エピソードZERO【後編】
──ハッ、ハッ、ハァ……!
非常灯しかない薄暗い階段を昇る私の足取りは重く、息は荒い。必死で気づかなかったが、どうやらこめかみのあたりが切れているようで、眼鏡の縁には血が滲んでいる。しかし、今はそんなことに構ってはいられない。
──私は、情勢を甘く見すぎていたのだろうか?
そんな自問が沸き上がるが、後悔は何も生まないので、すぐに頭から打ち消す。反省や後悔などよりも、まずはこの現状を打開することに脳をフル回転させなければならない。
「……絶対に。凌ぎきって、みせる……!」
私は、決意をはっきり口にして歯を食いしばった。
階段に設けられた手すりにつかまりながら、足を一歩一歩、確実に前に動かし続け、ひたすら上階を目指す。
私の脳は生き残る方策を全力で模索しながら、しかしその裏腹に無意識の部分が、つい十数分ほど前に起こったばかりの非日常の場面をフラッシュバックしていた。
「……くっ。あの、化け物…!」
一瞬目を閉じると、先程の出来事が鮮明に甦り、背筋がぞくりと震える。私の意識は溶け込むように、ゆっくりと過去に戻っていた──。
──某日の夜半。
冷たい小雨が降りしきる国道を、私は自らハンドルを握って小型乗用車を運転していた。低いエンジン音とフロントガラスの水滴を弾くワイパーの規則正しい音が、車内に響いている。それらの音に、私が携帯端末のハンズフリー機能で喋る音が重なった。
「──はい、牧野です。はい、了解いたしました。ええ、こちらは予定通り、順調にそちらに向かっております」
私の声に、携帯端末越しの相手が返答する。
『そうか。今、どの辺りまできている?』
「ちょうどM市に入ったところです」
『M市か……。念のため、腕利きのやつを君の護衛に向かわせているが、合流地点はそこからまだ遠い場所だ。M市を抜ける頃にまた連絡をくれ』
「了解です、では──」
私は小さく息を吐きながら、通話をOFFにした。
通話の相手は私が所属する、この国唯一の『異能組織』の幹部である。彼の招聘で、明日行われるという組織内の重要な会合に出席するために、私は総務省に昨日から長期の休暇届けを出して会合場所にレンタカーを走らせている途中だった。
肝心の会合の内容までは、私は何も知らされていない。本来の業務に加え、異能判定機への偽装の効果付与の作業もあるので、私としては異能係から離れるのを躊躇われたのだが、どうしても私を出席させたいという組織の幹部が、持てる人脈を駆使してその期間はうまく異能判定機の稼働を止めてくれるとのことだった。一体、そこまでして私を出席させたい会合には、何の意図があるのだろうか?
そう思いながらも、普段休みなどまったくとらない私が遠慮がちに休暇届けを出したものだから、上司の西峯課長は驚くととも「君でも休みをとるんだな?いやいや、変な意味ではないぞ──うん、それはいいことだ!たまにはゆっくり家族と羽根を伸ばしてきたまえ!」と、受理してくれた。家族旅行という名目にも、何の疑問を抱かなかったようである。
私はバックミラーに目を向けた。時間は極端な深夜というわけではないが、雨のせいか古びた片側一車線の夜の国道には、私の運転する小型車以外に車は少ない。すれ違う車もほとんどないのは少し侘しい反面、渋滞のストレスがないのはありがたかった。
これから合流する腕利きの護衛とやらは、どんな人物なのだろう?私がふとそう考えた時、前方の暗闇に突然小さなシルエットが車のライトに映し出された。
──動物?!いや、まさか、人ッ?!!
私は目を見開き、咄嗟にブレーキを思いきり踏んでハンドルを操作した。しかし、人らしきシルエットから車への距離があまりにも近すぎる!
──ダメだ、ぶつか……!
私がシルエットとの衝突を覚悟した瞬間、シルエットから何かが伸びて、光のようなものが閃いたかと思うと──
車を、凄まじい衝撃が襲った。止まっている何かに衝突した──というよりは、まるで目に見えぬ巨人から車体の横面をひっぱたかれたようなショック!
「────ッ!!!」
あっという間に私の乗る小型車は、国道を逸れて道路脇の電柱に突っ込んでいた。衝突で小型車のフロント部分はバンパーから大きくひしゃげたが、ドライバーを守るためのエアバックが瞬時に作動し、空気の布が私の目の前に展開する。決して軽くない衝撃が、私の上半身を襲った。
「────う、けほッ」
息が、苦しい。
エアバッグの塊に突っ伏すような体勢で、私は低く呻いた。頭も打ったのだろうか、意識がやや朦朧とする。
このまま目を閉じて寝てしまおうか──。
霞のかかった途切れそうな意識の中で、ぼんやりとそんなことを思った時。車のドアハンドルがガチャガチャと鳴ったかと思うと、やがてバキンッ!という何かが壊れる音とともに、勢いよくドアがこじ開けられた。
開けられたドアの向こうの暗がりに、私は力なく視線を向ける。
すると、どこかで聞いたことのある声が耳に入ってきた。
「──しゅに~~ん!牧野、主任~~♪御無事ですかぁ?アハハハハ!ボクです、ボクですよ~?毎日毎日あなたを想い、あなたのことがとぉっても大好きな、監察官の柊木ですよぉ~~~☆」
この、人を食ったような声は──!
私は、記憶の糸を手繰り寄せて思い出していた。
この特徴のある声は、1ヶ月ほど前に異能係の会議室で対峙した童顔の監察官・柊木のものだ。朦朧としながらも、いくつかの疑問符が脳裏を巡る。
なぜ、そしてどうやって、彼女がこの場所に──?先程の衝撃は、まさか柊木監察官が──?
いや、そんなことよりも。今、この状況はあまりにも危険すぎる。体がエアバッグと車のシートに挟まれて身動きがとれない上に、直感的に危険な監察官がすぐ側まで迫っている。
「──くっ!」
必死に身動きをとろうとするが、体がうまく動いてくれない。このままでは──!
