プロローグ
「どうしてこんなこと、しなくちゃいけないんだ……」
男の声がざらついたノイズ混じりに聞こえている。その姿はタブレット端末に小さく映し出されていた。
春の陽気も感じられる時期にも関わらず彼は膝くらいまでのトレンチコートをボタン一つも逃さないように留めて着込んでいる。周りを忙しそうに人々が行き交っていくのが見える。朝の通勤ラッシュだった。
「どうして、と言われても」
タブレット端末を覗き込んでいる人物が言う。耳にはコードレスの小型ヘッドセットをつけており、それが画面の向こうの男の同じものに繋がっていた。
「例えばですよ、暴走車が歩道に突っ込んで来たとしましょう。それであなたは偶然そこを歩いていて、撥ねられた」
そんな感じですかね、とタブレットに映る男に言う。声は淡々としていて可笑みも憐れみも感じさせなかった。
「じゃあ俺は、何の理由もなくこんな理不尽な目に遭っているのか」
男の返事には怒気が混じっている。マイクの向こう側に唾を吐きかけようとするみたいだった。
「世の中の出来事は大抵理不尽ですからね」
タブレットの前の人物は言う。それからちらりと時間を確認して、また口を開く。
「あと三分以内にやってください。じゃないと――」
「じゃないと?」
男の声が動揺で震える。画面の中の姿も、必死に肩を狭めて縮こまろうとしていたようだ。
「――最悪なことが起こります。今の状況よりも、もっと」
「まるで不幸の手紙だな」
男が笑った。もうどうにでもなれ、と捨て鉢の覚悟を固めたのかもしれない。
「何ですかそれ」
「俺たちが子供の頃に流行ったんだ。この手紙を一週間以内に何人かに送らないと不幸が身に降り懸かるぞっていう内容の手紙が、どこからか送られてくる」
「理不尽ですね」
「理不尽だ」
そこで会話が一旦止まる。時計の表記が進む。残り二分。
でも、とタブレットの前の人物は言う。
「その手紙と違って、こちらは絶対的な信頼がありますから。あなたがやらないと、確実に最悪なことは起こる」
少し考えるような間を置いてから、男が言葉を返してくる。
「自分が神様にでもなったつもりか?」
せめてもの反撃、といった意図が感じ取れた。しかし、すげなく受け流される。
「神様なんていないです。さあ、時間になりました。どうぞ」
男が唾を呑み込む音がスピーカーから聞こえてきた。画面の向こうの彼は着ているトレンチコートのボタンを一つ、また一つと外していく。それが終わると、両手で襟のところを掴んだ。
「……頼む、家族は助けてくれ」
消え去りそうな声で彼は最後に言って、コートの前を勢いよく開いた。
数秒後にきゃあっ、と女性の悲鳴が上がる。それを合図に周りを歩いていた人物はどよめき、男を遠巻きにするような動きを見せる。まるで川の氾濫だった。
男はコートの下に何も身につけていなかった。自らの裸体が公衆の面前に晒され、彼は注がれる好機と嫌悪の目に、俯いて必死に耐えていた。
バキッ、とスピーカーから音が響く。男が指示された通りに耳のヘッドセットを外し、足で踏み砕いたらしい。
「……まあ、ご家族の件は検討しますよ」
先ほどまで男と話していた人物はそう呟いて、タブレットの画面を暗転させた。