っていないというのに。
「ふふふ、サヴィーノよ、そんな顔をするでない。
勝つための方策はできているのだ。我が国の民を使わずに、軍団を作り出せるのだ。それも一騎当千の猛者揃いのな」
「……陛下、悪いことは申しません。ダミアーノ医師に診てもらいましょう。大丈夫。ダンジョン産の良い薬があると聞きます」
「酷いな、息子よ!」
私の言葉に、陛下が大きく目を見開いた。
云わせてもらおう。
酷いのはあんたの頭だ!
なんでこんな世迷言を云うようになるまで放っておいたのだ。
私が学院にいた二年間、周りの者たちはなにをしていたのか。
クリストフォーロ殿が存命であったなら……。
一昨年病死した老宰相の有能さを思い出す。最期まで後継となる有能な者を育成できなかったことを、森津波で後継者を軒並み失ったことを嘆いていた。
「息子よ。私は頭がおかしくなった訳ではない。無敵の軍団を生み出す当てはあるのだよ。
カッポーニ枢機卿」
陛下、頭のおかしい人間は、自分がおかしいとは思っておりません。枢機卿まで巻き込んで、いったい何をしているのですか!
私が憤っていると、カッポーニ枢機卿は卓上に宝珠を置いた。丁度、両掌で包み込めるほどの大きさで、紫色のクッションに載せられている。
「サヴィーノ殿下、こちらは異世界より英雄を召びだすことのできる魔道具です」
枢機卿よ、あなたもか! いったいどこからそんな胡散臭い代物を手に入れてきたのだ。また怪しげな似非商人に騙されたのではあるまいな?
確か以前、高額で『幸運を運ぶ壺』とやらを買わされていただろう!?
私の胡乱な眼差しに気が付いたのか、枢機卿は満面の笑みを浮かべると説明をしはじめた。
……以前から思っていたことだが、本当にその口髭が似合っていないな。髭の先をカールするのは、まぁ良しとしよう。だがカールさせすぎてまるで豚の尻尾のようになっているのはどうなのだ?
私としてはそんな胡散臭い水晶玉よりも、その髭センスの方が気になる。
「殿下、これは【英雄召喚の宝珠】と呼ばれる魔法具です。先だってダンジョンより発見され、我が教会に寄贈された宝物です。
もちろん、すでに鑑定済みであり、これが本物であることは間違いありません」
枢機卿は自信満々だな。だが私は知っているぞ、【鑑定】が完璧ではないことを。あれはあくまでも目安でしかないということを。【炎の剣】と鑑定されたからといって、我々が想像しているものと同じではないと云うことを。
以前、喜び勇んでそれを振るった騎士の右腕が焼失したのを、あなたも覚えているはずだろう。
そういえば、いまあの危険物はどこにあるのだ? きちんと封じてあるのだろうな?
「聞いたか、サヴィーノ。この魔道具さえあれば、兵士などいくらでも都合がつくのだ。それも、英雄の力を持った兵士をな」
「もちろんです。宝具ですから」
なんで自信満々なんだよ!
軍事大臣に目を向けてみる。彼はむっつりとした顔で座っている。
まぁ、そうだろうな。騎士や兵士たちを貶めているようなものだからな。
「陛下」
「なにかな? ジャコモ軍事大臣」
「その兵団は私に預けて貰えるのでしょうか?」
「もちろんそのつもりだとも。ジャコモ将軍」
ジャコモ軍事大臣、あなたもか!
く、どうしても戦争するつもりなのか? だいたい物資の準備はできているのか? 問いただしたいが、私は戦争には反対だ。そんな質問などしてみろ、条件付きで戦争に賛成することになってしまう。
「では陛下、相手はどこになるのです?」
「南だ。かの地から魔族を一掃し、解放するのだ!」
南だと? よりにもよって、正義の神の国へと殴り込むのか!
私は頭を抱えたくなった。南方大陸は確かに目と鼻の先だ。島を三つ渡ればすぐだ。だが、そこへ軍を移動させるとなるならば、話は別だ。
移動に何を使うつもりだ? 時間や経費を考えれば船は現実的ではないぞ。そもそも、大型船を置ける港などないのだ。まさか各島に橋を渡すとか云いだしたりしないだろうな!?