「はろぉ~~~、牧野主任☆」
開け放たれた車のドアの開口部のすぐ側に、愉悦に浸った表情の柊木監察官が佇んでいた。
「こんな夜更けにぃ、総務省に休暇届けなんて出してまで一体どこに行くんですかぁ~~?」
「───。」
勝ち誇った様子の柊木監察官の問いかけに、私は答えない。
「あらあら、今のでケガでもしちゃったのかなぁ、それは大変だぁ !ボクがゆっくり介抱してあげますよぉ、総務省の取調室でたっぷりねぇ♪」
「───。」
「ウフフ♪牧野主任、色々と訳がわからないって顔をしてません~?」
夜の闇の中で、柊木監察官が嗤っている姿がぼんやりと浮かび上がる。
「まず、なぜあなたがこんな目に遭っているか。──それはね、ようやく例の異能テストの不正について、証拠固めが九割方、整ったんですよぉ♪──まぁ厳密にいうと、関係者の中であなた以外の全員の潔白が証明された段階なのですが♪」
「───。」
「後は牧野主任、あなた一人を徹底的に洗って確たる証拠を掴めばパーフェクトだったのですけどねぇ?さぁこれから!──という段階で、あなたからまさかの長期休暇の申請などが出たものですから、証拠隠滅と逃亡の恐れあり、ということでしてねぇ──ついに上から強制拘束の許可が下りたんですよぉ♪」
きゃはっ♪と、柊木監察官は楽しそうに、まるで新作のスイーツ情報でも語るように含み笑いをした。
「ここに先回りするまで、ボクも色々あってけっこう大変だったんですよぉ?まぁその経緯はどうでもいいので省きますが、さっきの衝突も不思議に思ってるでしょ?自分は何にぶつかったんだろぅ?──って」
「───。」
「もう隠す必要もないから牧野主任には明かしてあげましょうかね♪──実はね、ボクは“異能持ち”なんですよねぇ!!もちろん、ボクはちゃんと国の御墨付きの異能者ですよぉ♪そして、その能力は───」
柊木監察官は途中まで言いかけて、訝しがるように口を閉じた。暗闇の向こうから、急に沈黙が訪れる。そして、彼女は今更ながら重要な事実に気づいたようで、声音を変えた。
「──ん~~?牧野主任、あなた──いつ、助手席に移動したんですぅ?!」
「───。」
遅まきながら、柊木監察官は気づいた。
レンタカーを運転していたはずの私が、いつの間にか助手席側のエアバッグに突っ伏しているという状況に。
柊木監察官は余裕の仮面を脱ぎ捨て、車の中に手を伸ばし、私の体を掴もうとしたが──。
彼女が私に手を触れた途端、私だった物体は大きな熊のキャラクターのぬいぐるみに変わり、柊木監察官は唸るように舌打ちした。
「ちぃっ、何か異能を使いやがりましたねぇ!!」
エアバッグとシートに挟まれたぬいぐるみを強引に引きずり出し、柊木監察官は荒々しく闇の中に放り投げた。すると、先程の衝突の時のように空中で何かが閃いて、ぬいぐるみは凄まじい勢いでバラバラに引き裂かれた。柊木監察官は今まで見せたことのない憤怒の表情を作ったが、やがて思い直したように目尻を下げた。
「──まぁ、いいですよぉ♪どうせ遠くまで逃げられっこないんだし、深夜の鬼ごっこというのも悪くないですねぇ♪それに、そっちから手札を切ってくれたのは、よく考えればかなりラッキーだし♪ふふん、そぉかぁ~!牧野主任は幻覚系の異能持ちなんですねぇ?」
柊木監察官はククク、と笑いながら指を鳴らした。すると、暗闇から彼女の背後に一人の影が現れる。
「城田。今から楽しい楽しい狐狩りの時間だよぉ♪相手は一人でおそらく手負いだろうけど、どうやら異能持ちなのが確定だからね☆しかも、とぉっても狡猾な女狐だから油断はできないよ~?」
「はっ──。」
付き従う影が頭を下げる。
こうして、私と柊木監察官の命がけの『鬼ごっこ』が始まった。
──ハッ、ハッ、ハァッ……!
私は今、国道から脇道に入った夜道を移動し、建設中の商業施設らしい敷地に足を踏み入れ、建物の中に無断で侵入している。この商業施設は完成間近のようで、敷地全体を覆う建築中の壁の類いはなかったが、施設の非常用出入口には電子錠がされており、本来であれば私のような部外者が入り込める隙はない。
しかし、蛇の道は蛇というべきか。
異能組織にはハッカー並みに電子・通信関係に強い人間も所属している。不測の事態に備えて、その手の専門家から私の携帯端末には半ば強制で、電子錠破りの違法アプリがインストールされていた。その時はなぜ私が自分の携帯端末にこんな違法アプリなどを……と、文句の一つも言いたくなったものだが、今は素直に感謝しなければいけないだろう。
便利かつ完璧に作動していたはずのデジタルセキュリティーも、こうなると脆い。違法アプリを起動させた私が端末をかざすだけで、正式な登録キーと勘違いしたセキュリティー錠がいとも簡単に解錠し、私を中に迎え入れてくれる。
柊木監察官から逃走するのに、なぜこの商業施設を選んだのか──?という問いかけに、私は明確な答えを用意できない。強いて理由を探すなら、この付近は身を隠せそうな民家などの建物自体が少ない上に、柊木監察官の襲撃で──体をエアバッグで守られたとはいえ──衝突で打ち身などのダメージを受けていることが理由にある。
この状態では体を動かすこと自体は可能でも、長時間の全力疾走などはとてもできそうにない。そうなると、時間を稼いで組織の助けを待つのが得策なのだが、先程から携帯端末の電波はずっと圏外の表示。もしかすると、この建物独自の電波事情かもしれないが、追っ手側が何らかの妨害電波などを広範囲に発生させている可能性もある。
ここにいれば組織の人間が必ず助けに来てくれるだろう──、と安易に考えるほど楽観的なつもりはないが、今の体調で無闇に動き回ることが得策とは思えなかった。そうなると、私にできることは身を隠すこと、そして万が一に備えて迎撃体勢を整えることだ。
私を追う柊木監察官は『異能』持ち。
しかもその異能は、偽装をかけたぬいぐるみを簡単に引き裂いたことからもわかる通り、かなり攻撃的な能力のようだ。対して私の異能、偽装には直接的な対人用の攻撃力はまったくない。しかも柊木が単独で動いているとも思えず、かなり分が悪い情勢と言えるだろう。
だが──。
何とか、この状況は自分で打開するしかないのだ。
泣き言を言って状況が好転するならいくらでもするが、もちろんそんなわけもなく。であれば無理でも何でも、相手が強大であろうが化け物だろうが、今の自分の手札で勝負をするしかないのだ。
そう腹をくくったのはいいが、衝突の際に車の部品で額を切ったのか、こめかみの辺りから眼鏡に血が滲んでいるのがわかる。ハンカチを当てて止血をしているが、これ以上傷が開くと視界が塞がれる危険があり、不利な要素をさらに抱え込んだ格好だ。しかし、やるしかない──。
