灰色のアメリカ・序章(短編版)
架空戦記としては初投稿となります、頼久×2です。架空戦記創作大会お題1の「アメリカ南部連合国」をテーマに南北戦争およびその後の歴史を少々書かせてもらいました。はっきり言って急いで書いた+著者の知識が十分でないせいでクオリティはあまりよくないです。
後、今回はとりあえず観測気球的な感じで書いてみたものなので、「続きが読みたい」とか「ここら辺がおかしい」等があればご指摘いただけると幸いです。
1862年9月、アンティータムの戦いでロバート・E・リー率いるアメリカ連合国軍(以下南)はアメリカ合衆国軍(以下北)を破った。余りにも凄惨を極めたこの戦いはアメリカ以外の国-つまりイギリスとかフランスとかその辺-から驚きのまなざしを向けられた。もうこんな血なまぐさい戦いは終わらせるべきだ、とする主張が盛んになったのである。特にこの主張を繰り返したのはフランス皇帝ナポレオン3世だった。
勿論彼はただ単に人命大事でこんなことを言ったわけではない。彼はアメリカ大陸への進出を目論んでいた。その基地として南は都合がよかった。また、イギリスが奴隷制の事で頭を悩ませているうちに彼らを出し抜いてやろう、という計算もあった。かくして南仏協約が1862年の秋のある日に締結された。この協定によって義勇軍がフランスより派遣された。この部隊はニューオーリンズを奪還するなど当初は西部方面で戦った。
こんなことを北は許さなかった。大統領エイブラハム・リンカーンは名指ししなかったものの内戦に対するいかなる介入も内政干渉とみなし、何らかの処置をとらざるを得ないと批判した。だからと言って彼は具体的に何かできたか、というとそんなことはなかった。翌1863年には奴隷解放宣言を出すも、フランスはそれを見なかったかのように義勇軍を増強。ベリービル、およびチャンセラーズビルの戦いでも北は敗北した。
これらの条件をチャンスとみなした南は、北への再びの侵攻を目論む。今回の主目的は奴隷解放宣言により動揺しているメリーランドら東部の奴隷州で南軍の強さを見せつけ、彼らを北から離脱させることだった。それを防ごうとした北軍とゲティスバーグで戦いになったが、フランスからの物資を融資されていた彼らは北軍をまたも打ち破った。同じころ発生したヴィッツバーグの戦いでもグラント将軍はフランス義勇軍を加えて大幅に増強された南の守備を打破できず、敗退した。この二つの戦いは第一次南北戦争の転換点と呼ばれることが多い。これによって南の勝利のチャンスはますます広がったように見えた。南軍は熟練の兵士を増加させ、フランスからの支援物資がこれを支えていた。北としてもフランスと開戦するわけにはいかず、フランス国旗を掲げた船がチャールストンやニューオーリンズに入っていくのを指をくわえてみているしかなかったからだ。それに対し北側は兵士を無駄死にさせるばかりで十分な成果を得ているとは言えなかった。各地で徴兵反対の暴動が発生し、北軍の戦力はさらに分散した。このような状況の中で11月19日、北は全ての奴隷解放を強行して奴隷解放戦争の側面を強めようとしたが、それに反発したケンタッキー、ミズーリ川以南のミズーリ(北側は北が軍事介入し後にアッパーミズーリ州が成立)、メリーランド、デラウェアが相次いで連邦からの離脱を声明、その後相次いで南へ加入した。
1864年、ワシントンDCは完全に包囲されていた。ミード率いる守備隊の士気は十分でなかった。兵士は南へ降伏しようとする市民の捕縛を命じられていたが、大体そうした兵士たちも逃げ出してしまったり、極端な場合だと奴隷と農場欲しさに南に降ってしまうのであまり効果はなかった。南に降参する気のない市民たちは次々と海路を使い疎開していた。南も特に彼らを追撃する気はなかった。ワシントンに残っていたのはどうせ逃亡しても黒人たちは逃亡奴隷扱いされて南送りにされるだろうからせめて南の兵士を道連れにしようとする武装した奴隷解放論者、それに従う黒人たち、守備隊及び現大統領であるリンカーンら一部の文官たちだった。リンカーンはこの年完全に過去の人であった。大統領選挙は奴隷解放論者のジョン・C・フレモントと和平派のジョージ・マクレランの対決になると予想されていた。なぜリンカーンがホワイトハウスへ残ったかは諸説ある。脱走して市民を見捨てたと批判されるのを恐れたから、、あるいは分裂を防げなかった史上最低の大統領と死ぬまで罵られるぐらいならと死に花咲かせようとしたという説もある。