「サヴィーノよ。そんな顔をするな。これより起こることを見れば、我らの勝利が約束されたものだとわかる」
「そうですな、陛下。殿下、まいりましょう」
陛下と枢機卿が立ち上がる。
行く? どこへ? まさか――
「これより英雄召喚を行います」
くっ、なんて鬱陶しい笑顔だ。いまほどこの髭面を殴りたいと思ったことはないぞ。
我々は数人の騎士を伴い、礼拝堂へと移動した。
礼拝堂内はベンチや跪き台などは取り払われ、殺風景な状態になっている。そんな中で、司祭たち三人が私たちを待っていた。
三人とも城では見たことのない顔だ。城下から連れだされたのだろう。
こんな深夜に呼び出されるとは、彼らも災難なことだ。
……まさかと思うが、彼らもこの召喚とやらに乗り気なのではないだろうな。
あの水晶玉が云うように本物だとしたらだ、それを使うことは問題でしかないだろう。
そもそも、テスカカカ様の教えに反するのではないのか?
他者に頼ることを良しとしないわけではない。だが、我らが成すべきことを全て押し付けるというのは間違っている。彼らはそのことを自覚しているのか?
陛下と私、大臣はテスカカカ様の立像の前にたち、四名の騎士はふたりが礼拝堂を出て入り口を固め、残りふたりが入り口内側を護るように立った。
三人の司祭たちは枢機卿と共に懺悔室の前に立っている。司祭のひとりが宝珠に手を当てているな。なにをしているのだ?
!? た、倒れ――いや、大丈夫なのか?
司祭のひとりが懺悔室に寄り掛かるように腰を下ろした。どうやら立っていることも難しいほどに疲弊しているようだ。
そして、枢機卿の手にある宝珠が赤く染まり、脈打つように点滅している。
……枢機卿よ。本当にその宝珠は安全なのだろうな?
陛下に目を向けると、陛下も同様に不安に思っているようだ。
「では、召喚の儀をはじめます」
枢機卿が礼拝堂中央に足を踏み出す。
そして宝珠を両手で掲げると、高らかに叫んだ。
「異世界の英雄よ、我が呼びかけに答え、彼の地より現れ給え!」
すると枢機卿の足元に白く輝く光が現れ、たちまちの内に床に魔法陣を描き出していく。
枢機卿はそれに驚き、慌てて端へと戻っていった。
やがて魔法陣が完成すると、その内側が白い光に溢れ、光の柱が立ち上がった。
「おぉ……」
「なんと美しい……」
陛下と大臣が呟く。
美しい? どこがだ。私はこの光が恐ろしくて仕方がないぞ。
まったく温かさを感じない光。こんなものがあってよいのか!?
魔法陣一杯に立ち上っていた光の柱は徐々にその中央に収縮していく。やがて、その中央に、下から、魔法陣から何かがせり出してくるのが見えた。
それは人影。
その影が完全に魔法陣から出きった直後、光は唐突に消え失せた。
光の消えたあと、そこには茶髪の、筋骨隆々とした男がひとり立っていた。
上下一体となった、やたらとポケットのある奇妙な黒い服を着ている。
あぁ、司祭のひとりが端へ誘導しているな。
ん? 残りのひとりがまた宝珠に触れて……おいおい、またへたり込んだぞ。
その宝珠は本当に安全なのだろうな!?