非常用入口から侵入した私は、従業員専用らしき通路を抜け、施設の上階に通じる階段を急ぎ足で昇る。この施設はまだオープン前のようだが各所で非常灯はちゃんと点いているので、闇夜でも最低限の光は確保されていた。もし闇でまったく目が効かない状況なら最悪、携帯端末のライトモードを使うつもりだったが、目立つことをするとこの施設の関係者や追っ手等の目につく恐れもある。できればそれは最終手段にしたいところだ。
階段はまだ上に続いているが、一旦昇りきったところから、壁に「2F」の文字と誘導の矢印が記してあるのが、微かに判別できる。私は意識をそちらへ向け、しばし考え込む素振りをした──。
《柊木視点》
「──城田ぁ、この施設で確かに間違いないんだよね?」
ボクの質問に、暗い目をした部下の城田が、恐縮するように答える。
「はっ。私の看破による検索では、追跡対象の痕跡はここまで続いておりますので、必然的にこの先の施設の中に入ったかと思われます──」
「──ふぅん♪」
ボクは薄暗い闇夜の中、牧野桐子が逃げ込んだと思われる施設を目を細めて眺めた。どうやら彼女は、ここで追っ手のボクらをやり過ごすつもりだったらしい。だけど、考えが少~し甘かったね!こちらが間抜けな狩人なら、こんなオープンもしていない施設に部外者が入れるわけがない、と見落としたかもしれないけど。
生憎、ボクが連れてきた部下の城田の異能・看破には、一度でも生体スキャンした相手を追跡できる特性があるんだ。そりゃあ、何百㎞も離れた相手を追跡するのは城田の異能でも不可能だけど、数㎞ぐらいなら問題なく居場所を追うことができるから、なかなか大したもんだよね♪
「くふふ、こういう時は頼りになる異能だねぇ♪じゃあ、サクサクっと、牧野ちゃんを捕まえに行こうか☆」
ボクは大股でずんずんと施設の敷地内に踏入り、「こっちです」と城田が指し示す裏口の出入口の方に近づいた。先行した城田が扉を押したり引いたりして出入口のドアを確認したが、錠で硬く閉じられているようだ。
「牧野桐子は、どうやらここから内部に侵入したようですが、この電子錠をどうやって破ったんでしょうね?」
城田が途方に暮れた表情でボクを見る。
「ふーーん。何か裏技でも使ったのかな?」
「監察官、どうなさいますか?あまり無茶もできませんし、ここは応援を呼びましょ──」
城田が最後まで言い終わる前に、ボクは部下を押し退けた。
「退いてなよ♪」
「なっ、監察官──?」
驚く城田を尻目に、ボクはドアの正面に仁王立ちし、フッ!と鋭く息を吐いた。すると僕の背中の左右から二本のシルエットが浮かび上がり、それらは間髪入れずにドアの方へ鋭く向かう。
──ドゴォッッッ!!!
二つのシルエットが目標に激突し、轟音を響かせてドアが電子錠ごとふっ飛んだ。
「なっ、なっ、なっ?!!」
城田が口をパクパクさせている。なんだ、ひょっとして僕が実力行使に及ぶと思ってなかったの?
「か、監察官!民間の施設を勝手に損壊するなんて……、何ということを──!後日、大問題になりますよ?!」
「はぁ?何言ってるのさ?ボクは“総務省特別監察官”として、凶悪な異能持ちの容疑者を追跡任務中なんだよ?──これは大事の前の小事ってやつ?大丈夫大丈夫、何をしても後で総務省がボクらの代わりに責任とってくれるって♪」
こいつは、何を今更ビビってるんだろうね?そもそも牧野桐子の車を襲撃した時点で車や国道に被害が出てるし、そういう意味ではボクたちとっくに手を下してるっていうのにねぇ♪
「し、しかし、だからといってあまり目立った行動は──」
「──城田。お前、ボクに意見できるなんて、いつからそんなに偉くなったのさ?」
ボクはすっと目を細めて城田を睨んだ。
「そ、そんなつもりは決して!ただ、ここが無関係だった場合──」
「ん~~~?」
ボクは眼光と声音で、うるさい城田を黙らせた。若いくせに心配性なやつ!もし間違ってたら間違ってたで『ごめん、ごめん!』って言っとけばいいんだよ、まったく!
「よし、納得した?じゃ、牧野桐子の正確な位置を検索してよね☆」
「は、はぁ……」
まだ何か言いたそうな城田を急き立てて、ボクは施設の探索に乗り出した。どうやらこの施設、中規模のショッピングモールのようで、端から端までしらみ潰しに探すにはさすがに効率が悪い。だから、ここでも城田の異能を活用することにする。まぁ、僕の異能で『全部ぶっ壊して』いいのならそうしてもいいが、残念ながら『殲滅』ではなくて『生け捕り』が今回の目的である。さすがのボクもそこまで無茶はできないよねぇ♪
「監察官、上階──2階でしょうか、そこから追跡対象の反応があります」
命じられた通り検索を実行した城田が、ボクに結果を伝える。
「今度は本物かぃ?」
「反応は本物と思われます。追跡対象の異能は幻覚・幻術の類いでしょうが、私の検索は生体にだけ反応しますので惑わされることはありません」
「あはっ、今度はぬいぐるみで身代わりはできないわけだ~♪」
従業員専用らしい階段を昇りながら、ボクは鼻唄混じりに城田の説明を聞く。とはいえ、油断はできないなぁ。
先程、車でぬいぐるみにしてやられた時も、途中までは間違いなく本人だったのだ。どこで入れ替わったのかはわからないが、あれをまたやられてはたまらない。
「城田♪でも今度は入れ替わりなんてないように、しっかり見張ってるんだよ☆」
「──はっ」
そんなことを言いながら、ボクたちは一般フロアに足を踏み入れた。
このフロアは衣料品を扱うゾーンのようで、大量のマネキンやハンガーかけがフロア全域に置かれているが、まだ商品そのものはほとんど陳列されていないようだ。ガランとした薄暗い空間に無表情のマネキンたちが整列している図は、なかなかシュールな絵面である。ボクは城田を促した。
「城田、牧野ちゃんの正確な位置はわかるかぃ?」
「──お待ちください」
城田は目を閉じて集中したが、やがて小さく首を降った。
「追跡対象がこのフロアにいるのは間違いありませんが、ここでは検索の細やかな感度が鈍く感じられます。──敵の異能の影響かもしれません」
「へぇ──♪」
ボクたちはゆっくりと、周囲に気を配りながらフロア奥まで歩みを進めていく。人らしい気配はなく、ボクと城田、二人のフロア床を踏む足音だけが小さく響いている。
ボクは大して用心することもなく、大股で歩きながら大きな声を出してみた。
「ま~~~き~~~のぉ、ちゃん♪どこにいるのぉ~~?怖がらないで出ておいで~~♪」
城田がぎょっとする。
「ちょ、監察官?!そんな大声をだしたら──」
「うるさい、いいんだよ♪──まぁきのちゃ~~ん、ボクはここだよ~~~?早く出てこないと、ボクは気が短いからこのフロア全部をぶっ壊しちゃうぞ~~~?」
半分脅しだが、ボクはニヤニヤしながら声を続ける。
「早くしないと──」
そこまで言った時だ。周囲に置かれたマネキンの数体が、ボクが無造作にその横を通過した刹那、目を光らせて静かに体の角度を変えた。そして、彼女(?)たちは音もなく床を蹴り、手刀の構えで一斉にボクに襲いかかってきた!
