一、オトヒ女(メ)。
「──太郎殿! 太郎殿!」
艶やかな長い黒髪をなびかせながら、一人の少女が追いかけてくる。
いまだ十四、五歳くらいの年頃にも見える、あどけなくも美しいその人こそ、この竜宮城の主『乙姫』であった。
「お待ちくだされ、訳をお話しくだされ! なぜじゃ、なぜ今更地上なぞに戻られるのじゃ? この乙姫一人を残して行くおつもりか⁉」
私は必死にすがりつくその少女のほうへ振り返りもせず、冷たく言い放つ。
「この竜宮でお世話になって、すでにもう何年も過ぎました。故郷に残してきた大切な者たちのことが、心配で仕方がないのです」
「……大切な者たち?」
「私の、妻と子供たちです」
それを聞くやいなやその少女は、私の行く手に回り込み、涙目の顔を真っ赤に染め上げて、自分のお腹の辺りを押さえながらまくし立てた。
「それでは妾たちはどうなるのじゃ⁉ 妾のお胎内には、太郎殿の御子がいるのですよ!」
◇ ◇ ◇
「……どうしても行かれるのか、太郎殿」
「申し訳ない、タイ殿、ヒラメ殿」
竜宮城の正門前で私は、公家装束に身を包んだ二人の大臣と、別れの挨拶を交わした。
「おいたわしや、姫……」
「是非も無い。せめてこれをお持ちくだされ」
そう言うやタイ殿は、丁寧に紐で結わえられた黒塗りの小箱を、恭しく掲げながら私に差し出した。
「これは?」
「玉手箱です。この中には、姫の思い出が──この竜宮で貴方と過ごされた日々の結晶が、込められているのです」
複雑な想いを抱きながらも、私は玉手箱を受け取り、地上へと連なる階に足をかけた。
「お世話になりました。姫様にもよしなに」
「振り返ってはなりません。ささ、お急ぎなされ」
この階からは、その者の真の姿を見ることができるのか。今まで人間に見えていた二人の大臣が、大きな魚のようにも見えたのだ。
気がつけば、竜宮城の近くの岩礁の上には、こちらを見上げている巨大な竜の姿があった。
──何と哀しげな瞳をした、竜なのだろう。
なぜだかその姿は私の脳裏に深く焼きついて、決して忘れることができなかったのである。
◇ ◇ ◇
「……これがあの、『東京』の姿なのか!?」
地上にたどり着くやいなや私は我を忘れて立ちつくし、ただただ目の前の『惨状』を見つめ続けていた。
あれから一体どれだけの時が過ぎたと言うのか。もはやその広大な焼け野原には、かつて世界中にその名を馳せた、『経済大国の首都』の面影は微塵もなかった。
「──ほう、若い人間の姿を見るのは、『最終戦争』以来何十年ぶりかのう」
いつの間にか私の周りを、不気味な老人たちの群れが取り囲んでいた。
「もはやこの地上には、新しい生命は生まれてはこないはず。お前さん今頃のこのこと、一体どこから舞い戻ってきたのかね?」
「……わしらもじきに死ぬ。この地球上すべての、動植物たちを道連れにしてな」
老人たちが去った後、私は絶望のあまり頭を抱え、その場にうずくまってしまった。
──ほんの数年、竜宮の夢に微睡んでいたつもりが、すっかり時に取り残され、死者の列にも置いていかれてしまったなんて!
その時ふと、竜宮城でもらった、あの『お土産』のことを思い出した。
「そうだ、この玉手箱を開ければきっと、竜宮で失った時間を取り戻して、私も彼らのように、老いさらばえて死ぬことができるんだ!」
私は無我夢中で玉手箱の紐を解き、何の躊躇もなくその蓋を開けた。
「──⁉」
しかしそこに現れたのは、箱一杯に満たされた赤黒い液体の中で、あたかも胎児であるかのように身を丸めて浮かんでいる、小さな竜の死骸だけであった。
「……こ、これは一体?」
その時私の脳裏に、タイ殿の言葉が蘇った。
『この中には、姫の思い出が──貴方と過ごされた日々の結晶が、込められているのです』
──竜宮城の主、『乙姫』。まさに彼女こそ、あの広大な海の世界を統べる、『竜神』の化身だったのである。
「……それじゃ、これは、この竜は、私と姫との──」
震える手で玉手箱を握りしめながら、私は涙が枯れ果てるまで泣き叫び続けたのであった。
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