かくして、枢機卿はその後、ふたりの英雄(?)を呼び出した。
ひとりはくすんだ黒髪の痩せぎすな男。先の茶髪の男と似たような恰好をしている。いや、こっちは上下分かれているな。色は水色。しかし黒髪か。黒髪は神の髪色とも呼ばれているものだ。この男はアンララー様に関係する者なのか? とてもそうはみえないが。盗賊崩れのならず者のような目をしているぞ。いや、人を見かけで判断してはならんな。
そして三人目がまだ子供といってもいい少女だ。亜麻色の髪をした……あー、やたらと胸の大きさが目立つな。小柄だが、これで子供ということはないだろう。
紺色の上衣と、深い緑色のチェックのスカートを穿いている。胸以外これといった特徴のない地味な少女だ。
枢機卿が三人を礼拝堂の中央に集めると、陛下が演説を開始した。
いちいちまともに聞く気にもなれん。
なにしろ先ほどまで、ブツブツと練習していたのが聴こえていたからな。
要は、魔族が世界を荒らしている。我が国は魔族に対する最前線にある。奴らを一掃し、魔王を滅ぼし、世界を取り戻すのだ! とかなんとか、嘘を並べ立てているハズだ。
陛下はどういうわけか演説の技術だけは高いのだ。内容がどんなに残念でも、耳を傾け聞いてしまう。まぁ、聞かせるだけの技術であるから、云うことがあまりにもくだらなければ無視されるだけだが、今回はそうもいくまい。
彼らは何も情報を持っていないのだ。陛下は騙すことも簡単と考えているのだろう。それに、移動中に枢機卿が云っていたことが本当ならば、彼らはあの宝珠の呪いによって、我々に反することができなくなっている筈だ。召喚した時点で、どうとでもなると考えているに違いない。
まったく、我が親ながらロクでもないな。まぁ、それを止め切れなかった私も同罪か。せめて、私にできる限りで、彼らに便宜を図らねばなるまい。
陛下の演説が終わり、枢機卿が鑑定の水晶盤を運んできたテーブルの上に置くと、彼らに水晶盤に手を置くように指示する。
茶髪の大男がむっつりとした表情のまま、云われた通りに右手を水晶盤に置く。一呼吸程の間を置き、音もなく彼の情報が水晶盤の上に映し出された。
これは、彼の側からは一切見ることはできない。
名前:モリス・エドモンド
種族:人間 性別:男 年齢:26歳
職業:繧ィ繝ゥ繧ク繝九い
属性:鋼
筋力:B
知力:B
気力:D
体力:B
技巧:C
敏捷:C
走力:D
魅力:C
運気:C
技能:高速自己再生 鉄身 徒手軍隊格闘術 機械整備 讖滓「ー蟾・蟄ヲ 基礎学術知識
祝福:アコーマンの祝福
展開されたステータスを見る。
強い。その一言に尽きる。Dがふたつしかないのだ。
人としての標準ステータス値は良くてDだ。Cともなれば、それぞれの項目部分の内容でかなり目立つ存在となる。ましてやBともなれば、国に十人いるかいないかだ。Aは神に選ばれし者のみが至る高みとも云われ、さらにその上のSともなれば、現人神と謳われる程だ。
技能の高速自己再生と鉄身、そして徒手軍隊格闘術。軍人なのであろうか? どうやら格闘に才のある人物のようだ。そして、恐らくは多少の怪我などものともしない。もしかしたら、欠損すらも再生するかもしれない。
ただ職業と技能の一部がおかしな表記になっているのが気になる。
そして祝福。アコーマンというのは、異世界の神であろうか?
「ひとつ確認したい。我々は元の世界に帰ることはできるのか?」
モリス殿が訊ねてきた。
そうだ、そこはどうなっているのだ、枢機卿。
私は枢機卿に目を向けた。
「もちろんできますとも。ですが、その為には魔王軍によって奪われたこの【召喚の宝珠】の片割れ、【送還の宝珠】を取り戻さねばなりません。
「奪われた?」
「はい。この宝珠はもともと、遺跡となっていた女神アレカンドラ様の旧大神殿最奥に隠し安置されていたものなのです。魔王軍の不審な動向から、それまで不明であった旧大神殿の場所を特定。我が王国軍と魔王軍が大神殿で激突したのです。その際、魔王軍が狙っていたと思われる宝珠のひとつを確保。ですが、対となる【送還の宝珠】を奪われてしまったのです」
大嘘ではないか!
まったく、よくもそんな嘘をスラスラと。枢機卿よ、ここは神の御前であるのだぞ。なんと不遜な!
このような人物が教会のナンバー2で大丈夫なのか?
いまさらだが、勇神教が心配になるぞ。
だが確信した。彼らを帰す方法はないのだ。
陛下はどう責任をとるか考えているのか? まさか、事が済んだ後は殺せばいいなどと考えてはおるまいな。
陛下を盗み見るように視線を向ける。だがその顔は微かな笑みを浮かべるだけで、本心は窺い知れない。
中身は無能だというのに、外面だけは立派な王というのは始末に悪いな。
そして二人目の男が水晶盤に手を置いた。
名前:ヨンサム・チャン
種族:人間 性別:男 年齢:24歳
職業:驟埼?∵・ュ閠
属性:火
筋力:C
知力:D
気力:D
体力:C
技巧:B
敏捷:B
走力:C
魅力:D
運気:C
技能:発火 火炎放射 話術 霆贋ク。謫咲クヲ 基礎学術知識
祝福:タルウィの祝福
モリス殿ほどではないが、彼も優秀だ。しかも炎の力! 魔法使い、炎術師か!