「──監察官!」
城田が声をあげる。
マネキンたちが鋭く突き出した手刀は、ボクが一瞬前までいた虚空を切った。
「やっと出てきてくれたと思ったら、不意打ちかぃ?」
ボクは、マネキンたちの背後から声をかけた。マネキンたちが緩慢な動きでボクの方に振り返ると、なんとその顔、容姿のすべてが、牧野桐子のものになっていた!
「城田っ!何だぃ、コレ?」
さすがのボクも驚いて城田に問う。城田も目を白黒させていたが、すぐに自分の役目を思い出して看破を使い、マネキンたちを検索した。
「柊木監察官!私も実物を初めて目にしますが、こいつらの正体はおそらく生体人形!生体反応もあるので、牧野桐子が操っている分身のような存在です!」
「生体人形ぅ?本人はいないんだね?」
「は、遠隔操作かと!しかし本来の生体人形は、見てくれもただの人形でしかないと聞いておりますが、この姿は牧野桐子の異能によるものかと推察いたします!」
「──なるほどね♪」
ボクは口を歪めた。
やはり、彼女はただの手負いの獲物ではなかったね♪予想外の抵抗に、嬉しくなってくるよ♪
ボクは腕を正面で組み、マネキンたちに相対した。
「牧野ちゃん、お人形を通じて聞こえてるかな?面白いもの見せてくれてありがとね♪その御礼に──特別サービスだよ☆ボクも自分の異能を──存分に、君に見せてあげるよっ!」
「───!」
ボクが解き放った気に城田が反応し、声にならない悲鳴をあげて後退る。
まぁ、それが生物として真っ当なの反応かもね。おそらく城田の全身は、毛穴が開いて総毛立っていることだろう。
今、ボクの全身から放たれているのは、“死”を予感させる濃密な殺気だ。もしもこの殺気に映像をつけるなら、何人たりとも逃れることのできない、禍々しい骸骨姿の死神に見えるかもしれない。
牧野桐子の姿をした生体人形たちも、ボクの殺気に気圧されたように一瞬動きを止めたが、牧野桐子の強固な意志によるものか、何とか持ちこたえてそれぞれ構えをとる。
彼女らをよく見ると、それぞれ爪が異様に長く尖っている。それを空手の『貫手』のような構えでボクに向けた。
人形たちが、示し合わせたように同じタイミングで一斉に飛びかかってくる。ボクは腕を組んだまま、今度は一歩も動かずに生体人形を迎え撃つ。
「──き、来ますよ、監察官!」
たまらず城田が悲鳴をあげる。
──おいおい、ボクを誰だと思ってるのさ?
そう心の中で突っ込みながら、ボクは鋭く呟く。
「見せてあげるよ!──拳撃!!!」
ボクの背後の空間から、ニュッと二本の太い腕が浮かび上がった。拳に大昔のローマ時代の拳闘士のような装飾をまとった、その姿はまさに“豪腕”そのものだ。
ボクに飛びかかってきたのは、四体の生体人形たち。左右と上空に一体ずつに別れて、四方から闇でも鋭く光る爪をかざして襲いかかってくる。このまま無抵抗なら、ボクの体は生体人形たちの爪でズタズタに引き裂かれることだろう。だが、もちろんそんことはさせないけどね♪
ボクは吠えた!
「そらぁ!!!ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラ、ソラァァァァァ──────!!!!!!」
ボクの気迫とともに、豪腕が唸る!それは現実のボクサーの連打など、まったく比較にもならないほどの超スピードの拳撃の嵐だ。
ドガガガッ、グワッキィッ、ゴキゴキッ、グシャッッ!!!!
牧野桐子の分身たちの爪は、ボクの体に届く前に、その体ごと拳撃による拳で粉砕されていた。原型をとどめている生体人形は一体もない。ボクの拳撃は、一打一打が小型トラックの衝突並みの威力。その拳打を何十発も浴びて、四体とも文字通り粉々になったのだ。
ボクはかろうじて顔の形が残っている一体に近づき、本人以上に無表情な、牧野桐子そっくりの顔の残骸を覗き込んだ。
「牧野ちゃん、しっかりと見えてるぅ?こっちの手の内は見せてあげたからね♪さ、次は君自身の番だよ☆今からそっちに向かってあげるから、もう少しだけ待ってて♪──じゃ、また後でね!」
ボクは拳撃の右拳をゆっくりと振りかぶり──、それを牧野桐子の顔をした生体人形の残骸に猛スピードで振り下ろした──。
《牧野桐子視点》
「──うぅっ!」
生体人形越しに擬似的な死の恐怖を味わい、私は呻き声を上げた。
──やはり、生体人形では足止めにしかならないか。
私は膝立ちの状態からゆっくり立ち上がったが、難易度の高い偽装を使った弊害か、こめかみに感じた小さな頭痛に顔をしかめた。
普段、私が異能係で行う異能判定機の偽装は半自動モードのような状態で、対象に『触れる』だけで勝手に異能粒子を無効化するよう、省エネモードで異能を使えるように調整してある。それに対し、生体人形にかけた偽装は一体一体に私の生体反応を持たせつつ、私自身と視界を同調させるという高度な特性を持たせていた。その結論を簡単に言うと、かなり疲れる力の使い方だ。
しかし、収穫もあった。
追っ手の陣容が確認ができたこと、そして柊木監察官の異能の力をはっきり見れたこと。特に後者は、これから向かってくる柊木監察官と対峙する際に、ささやかながら優位につながるはず──と信じたい。
しかし、異能組織から“護身用”として渡されていた生体人形を使いきり、その上高度な偽装で少なくない疲労を溜めたことは、差し引きするとどちらが得だっただろうか?
