三、人魚姫と王子様。〜ブルー・ベリー・ブルーの瞳〜
私はずっと以前から、気づいていた。
夜の暗闇の中から、私を見つめ続けている、二つの瞳を。
そう。まるで深い海の底の世界を映し出すかのような、限りなき青の瞳を……。
私はこの国の第一王子であり、ここは王城の奥の院にある、世継ぎの王子専用の私室なのである。普通の人間が、うかつに迷い込める場所ではないはずなのだ。
しかし、その青い瞳の『少女』は、毎夜毎夜現れたのである。
まるで約束し合った逢引に来るみたいに、決まって真夜中の同じ時刻、私の寝室の片隅の闇の中に。
漆黒の闇に浮かび上がる、物憂げな哀しみに満ちた瞳と、何かを言いたげな唇。
私は思いきって、『彼女』に声をかけたこともあった。しかしその少女の唇から言葉が発せられることは、決してなかったのだ。
──まるで悪い魔法使いに、『言葉を喋る力』を、奪われてしまったかのように。
私は最初、彼女のことが恐ろしかった。
その常ならざる出現のしかたや、ただならぬ想いを秘めた眼差しが、どこかしら『この世にあらざる者』独特の気配を感じさせたのだ。
それにも増して私の心を悩ませたのは、彼女がこうして私の前に現れる理由が、まったく思い当たらぬことであった。
私はこの国の王子であり、一人の健康な若者なのだ。城勤めの侍女や臣下の令嬢と流した浮き名も、決して少なくはなかった。
自分としては、『深入り』したつもりはないのだが、相手のほうは本気でいて、知らぬ間に傷つけてしまったこともあるかもしれない。
私は密かに自分の力だけで、少女のことを調べ始めた。
過去に一人だけ『青い瞳』の侍女が、突然城から行方不明になってしまったことまでは突き止めたのだが、なぜか王宮内の極秘扱いとなっており、それ以上詳しくは知り得なかった。
そうこうしているうちに私の中で、何かしら不思議な感情が芽生えてくるのを感じた。
あれ程気味悪がっていた、あの青い瞳の少女に対して、ある種の『親愛の情』といったものを感じ始めたのだ。
──いや、むしろそれは、『恋心』だったのかもしれない。
そう。私はいつしかこの不思議な少女のことを、愛し始めていたのである。
そんな折だった、私が『あの日の夢』を見たのは。
それはまさに、後世の人々から、『人魚姫』と呼ばれるべき物語であった。
ある嵐の晩、荒れ狂う海に投げ出された一人の若者を、自分の身を呈して救い出した、美しき人魚の少女の物語。
私は夢の中で、思わず息を飲んだ。
人魚姫の、まるで深い海の底を映し出したかのような青い二つの瞳は、まさしくあの暗闇の中の少女とそっくりであったのだ。
私はその時初めて理解した。今自分に生があるのは、すべて『彼女』のお陰であることを。
夢の中で人魚姫に助けられた若者は、まさに自分と同じ顔をしていたのだ。
この夢のお陰で、すべての謎が解けた。
人魚姫は、このたった一度の出会いだけで、『王子』のことを心から愛してしまったのだ。
そして文字通りなりふり構わずに、自分の声とひきかえに人間の身体を手に入れてまで、『王子』の許にやってきたのである。
しかし、彼女の想いは報われはしなかった。
なぜなら、『王子』はあの夜のことを覚えておらず、彼女もその想いを伝える言葉を失っていたのだから。
側近くにいる者同士ゆえに、何らかの関係を持つこともあったかもしれない。
しかしそれは、『真実の愛』と言うには程遠いものであり、彼女は『海底の魔女』と交わした約束通り、海の泡となり消え去ってしまったのである。
ただしただ一つの、『気掛かり』を遺して。
今更ながらに、私がせめて彼女のためにできるのは、この唯一の『気掛かり』から、彼女を解放してやることだけであろう。
その夜私は意を決して、久しぶりに闇の中の青い瞳に向かって声をかけた。
「今日は貴女にお別れを言わなければなりません。明日隣国から、王女がこの城にやって来るのです」
青い瞳が僅かに歪むのがわかったが、私は構わず言葉を続けた。
「そう、私の正式な妻となる女性です」
その言葉にすべてを理解したように、寂しげな微笑を一瞬だけ浮かべるや、少女は暗い闇の中へと、溶け込むように消え去ってしまった。
もはや二度と、彼女が私の前に姿を現すことはないであろう。
けれども、私は決して忘れはしない。
あの、『限りなき哀しみに満ちた』瞳を。
もう誰もいない暗闇に向かって、私はつぶやいた。
「今までずっと、私のことを見守ってくれて、ありがとう」
そして涙を堪えながら、付け加えた。
「さよなら、……母さん」、と。
明日の日曜日も一昼夜にわたって新作を三本連続投稿いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。