そしてモリス殿と同様に、職業と技能のひとつの表記がおかしなことになっている。
ふむ。もしかすると、我々の世界にはない職業と技能なのかも知れぬな。職業はともかく、技能は使えるのだろうか?
祝福に関しても、やはり聞いたこともない神(?)のものを得ているようだ。
この世界においても、この祝福は有効になっているのだろうか?
いずれにせよ、彼らを野放しにするのは問題があるように思える。
しばらくはこちらの世界に慣れてもらうとでもして、観察し、安全を確認せねばなるまい。勝手に攫っておいて、実に身勝手であるとは思うが。
このようなことをしでかしておいて、我が国には神罰が落ちるのではなかろうか。心配でならん……。
そして最後に小柄な少女。怯えたように周囲を見回しながら、そろそろと水晶盤に手を置いた。
名前:ユーヤ・フカヤマ
種族:人間 性別:女 年齢:13歳
職業:学生
属性:土
筋力:D
知力:D
気力:C
体力:C
技巧:D
敏捷:F
走力:F
魅力:D
運気:F
技能:炊事 洗濯 掃除 基礎学術知識
祝福:――
……普通だ。いや、体力と気力は素晴らしいものだ。大抵人族のステータスは、DとEで構成されているものだ。たまにD+という表記が出ることもあるが。
各ランクの間にある壁は、非常に高いものなのだ。
もしALL:Dなどという未成年者が見つかったのなら、各分野の者がこぞって自分たちの徒弟としようと奪い合いが始まる程に。
それを考えれば、敏捷と走力、運気以外DとCという彼女は非常に優秀な人材だ。敏捷と走力が低いのは、足に問題を抱えているからだろう。少々足を引き気味に歩いていた。……あぁ、この運気だ。恐らく過去に大けがでもして、後遺症が残ってしまったのだろう。不憫な……。
本来であれば、彼女を優秀な人材として登用するのだろうが……いかんせん、先のふたりが優秀過ぎる。
皆の見る目が明らかに失望の色を浮かべている。
自覚しているのか? 貴様らは未成年の子供になにを求めているのだ。
枢機卿の云う召喚の儀は終了した。既に時刻も真夜中を過ぎた。彼らの今後に関しては明日にすべきだろう。
モリス殿はジャコモ軍事大臣と、ヨンサム殿は陛下と話している。ユーヤ嬢はひとり不安そうにしていた。無理もない。
「陛下、もう時刻も時刻です。話は明日にするのがよいでしょう」
「あぁ、それもそうだな」
私の言葉に陛下が重々しく頷く。
あとは彼らを客室へと案内さえすれば、少なくとも今日はもう休める。
さすがに疲れた。
だが、今後のことを考えると頭が痛いな。騎士たちが彼らをどう思うかだ。それとユーヤ嬢だ。彼女に荒事は無理だ。なにかしら今後のことを考えなくては。
まったく、どこの馬鹿だ、あんな厄介な代物を寄贈するとは。
たたき壊してしまえばよかったのに……。
英雄召喚より七日が過ぎた。幸いなことに、問題はなにも起きてはいない。召喚されたふたりの内ひとり、モリス殿は剣の訓練に明け暮れている。もっとも、彼等の正体については秘匿せねばならないため、その訓練相手は召喚の折り、護衛についてた騎士たちだけだ。騎士たちもモリス殿より格闘術を学んでいるらしい。
そしてヨンサム殿だが、とくになにもせず、ぐうたらとしているようだ。かなり女癖が悪いらしく、メイド頭に苦情が相次いでいるらしい。
だが陛下はそれに対処するつもりがないようだ。思うに、彼の炎の技を恐れているのだろう。
訓練用の、廃棄する鎧を着せた案山子を一瞬で焼き尽くし、鎧を溶かしてしまったあの火力は恐るべきものだ。あの人物を本当に制御できるのか?
彼の目付けには召喚主である枢機卿がついているはずだが、今朝顔を合わせた時には、目に見えて疲れ果てていた。
元気なのは陛下だけだ。
まぁ、そうだろうよ。
私にすべての執務を押し付けおって。
学院から急遽呼び戻されたと思ったら、ため込んだ執務をやれとか、ふざけるなといいたい。
幸いすべての課程を修了しているから、あとは卒業までの数ヵ月、人脈づくり以外はすることはなかったのだが。
ドンドンドンドン!