──いや、今それは考えるのはやめよう。
今はあの化け物じみた異能を持つ、柊木監察官を退けることに集中するべきだ。
あの『拳撃』と彼女が呼んでいた物は、とんでもない攻撃力を秘めた異能だ。私が見たことがある異能の中では、断トツの破壊力。あの異能を全力で開放し続ければ、もしかすると本当にこの施設ごと破壊できるのではないか、とさえ思えてくる。
──あれを一発でも生身に当てられたら、終わってしまうわね。
私はそう結論づけた。
人体よりも数倍の強度を持つと聞いていた生体人形たちが、まるで発泡スチロールか何かのように、あの異能に易々と粉砕されたのだ。私などを壊すのは、柊木監察官にとってはもっと容易いことだろう。
しかも私の偽装では、物理的にはまったく対抗できない。あんなのとまともに渡り合えるのは、同じように物理攻撃ができる異能使いに限られ、勝てる者といえばそうはいないのではないか──。
だが、それも戦い方次第だ。
向こうには探知系の異能者がいるので、『逃げる』・『隠れる』という選択肢は明らかな悪手。生体人形のこともあるので、向こうはさらに用心して確実に私の居場所を突き止めようと動くはずだ。仮に何かの方法で彼女らを出し抜いてこの施設から脱出したとしても、体力面で逃げ切れる自信はないし、国道や公共交通機関を封鎖されたりしたら絶体絶命の状況になってしまう。
──やるしか、ない。
私は眼鏡のブリッジをくいっと上げ、目を閉じて浅い深呼吸をした。気持ちを切り替え、手早く状況確認をする。
今私がいるのは、柊木監察官たちを足止めしていた2階フロアの2つ上の、4階フロアだ。ここは生活雑貨を扱うゾーンと玩具やゲームなどの娯楽品を扱うゾーンに二分されていて、商品がすでに半分くらいは搬入・陳列されていた。
この階を迎撃エリアに選んだ理由はシンプルで、これより上階は立体化駐車場への入口で、駐車スペース以外はほぼ何もない空間だからだ。私の異能が生かしにくい上に、遮蔽物が少ないのはいざという時の逃走路の確保の面からも困る。それと、活用できそうな物もここにはいくつかありそうだった。
時間は、限られている。柊木監察官たちがここに上がってくる前に、仕込みを済ませておかねばならい。
手早くフロア内を動き回り、使えそうなものを何とか物色し終え、私が軽く息を吐き出そうとした時──。
突然、薄暗かったフロア全体に照明が灯り、視界が急に明るくなる。
「──っ?!」
私はあまりに唐突な眩しさに、手をかざして目を守った。思わず顔をしかめる私の耳に、そろそろ聞き馴染んできたあの陽気な声が飛び込んでくる。
「ま~~き~~のぉ~~~主任っ♪お待たせしましたねぇ♪せっかくだから、明るいとこでボクたちの決着をつけましょうよぉ!!」
柊木監察官が、部下を一人背後に連れて堂々と姿を現した。本人は意気揚々と、だが部下の方は彼女の小さな体に隠れるようにおどおどしているようだ。
フロアに照明を入れたのは、当然、柊木監察官たちの仕業だろう。私は隠れる暇もなく、フロア通路の見晴らしがよいところに立っている。私と柊木監察官たちを隔てているのは、いくつかの商品棚で仕切られた筋道だけで、距離は20メートルも離れてはいない。
私はつい先程、生活雑貨のゾーンで入手した木製のデッキブラシの『ブラシの部分』を外した棒ならぬ“杖”を手にし、それを両手で構えて半身を柊木監察官の方に向けた。
柊木監察官が、へぇ……とほくそ笑む。
「なかなか様になってるじゃないですかぁ♪ひょっとして、心得があるんですかぁ?」
「──以前に、柳剛流を少々かじりました」
私は、過去に自分が手ほどきを受けた杖術の流派の名をあげた。
「ほほ~~~ぅ。──って、そんなマニアックな情報知らねーーーよ♪♪」
柊木監察官は声を立てて笑った。深夜、私たちしかいないフロアにその笑い声が大きく反響する。
私も身じろぎもせず、柊木監察官が笑う姿を静かに見つめていた。
柊木監察官はひとしきり笑うと、表情を少しあらためて私に言った。
「ところで牧野主任、ボクから一つ提案があるんだけど?」
「──なんでしょうか」
私は杖の構えを崩さず、素っ気なく返答する。
「キミ、ボクの部下にならないかぃ?」
「か、監察官!何を仰って──?!」
「城田、お前は黙ってて♪」
私よりも城田という部下の男が驚きの声をあげる。それを制して、柊木監察官は続けた。
「本当なら、キミにかけられた容疑はそんなに軽いものじゃないんだけどね。でも、もしキミが本気で僕の下につくというなら、ボクの力と人脈をフルに使って、今の状況全てを丸く収めてみせようじゃあないか♪望むなら、将来的にはボクと同等の監察官の地位に推薦してあげてもいい。──キミのその異能、ここで潰すには惜しい力だからね、それだけの価値があるとボクは思うよ──あと、案外ボクたち、気が合うと思うんだよね♪♪」
笑みを浮かべながら、柊木監察官は値踏みをするような視線で私を見据えた。
「──どうも、過分な評価をいただいているようですね」
私はふぅっと、小さく息を吐く。
「そう言われると正直、悪い気はしません」
「うん、それなら──」
柊木監察官の目が輝く。しかし、私は力を込めて、はっきりと言った。
「だが、お断りいたします。私はあなた方のような国家の狗になるつもりはありませんので──!」
杖の切っ先を柊木監察官に鋭く向け、私は拒絶の意志を態度で示した。そんな私の意思表示を受けて、意外にも柊木監察官は怒るでも笑うでもなく、少し残念そうに首をすくめただけだった。
「──まぁ、キミならそう言うと思ったけどね♪でも、ちょっと残念だなぁ♪」
どこまでが本気かわからない様子で柊木監察官は嘆いてみせたが、すぐに気持ちを切り替えたようだ。
「でも、いいのかぃ、牧野主任?」
「──何がです?」
「ボク、キミの能力はそこそこ評価しているつもりだけね。でも、異能の“ランク”で言ったら、キミの異能はCか、よくてBってとこじゃないかぃ?」
「──それが何か?」
柊木監察官の言う通り、国家認定の異能にはランク付けによって管理されている。ランクが上なほど、その異能の力は希少かつ有用なもので、高ランクの異能ほどその傾向は強くなる。ずっと秘匿してきた私の異能・偽装は国家認定のものではないので正確なランクは当然不明だが──。
柊木監察官は満面の笑みで続ける。
「誘いを断った後で言うのも気がひけるけどね──ボクの異能は、最高峰の“S”ランクだよ?」
「──!」
それが意味するところは──。
「ボク、立場は総務省の付きの監察官だけどね。総務省や他部署からの依頼で、今までどれだけの“野良”異能者を狩ってきたことか♪もちろん、他の異能者に一度も負けたことなんてないし、自慢だけど苦戦すらしたこともないんだよぉ?」
「───。」
「ボクの誘いを断ったこと、後悔してる?でも、もう遅いよ♪ボクがあげた最後のチャンスを袖にしたんだから、キミ──これで完全に詰んだよ☆」
柊木監察官は、両手を正面で組んだ。この体勢は──。
「さぁ、おしゃべりは終わりだよ♪そろそろ、最終戦闘をはじめようじゃないかっ!