南は8月19日から23日にかけてワシントンDCへの攻勢をかけた。勇敢だが無意味な抵抗を北軍およびその協力者は繰り返し、DCにいた黒人および奴隷解放論者の中で存命の者は一人もいなかったとされる。そしてミードは敗残兵とともに白旗を掲げた。大統領エイブラハム・リンカーンは降伏の情報を聞くとこめかみを銃で撃ちぬいて自殺した。守ろうとした者たちに見捨てられての死は、オーヴァル・オフィスに踏み込んだ南軍の将兵たちを涙させた。そして南は遂にアメリカの象徴たる場所を接収した。
フィラデルフィアに拠点を移した北はグラント将軍を指揮官としてたびたび反攻作戦を行わせたが、遂に目に見える成果を出すことはできなかった。そのような中、11月に行われた大統領選挙では和平派のマクレランが勝利。こうなってくると南もむやみやたらに攻勢をかけることもなく、次第に戦火は収まっていった。
かくして翌年、完全に内戦に介入しそびれて焦っていたイギリスの仲介もあり両軍はスリーマイル島にて和平した。和平の要目は
1、南北は20年の間相互不可侵とする。
2、北は南に対し現有の領土の合流を承認する
3、アリゾナ領土・インディアン領土を南の所領とする。
4、両国の捕虜交換を行い、足りない場合は逃亡奴隷5人と捕虜3人を引き換えにする。その代わり南はそれ以上の逃亡奴隷の権益主張を取り下げる。
5、南は北に対し現在南領にある北の資産を賠償する
ことだった。北の敗北だった。
戦争終結間もない1866年、南からロングストリート率いる軍がメキシコへ向けて出撃。ナポレオン三世との約束を果たすためだった。南北戦争を勝ち抜いた精鋭に共和国軍はなすすべなく敗北した。メキシコは改めて帝政となり、南は協力の報酬としてソノラ、チワワ、バハ・カリフォルニア、ヌエボ・レオン、コアウィラ、ユカタンを獲得した。しかし南の指導者たちはこれら新規に加わった州に住む人間を自分たちと同列に扱う気はなかった。クリオーリョ・メスティーソ以外の人間は軒並み奴隷にされた。そして奴隷化を免れた彼らもまたあくまでも準市民として扱われた。
また、南の経済は戦後さらに発展した。国土が戦場にならなかったこともあって特にディープサウスでは戦争を通じて工業が発展した。労働力には奴隷がそのまま横滑りし、またラテン系の準市民たちがその上に立った。このようなやり方に対し「古き良き南部の社会を破壊し、北の圧政者と同じ道を歩ませるものだ」と批判の声も上がったが、工業化自体は継続された。そして1869年、リー大統領のもと成立した奴隷保護法によって「むごい扱い」をすることが禁止されたが、実際のところこれが何を意味するのかははっきりせず、結局州に丸投げされた。
とはいえ問題がなかったわけではない。1つには戦時体制の終了とともに持ち上がった州の権利をどこまで認めるのかということ、2つには奴隷の処遇、3つには拡大を続ける移民の処遇である。
1つ目の州の権利については、北との軍事的対立という理由もあり、まず鉄道建設など複数の州に亘る問題、外交や軍事などに関しては引き続き中央政府がもつことになった。とはいえそれ以外の州と連邦の立場をどこで分けるかは議論が相次いだ。
2つ目の奴隷については、先述の通りリー政権下において奴隷への扱いの改善が行われたが、度重なる外圧によっても奴隷制そのものへの廃止へとは至らなかった。南の社会は奴隷の位置づけを工業化に伴って巧みにシフトさせ、実質的な無期限契約労働者へと変えてしまったからである。また南を提携国としておきたいフランスの介入もあって奴隷廃止の声はなかなか南部へ届かなかった。また、奴隷を解放すれば「北の陰謀」によって南が転覆しかねないという指摘もあった。北で発生した労働運動-その中には武力闘争もあった-や同盟国フランスに成立したパリコミューンの存在は彼らの危機感を正当化した。「奴隷を、我らの目の届くところに置くべきである」この主張には戦争の英雄にして第二のジョージ・ワシントンとまで呼ばれた男も逆らえなかった。問題は混血の扱いだった。黒人の血をひいていることは明らかでも白人のような顔をしている人間やその逆の事例もあった。中には奴隷を持っている者さえいた。未だ明確な判別法を持たない以上、議論が南議会でも繰り返されていた。
3つ目の移民は大体、南欧や東欧からきていた。南欧の移民はギリシャなどバルカン半島での戦乱を避けた者が多く、東欧の移民はロシアと手を結んだ北に対し反感を持っていた人達が多かった。また、ユダヤ人たちも大規模に流入していた。これらの移民の流入は南のWASPを中心とする価値観を大きく揺さぶっていた。
これらの問題は改めて1880年代後半になると改めて浮上してきた。経済も成長していたし、領土もドミニカなどを併合して拡大し続けていたにも関わらず、南に入ってきた逃亡奴隷や移民たちはしばしば騒動を起こしたし、それに対抗して作られたクー・クラックス・クランなどの自警団はリンチを繰り返していた。政府関係者たちは州を基盤とした権力闘争に明け暮れ、「どさくさ紛れに北が侵略してくる」といううわさ話が繰り返し市民たちの口に上がった。
