二、海底の魔女と人魚姫。
月の光も届かぬ、深い深い海の奥底に降り注ぐ、一抹の水泡。
まるで風に舞い散る、桜の花びらのよう。
それを愛おしそうに見上げながらつぶやく、黒ずくめの一つの影。
「やっと戻ってきたのかい? ──私の人魚姫よ」
◇ ◇ ◇
私は魔女である。住処はこの蒼く深い海の底だ。
おや、魔女が恐ろしいのかい? でも覚えておきな、この世の中で『普通の女』ほど、恐ろしいものが無いことを。
この海の底で、数百年間生き永らえてきたこの私も、さすがに驚いたものだよ、あの日の人魚姫の言葉にはね。
「……今何て言ったんだい、人魚姫?」
「何度も同じことを言わせないでよ、魔女様。私を魔女様の魔法で、人間にして欲しいの!」
「人間に? 何でまたあんな下等動物に!」
「だって人間になれば、いつでも王子様の側に居れるじゃない!」
「………」
また、人魚姫の『王子様』病が始まった。
ここ最近口を開けば決まって必ず、王子様王子様王子様王子様って、もううんざりだよ。
ああ、何だか苛々する。あんな人間の男なぞ、一体どこがいいんだか!
でも一番私を苛つかせるのは、なぜ私は、人魚姫の口から『王子様』という言葉が出る度苛つくのか、自分でもわからないことだった。
その苛つきも手伝ったのだろうか、私は人魚姫に、ちょっぴり意地悪をしたくなった。
「いいだろう人魚姫よ、おまえを人間にしてやろう」
「ええっ本当に? 嬉しいわ魔女様!」
「その代わり一つ、条件がある。おまえのその美しい声を、私にいただかせてもらうよ」
もちろん何も本気で、人魚姫の声を奪う気なぞはなかった。
そう脅せば、彼女もあきらめると思ったのだ。
それなのに、人魚姫ときたら……。
「いいわ」
「え?」
「私の声を魔女様にあげる。だから私を人間にして」
「本気かい? 二度と喋れなくなるんだよ!」
「構わないわ。王子様の側に居られるのなら、言葉なんて無くたって!」
思わず背筋がゾッとした。その時私の目の前にいたのは、私が十数年間手塩にかけて育ててきた人魚の少女ではなく、今まで見たこともない一人の『女』だったのだ。
私の心の中に、赤黒い『怒り』にも似た感情が沸き起こってきた。今にして思えばそれは、『嫉妬』だったのかもしれない。
──いいだろう。望み通りにおまえを、人間にしてやろう。
だが、おまえは決して、王子の愛を得ることはできないであろう。
おまえは人間の身体が欲しいばかりに、自分の声を捨てようとしている。
外見にこだわるあまりに、本当に大切な、自分の『内なるもの』を見失ってしまったのだ。
そんなおまえに、『真実の愛』を得ることなぞ、できるはずはないであろう。
せいぜい、おまえの愛する王子様に裏切られて、海の泡と消え去るがいい!
──そう。私は知らず知らずのうちに、人魚姫に『呪い』をかけてしまっていたのだ。
本当は私は、人魚姫のことを愛していたのに。だから王子のことに、苛ついていただけなのに。
しかし私は人を愛するすべを知らない、魔女なのである。
『呪う』ことでしか自分の気持ちを表すことのできない、哀れな存在に過ぎないのだ。
だから私は、人魚姫のことを『呪った』のだ。
海の泡と成り果てて、再び自分の許に戻ってくるように──と。
◇ ◇ ◇
私は自分の手元に降り注いできた水泡を、慈しむように優しく包み込みながら、ささやきかけた。
「おかえり、人魚姫。これでもう二度と、おまえの唇から、王子の名前を聞くこともないだろう」
そしてほくそ笑みながら、私は付け加えた。
「──だって、おまえの声は永遠に、私だけのものだから」
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