れでぃーーーーーー、ごぉーーーーーーーーーーッ!!!!」
柊木監察官の背後から二本の豪腕が現れる。と同時に、腕を組んだままの姿勢で、柊木監察官は私に向かって突進してきた!彼女の部下も半拍ほど遅れてそれに付き従う。
私は杖を両手から片手持ちに変えた。
ぬいぐるみと生体人形を通じて、柊木監察官の異能は初見ではない。最初から、この杖で柊木監察官の異能・拳撃とやらに真正面から対抗できるなどとは思っていなかった。むしろ、私以上のどんな武道の達人でも、あの規格外の能力の前では無力に等しいだろう。
私は膝を曲げ、柊木監察官たちからは見えにくい位置に置いておいた物を素早く拾い上げた。それは硝子製の小さなコップで──先程フロアの物色で拝借させてもらった物の一つだった。
それを右腕で振りかぶり、私は野球の投手のような動作で、向かってくる柊木監察官へ思いきり投擲する。しかし、これはただの投擲ではない。私の偽装を付与した特製の投擲だ。
「───ムッ!?」
柊木監察官が目を見張る。
彼女に向けて投じられたコップは、私の手から離れた途端に数十個の幻影を作り出していた。無数の軌道から、柊木監察官にコップの幻影たちが襲いかかる。
「こんなもの、別に避けてもいいんだけど──いいよ、迎え撃ってあげようじゃないかっ♪」
柊木監察官は足を止め、殺到するコップの幻影たちに向き合った。それらを拳撃の超速で攻撃する──と考えた私の予想は外れ、柊木監察官が操る豪腕たちは、まさに目にも止まらないスピードで動いた。
「ソラソラソラソラソラソラぁーーーーー!!!」
「───っ!」
今度は私が瞠目した。
殴っているのではない。拳撃は、人差し指と親指を“つまむ”ような仕種で、投擲された無数の幻影のコップを片っ端から『掴もう』と腕を動かしている!
掴もうとしてコップの幻影、また違うコップを掴もうとして幻影──という作業を、柊木監察官は拳撃の肘から先が消えて見えるほどの超スピードで行い──、
「ソラァ!!!」
信じがたいことだが、彼女の拳撃は、ついに本物のコップの縁を二本の指だけでピタリと掴んで受け止めていた!
そのスピードもさることながら、豪快な風貌と相反する精密な動きには、純粋に驚かされる。
「ざぁ~~ねんでした♪ひょっとして、ボクがコップを粉々に砕くとか、期待していたのかな?」
柊木監察官が勝ち誇るように嗤った。
しかし、予想外であってもこれはあくまで想定の範囲内だ。焦らずに、私は次の行動に移った──。
《柊木視点》
ボクは拳撃でつかんだコップを戦闘の邪魔にならないようにそっと床に置いて、もう一度牧野桐子に照準を合わせて再び突進する。
彼女の能力は小細工が得意のようなので、本当は一気に距離を詰めたかったんだけど──。それを見越した上で先制のコップ投擲をしたのだとしたら、やはり彼女は立派な曲者だねぇ♪だけど、今度はボクの番だ!
しかし、そう意気込んだものの、ボクが間合いを詰めるよりも早く牧野桐子は次の手を打っていた。片手持ちしていた杖を抱えたまま、元々は商品棚の辺りに置いてあったと思われる脚立を使って、その梯子を駆け昇る。そして何の躊躇もなく、脚立の天板部分から牧野桐子は跳躍した。
「───!」
牧野桐子の姿が一瞬、霞むようにぶれたかと思うと、空中で体が無数──いや、数え切れないほどの数に分裂した!なんだ、なんだ?!!くそ、またあの忌々しい幻覚系異能の効果かぁ?!
もう三度目なので今更驚きはしないが、牧野桐子の力は無尽蔵なのか?!という疑念が頭に沸いてくる。表面上は平静を保っているが、ボクの拳撃だって発動には1日の間に限界もあるのに。こっちは10分以上の発現を日に三回も行えば、身体中がクタクタになって力が入らなくなる。牧野桐子はこうも連続で異能を使って平気でいられるのか──?
くそっ、深く考えている時間はないようだね。空中で分裂し、百人はいようかという牧野桐子たちは、懐から一斉に小型の刃物のような物を取り出した。おそらく、このフロアにあった果物ナイフの類いだろう。その鞘を引き抜き、宙からボクに鋭く投げつける──!