かくして1891年の大統領選挙では古典的だが有効な手段が用いられた。彼は「旧態依然とした帝国ではなく、我らアメリカ連合こそがカリブ海に自由と文明の光を灯せるのだ」と訴え、また政治や社会の不安定さについて「北の扇動に騙されてはいけません。奴隷制廃止論者の皮をかぶった圧政者たちはいつも、我らを再統合して我らの自由を奪おうとしているのです。今こそ、自由なる連合国の市民は団結し、この危機を突破しなければなりません」と北を批判し国民に団結するよう訴えた。同時期にフランスから南仏協約30年を祝って送られてきた「自由の女神像」の存在も彼のナショナリズムの扇動に一役買った。
そして、彼のいうところの「旧態依然とした帝国」ということにされたのはスペインであり、オランダであった。かつては海上で雄をふるった二国だったが、弱体化は誰の目に見ても明らかだった。まず、キューバの独立運動、並びにアメリカの軍艦撃沈を理由としてスペインに1898年、ケンカを吹っ掛けた。後に南の大統領となるジェッシー・ジェームズ率いる騎兵隊はサンファン・ヒルで暴れまわったのを始め、新移民やラテン系の準市民たちも大いに戦い、武勲を上げた。1年もたたずにこの戦いは終結した。また、オランダ領スリナムでは1899年白人と奴隷解放後の黒人、その他の人種の対立を扇動した上で、南の出身者を保護するという名目で軍を派遣しオランダを挑発した。オランダは各国に南の横暴を訴えて回ったが、英仏独露のいずれも自分の勢力圏を安定させるので精一杯だった。遂にオランダはやむを得ず南と単独で戦うこととなる。だが、スペイン同様本国から植民地への距離は遠く、また中央政府の力を強くするためということもあり平時から軍が大きい南に挑むなど無謀であった。
これらの対植民地戦争によって、彼らがカリブ海で保有する植民地を軒並み奪った南はそれらの地で奴隷制を復活させ、旧プランターからの支持を集めた。のみならず、こうした戦いで特に功績を上げた「アメリカ的価値観を共にする新入り」たるラテン系準市民や新移民、混血者たちへは居住区画からの解放や普通選挙といった、市民扱いがなされるようになった。また、その選別は州が推薦するが最終的な認可は中央政府が行う。このようなやり方で中央政府の力を強めていった。
無論、こうした南のふるまいはどこでも歓迎されたわけではない。とりわけ、社会主義者や人種を問わない形での自由主義者が勢力を伸ばしていた北ではそうだった。
「全ての人は、肌の色を問わず平等でなければならないし、肌の色で取り扱いを変え、外国にそれを押し付けるなど言語道断。私たちは決して、彼らのふるまいを忘れてはいけません。」そう、ユージン・デブスは訴えた。おりしも欧州では列強の対立が加速度的に膨れ上がっていた。
-また、戦争になるのではないか-
そのような懸念がメイソン・ディクソン線の両側で割れないシャボン玉のように膨れ上がっていた。
本作を書こうと思ったきっかけは映画「C.S.A もし南部が南北戦争で勝ってたら?」という映画作品を見たことがきっかけです。この作品世界の中では南部連合は合衆国に勝つばかりか合衆国を征服し、21世紀に至るまで奴隷制が存続している、という世界です。この映画の結末に書かれていた補足、そして公民権運動で黒人に対しふるわれた暴力的な映像を見てしまったせいで、「奴隷制が廃止されない南部連合」が著者の中でより説得力を持ってしまいました。あきらたろうさんやその他作者の皆さんとは意見が異なるのはわかりますが、著者としては奴隷的労働によって生産されたものにある程度需要が存在し、また人種偏見も一朝一夕に改まるものではありませんから南部連合において、奴隷はある程度時代に適応しながらも残るのでは?と考えたわけです。
また、本作品は実のところ南北戦争はアメリカのみならず結構世界史レベルで影響をまき散らしかねないという観点に基づいて書こうとしました。例えば、アメリカが二分された状態では日露戦争の仲裁もできず、結局ポーツマス条約が成立しないのではないか、等々。ただ、これをやると間違いなく超・長編になってしまい、著者のキャパを現段階ではあっさり超えてしまいます。そのため今回はひとまずウハウハの南と引きこもりの北、そしてギスギスの再燃を書いたところでいったん幕とさせていただきます。
全体的に駆け足になってしまった(小説としてなってない)のも著者のキャパ不足ですので、もっとしっかりした内容が欲しいということでしたら、その旨言っていただければいずれ完全版を仕上げたく思います。