「サヴィーノ、大変だ!」
「レナート、ノックは殴るもんじゃない」
レナート・レアルディーニ。レアルディーニ侯爵家の三男坊で、私の幼馴染であり、いまでは護衛役でもある偉丈夫だ。
「準備をしろ。メーツィオの近隣にあるバスキ村付近でゾンビが確認された」
ガタッ!
私は椅子を蹴倒すように立ち上がった。
「メーツィオだと?」
ここテスミリアから西方にまっすぐ伸びた大街道沿いにある街だ。当然のことながら、魔物どもの棲み処である大森林からは遠く離れた場所だ。
「そうだ」
「あそこは大森林からは離れた場所だ。なぜそんなところにゾンビがでる?」
「感染者がいたんだろうよ。すでにバスキ村の人間は村を放棄してメーツィオに避難している。だが村はずれにある大農場の一家と農夫たちが行方不明だ」
レナートの言葉を聞き、私は執務机に立て掛けておいた聖剣を手に取った。
聖剣キリエ。聖剣などと呼ばれているが、私にとっては呪いの剣のようなものだ。例えどこかに置き忘れようとも、常に私の手の届くところに有り、ひとたび抜剣すれば、頭の中に大音声で歌声が響き渡るのだ。まさに私に憑りついていると云ってもいい。
このような得体の知れない剣を、不死の怪物を容易く屠れるからといって『聖剣』などと呼ぶのは間違っている。
だが、こういう時に役にたつのは確かだ。なにしろ簡単に被害を減らすことができるのだから。
「準備はヴァンナが進めてる。直衛隊にも連絡済みだ。あとはお前が行って号令をかけるだけだ」
「また随分と手が早いな」
レナートを連れ立って執務室をでる。ヴァンナというのは、私の幼馴染にして、専属の侍女だ。先々代の近衛騎士団長ジャンルイジ・サルヴァトーリ殿の孫娘で、武術の腕もそこらの兵士以上の技量を持っている。
「これが三度目だ。さすがに慣れたよ」
「できるだけ早く片付けて戻らなくてはならない」
私の硬い口調に、レナートに雰囲気が変わる。
「なにがあるんだ?」
「バレルトリ辺境伯が近く王都に来るのだ。陛下が召喚したのだよ。それと、先だって起こった小規模森津波の報告だな」
バレルトリ辺境伯は森津波の抑えの要だ。彼の手腕のおかげで、十年前の大規模な森津波は最悪の事態を避けることができたのだ。いったいどれだけの命が彼に救われたことか。
その彼を突然王都に呼びつけた。それもこの時期に。これは戦争のために彼をこちら側、戦争賛成派に引き込むために、陛下は呼び寄せたのだろう。
そしておそらくは、また英雄召喚をバレルトリ辺境伯の前で行うはずだ。
正直、ゾンビよりもこちらのほうが憂慮すべき事態に思える。
だがゾンビを放っておくわけにもいかない。被害の拡大は防がなくてはならない。
「サヴィーノ……」
「なんだ?」
「それは、本来は軍事大臣がやる仕事じゃないのか?」
レナートが云う。
あぁ、まさにその通りだよ。だがな――
「あの御仁は今、別件にかかりきりなのだよ」
モリス殿と兵の訓練に関して、やたらと話していたからな。
おかしなことにならなければよいが。
それと、ヨンサム殿のメイドたちに対する行為は目に余る。これもなんとかせねばならない。
まったく、頭の痛いことだらけだ。
……。
……む?
おかしい。なにかを忘れているような気がする。
なんだ?
私は首を傾いだ。
「サヴィーノ、どうした?」
急に立ち止まった私を心配したのか、レナートが珍しく気遣うような声を出す。
なんのかんので心配性な友人に、私は微かに笑みを浮かべた。
「いや、なんでもない。きっと大したことではないのだろう」
私はそう答えた。
……だが、この時気に掛かった違和感が、非常に大切なことであるということを、私は欠片も気づかなかったのだ。
そしてそれが、取り返しのつかない事態を招いてしまうなどと、思ってもいなかったのだ。
森津波、山津波:ここでは魔物の集団暴走のことを指します。もちろん山津波は土石流のことでもあります。
アレカンドラ様は人払いだけでなく、キッカの存在をなかったことにしていた模様。