「──百花繚乱・千本桜」
約百人超の牧野桐子が口々に呟いたのは、この技の名前だろうか?小型ナイフの群れは、銀色の光の洪水となってボクに殺到してくる!鋭利な刃物は殺傷力もあるので、危険度は先ほどのコップなどの比ではない。
ボクは拳撃をボクサーのファイティングポーズで構えさせ、両腕であらん限りの拳打を放って迎え撃った!
「ソラソラソラソラソラソラソラソラソラソラソラソラソラソラァーーーーーーッ!!!!!」
「───は、わわわ──」
背後で城田が泡を食ったような悲鳴をあげる。
コップの時と違って今度はボクも器用につかむような余裕はないので、攻撃は最大の防御!を地でいく迎撃作戦だ。
分身からの多重残像ナイフとは恐れ入るが、拳撃のスピードなら対応しきれるハズ!!ボクは拳打のラッシュを続け、やがて──
──ガキンッッ
よし、やった!
拳撃の拳打が、ナイフの本体をついに捉えた!
拳闘士のナックルガードをつけた拳撃に傷は一つもつかず、ナイフは後方に大きく弾き飛ばされる。その間、牧野桐子の群れはとっくに床に着地していて、ボクと城田をぐるりと取り囲むように身構えていた。
「城田っ、本物の牧野桐子はどれだぃ?!」
ボクは振り返ることなく城田に詰問する。今度こそこっちの攻撃番にするためにも、できれば本体の正確な位置を知っておきたかった。
「あ、はい!本体は──、監察官の左真横、少し離れた所にいるアイツです!」
城田がボクの視界に入ってきて、牧野桐子の本体を指差した。なぁ~~んだ、意表をついて奇襲でもするつもりなのか、かなりボクに接近していたんだね♪
「お手柄だよ、城田!───ソラァッ!!!」
ボクは雄叫びをあげて一歩踏み込み、城田が指差した牧野桐子の本体に拳打を見舞う!
拳撃が迫る中、牧野桐子の顔が驚愕に歪んだ。そうそう、それっ!それだよっ!!キミのその表情が、ずっと見たかったんだよぉっ♪♪♪
ゴキゴキゴキィッッ!!!
手応えありだっ♪
牧野桐子の脇腹に拳撃の右拳が突き刺さり、華奢な骨が何本か砕ける鈍い音とともに、彼女の体は衝撃で宙を舞った。憐れ、牧野主任はフロアに激突して這いつくばり、短く痙攣を起こしている。
「あはっ♪勝負あったね!キミの敗因はその異能の決定打のなさだよ──」
ふふん♪
少しはひやりとさせられる場面もあったけど、蓋を開けてみれば大して難しくない『詰め将棋』だったよ♪
ボクには絶対的な異能、攻防一体の拳撃の攻撃力と超スピード、さらにプラスアルファで城田のバックアップがあったわけだけど、たった一人のキミには、その攻撃向きではない異能だけでボクに立ち向かわざるをえなかった。せめて、キミの方にも味方の攻撃手がいれば話はまったく別だったんだろうけど、勝負事に『たら・れば』はないのは常識だからさ♪
まぁ、それはそれで残念というか、その条件でやってみたかった気もするけれど、こればかりは仕方がないよね。
「城田、よくやったね☆お前にしては上出来な活躍だよ──ん──ッ?」
ボクは振り返って、そこにいるはずの城田を労おうとして、異変に気づいた──。
『牧野桐子視点』
柊木監察官は、後を振り向いた時点で状況の変化に気づいたようだ。彼女がそこにいると思っていた場所に部下の姿はなく、誰もいない。柊木監察官は慌てて向き直り、自分が異能でふっ飛ばした対象を凝視した。
「──まさか、あれは──城田だった──?」
フロア床に倒れ伏している私を見て、柊木監察官は呟いた。そして、ハッとしたように首を回して周囲を何度も見渡して──、
下方から迫りくる私の攻め気をようやく察知した。地を這うような低い姿勢で自らの真下まで潜り込んだ私の姿を、ようやく視認したようだ。
柊木監察官は、目を見開いて異能を使おうと足掻いた。
「ぱ、ぱ拳撃──!」
「──もう遅い。私の間合いです」
拳撃が発動するより早く、杖を構えた本物の私が、至近距離から柊木監察官の鳩尾に突きを放つ!
──ズドォッ!!
「──くはっ!」
杖が、柊木監察官の鳩尾に深く入った!
打突の衝撃で監察官の体は『く』の字に曲がり、悶絶する。そんな彼女に、私は容赦なく追撃した。
──ゴッッ!!
腹部に突き出した状態の杖を垂直に跳ね上げ、柊木監察官の顎を打つ!
さらに、跳ね上げた杖の反動を押さえ、今度は上段から脳天に向けて振り下ろす!
──ガッッッ!!!
声をあげる暇もなく、柊木監察官の後頭部に杖が叩き込まれる。
私の渾身の三連撃を受けた柊木監察官は、白眼を剥いてフロアに倒れた。
「──」
私は残心をしばらく解かず、杖を油断なく柊木監察官に構え続けたが、頭部への打撃で意識を失ったのか、彼女はピクリとも動かなかった。
そのまま1分以上残心を続けたが、柊木監察官と私だった部下の男が動く気配がないことを確認して、私はゆっくりと構えを解いて杖を下ろした。
「──くぅっ!」
割れるような激しい頭痛、全身の倦怠感、体の節々の痛みが一気に押し寄せ、あまりの痛みに私は膝をつきそうになった。
まさに『薄氷を踏む』という表現通り、ギリギリの勝利だった。
『百花繚乱』は、私の異能・偽装における奥の手中の奥の手。効果は絶大だが、ご覧の通り疲労が著しい状態で使えば、たちまち限界が訪れるのも早い。そして、寸前の仕込みから戦闘までの流れの中で、一手でも手順を間違えたり自分の思惑通り進まなければ、この戦闘の結果は逆になっていただろうと思う。
とりわけ、事前に柊木監察官と部下の異能の能力、そして関係性を見て、先に分析できたことが大きかった。
というのも、私の見立てでは柊木監察官は豪快そうに見えて、非効率なことが嫌いな性格。もし本当に豪快なだけの脳筋性格なら、そもそも探知系の部下をここまで連れ回したりしないだろう。生体人形をぶつけた時も、私のことを部下に探知させていたので、私が土壇場で『百花繚乱』を使えば、部下に私の本体を探知させるということは想像に難くなかった。
後は、それを逆手にとって仕込んだのだ。彼女が迫りくるナイフを拳撃で捌いている間に、私は多数の幻影体を巧妙に使って、柊木の位置どりを誤認させた。幻影の群れが集団全体として少しずつずれながら回り込むことで柊木が背後だと思っている空間を錯覚させ、尚且つ幻影の一体だけを部下の姿になるように偽装を複合で発動させる。私の本体を指摘したのは、部下ではなく私が作り出した幻影の偽物だったのだ。そして、部下に対しては柊木監察官が私に見えるように、幻影からの接触で偽装したので、柊木監察官はまんまと偽物の指示に踊らされ、私ではなく部下を再起不能にしてしまったのだ。ちなみに、私がわざわざ技の名前を口にしたのも、この狙いを悟られないための布石の一つである。
だが、そうやって何とか勝った私も満身創痍。最後の攻防では、今まで使ったこともないような複合の偽装を強引に発動させたので、その強烈な反動に襲われている。
「──うっ、くっ」
膝がガクガクと震える。私は武器として扱ってきたはずの杖を文字通りの「杖」にして、足の悪い老人のような足取りでふらつきながらも、倒れている柊木監察官の側に近寄った。
──今なら、楽に止めを刺せるわ。
柊木監察官を足元に見下ろし、私は荒い息を吐きながら、両手でしがみついてた杖を振り上げた。杖の切っ先を、見下ろす先の柊木監察官の頭部に向ける。
この先、私がここを脱出しても、柊木監察官は生きている限り、国家の狗として私や異能組織の異能者とずっと敵対し続けることだろう。国側の異能者である二人をこの場で始末しておいた方が、間違いなく後顧の憂いがなくなる。それは間違いない──。
「──バカらしい、わね」
結局、私は振り上げた杖を柊木監察官に当てることなく、ゆっくりと下ろした。そのまま踵を返して、ふらつく足でフロアを後にする。
私は甘いのかもしれない。
しかし、『人を殺める』という一線を越えることは、『異能者のための未来』を考える自分の信念とは、相容れないように感じてしまう。一つの理想のために、もう一方で人を容易に殺せてしまうというのは、どこか狂気を孕んだ恐ろしい思想に、私には思える──。
もし後日、柊木監察官が復讐に来るというなら、その時は私が受けて立とう。それに──、
存外、彼女のことは嫌いではなかった。
私はズキズキと痛む体を引きずって、施設を出た。
降り続いていた雨はいつの間にか止んでおり、辺りは何事もなかったように静寂に包まれている。
あの施設の中での攻防で、一体どれ位時間が経ったのだろうか。
施設の敷地を出たところで、急に携帯端末がけたたましく鳴った。私は懐から取り出して応答する。
「──はい、牧野です」
『牧野くんか?!!どうした、何があった?あれから連絡が途絶えたので心配したぞ!今、どこなんだ?』
着信の相手は、異能組織の幹部だった。そういえば、迎えを寄越すという話だったが、おそらくすれ違いになったか、待機状態で待ちぼうけになったかのどちらかだろう。こちらもそれどころではなかったので、仕方がないことだけれど。
「──申し訳ありません。あの電話の後に、異能持ちの総務省付き監察官に襲撃されまして、車を失いました」
『なにっ!それで、無事なのか?!』
「──無事かと言われると、色々とありまして──打ち身や力を使いすぎて万全には程遠いボロボロの体調ですが、何とか生きてはおりますね」
私は自嘲的に言った。
幹部は私の現在地を聞き出し、すぐにここへ迎えを寄越すから無闇に動くな!とまくしたてて通話を切った。向こうも私に聞きたいことは山ほどあっただろうが、それ以上聞かなかったのは彼なりの配慮だったのかもしれない。
──組織の会合への出席の件はどうなるのだろう?
この状態でも出席を求められるのだろうか──?
そんなことを思いながら、私は国道沿いの見晴らしのよい場所へ移動した。
まだ、夜は明けていない。暗い国道を通る車は少ないが、深夜の女の一人歩きは目立つため、私はバス停を見つけてそのベンチに腰をかけた。
時刻表を見る気力もないが、もうバスは来ない時間かもしれない。しかし、バスが来ても来なくても乗るつもりはないので、どちらでもよかった。それより、疲労や諸々が溜まった体には、固い無機質なベンチでもありがたい存在だ。
柊木監察官が拘束に動いたことで、私は異能係での席は失ったとみるべきだろう。だが、異能組織には私の居場所が──、本当に戻るべき場所がある。
そんなことを考えていると、わたしがいるバス停の前に一台の車がハザードランプを点滅させながら、ゆっくり停まった。ドアが開いて一人の人物が出てきたが、ライトが逆光になって容姿がはっきり見えない。
「あなたが──牧野、桐子さん?」
若い男の声だった。
「そうですが──もしかして、迎えの方ですか?」
私の問いかけに、若い男はゆっくりと歩み寄りながら応えた。
「そうです、本部の有馬さんに言われてお迎えにきました。でも、もう安心してください。本部まで、俺があなたをお護りしますので」
有馬というのは、私を招聘した異能組織の幹部の名だ。
陰っていた月が出て、若い男の顔がはっきり見えた。意志の強そうな瞳をした、長身の青年だ。私は座ったまま頭を下げた。
「よろしくお願いします」
私がよろけながら立ち上がろうとすると、男は手を差し伸べてきた。
「手をお貸ししましょう。どうぞ」
本来なら、もっと警戒すべきだったかもしれない。しかし、妙に安心感を与える男の微笑む表情を見て、私は初対面にも関わらず、自分でも驚くほど素直に彼の手を借りて立ち上がった。
きっと、この時は極度の疲労がそうさせたのだろう──(と、後日私は思った)
「──あの、お名前を聞いても?」
私が遠慮がちに問うと、男は頷いた。
「藤野です。藤野真吾」
この青年──藤野との出会いが、これから先の私の運命を変えていくのだが、それはもう少し先の、別のお話だ。
「行きましょうか」
藤野に促され、私は彼の車に乗り込んだ。
──今は彼と、組織に身を任せよう。明日のことも、これからのことも、結局なるようにしかならないのだから。
シートに深く身を沈めながら、達観とも諦観ともとれる思考で、私はそう思った。
そして、私と、異能組織から派遣された藤野を乗せた車は、夜空の月が見守る中、静かに走り出した──。
(エピソードZERO『後編』完)