乞食のスコッティ
「エカテーナ、あなたに会いたいって、その……乞食みたいな人が来たけれど」
公演を終えて、楽屋へ引き上げようとするあたしのところにやってきた受付のペルシェは、ためらいがちな声でその客の来訪をそう告げた。あたしは「ああ、またあの人は」と訳知り顔でうなずいて、「すぐに行くから待たせておいて」とペルシェに返すのだった。
「おお、エカテーナ」
「スコッティさん。あなた、また乞食と間違われていたわよ」
赤のロングドレスに毛皮のコートを羽織ったあたしは、彼の身なりを上から下に見てくすりと笑った。よれよれのシャツに、つぎあての目立つ着古したジャケット。ズボンの足裾はほつれた糸を引いていて、くたびれた革靴はもういくら磨いても光沢を取り戻せないのではないかというほど泥土の汚れにくすんでいる。そして日に焼けて色あせた布帽子の下のその顔はもじゃもじゃの白い髪と髭で覆われて、まるで綿の毛玉のようだった。
「乞食か……。うむ、そうだな。私は乞食だ」
そううなずく彼のその目は、けれど奥底に鋭い光を秘めていた。彼のその面筋の通った顔立ちは美しく、目じりや頬に深く刻まれた皺の裏には人生の襞というものを感じさせる人だった。あたしは彼の言葉を打ち消すように明るい笑顔を作る。
「あら、やだ。冗談ですよ、スコッティさん。それで今夜はどちらに行きましょうか?」
「では、いつものように『無償の愛』へ行こう」
「それでは、お手を」
あたしの差し出す手を、彼の節くれ立った手が掴む。彼が今夜のあたしの恋人だった。
「今夜の公演は見てくれて?」
「うむ。今夜も君は美しかった」
ここ帝都第一の歓楽街である不夜街には、歌と踊りと美しい身体の女たちで夜の紳士たちをもてなす夜劇場が無数にある。あたしはその夜劇場のひとつ、『エル・ミナ』の揃える裸婦の中の一人だった。裸婦とは、その美しい裸体を羽毛や輝石で飾り立て、公演の添え華として舞台を彩る女たちのことである。裸婦としての仕事はこの公演だけだけれど、ほとんどの裸婦は公演の後に別の副業をやっている。
「では、良き夜の出会いに感謝を」
「良き夜の出会いに感謝を」
通いの店である『無償の愛』のいつものカウンター席に着いたあたしと彼は、いつもの銘柄の葡萄酒を出してもらうと、互いのグラスを軽く合わせた。
裸婦の多くには夜の恋人がいる。彼らは裸婦たちの後援者だった。そして彼――スコッティもまた、あたしの夜の恋人にして、そんな後援者の一人だった。
「ご主人。今日はこれで出せる料理を」
そう言って彼は、ズボンのポケットから紙くずのようにくしゃくしゃになった百ドゥカティ札を数枚取り出して、無造作にカウンターに置いた。あたしの裸婦としての月給は一二〇〇ドゥカティ。彼はお金持だった。
彼の奮発な注文に応えるように豚肉のトマト煮込みや豆とパン粉のオムレツ、キノコと魚介のパスタなどの料理が次々と供される。あたしと彼はそれらを口に運びながら葡萄酒を交わし、そしてとりとめもない会話を重ねる。
「今日の天気はレター公園を散策するのに最適だった。木漏れ日のちらつく樹の下で子供が遊んでいてな。一枚スケッチを描いてみたのだ」
「メラルダったら、また楽屋であたしのパフを『借りるわね』って言って持っていくの。これで十枚目だけれど返ってきたのは一枚だってなかったわ」
「ペリューズ通りの南の端にダロンという男の画材屋があるのだが、いつも気難しい顔をしているのにそのときはやけに気前のいい態度で接してくる。どうしたのかと怪訝な顔をしていると、あやつは嬉しそうに言った『今日は女房がいないのです』」
「あなたの横にいた女給、あなたがいきなりスケッチなんて始めるものだから、びっくりして酒瓶を持つ手が止まっているんだもの。あたし笑ってしまったわ」
「女房が言うのだ。『あなたは絵を描くことしかできないのだから、余計なことはしなくていいのです。だからもうお皿を洗おうなんてことは思わないでください』」
「ダミアの歌はよかったでしょう。彼女の絵も描かれてみたら?」
「絵描きとはわがままなものだ」
「納得がいかなくて?」
「また作品を売った」
彼は画家だった。各国の美術館や収集家は、彼の描く絵を我も我もと高値をつけて買い求めた。彼は大金持ちだった。しかし彼は貧乏だった頃の生活を変えることはなく、ジャケットの肘のつぎあてをなでながら、グラスの葡萄酒を傾けるのだった。
そして作品を売ったあとは、こうしてお酒を飲んで泣いた。彼があたしに会いに来るのは、いつもこうしたときだった。
「私は乞食だ。自分の作品に物乞いをして生きる乞食だ」
泣きまじりの声でそう彼はつぶやく。あたしはその肩をなでた。
「それならあたしも同じですわ、スコッティさん。自分の身体に物乞いをして生きている」
慰めを口にしながら、あたしは自嘲する。
「つまり娼婦ということです」
「娼婦か。そうだな、娼婦か」
彼はその目の奥深い光に寂しげな色を浮かべて、グラスに映る自分を見た。
「自分を売らねば生きていかれん。私も娼婦ということだ」
そして葡萄酒を飲み干す。あたしは空いたグラスに葡萄酒を注ぎながら、塞ぎ込むようにして黙ってしまった、この絵描きにむかって言った。
「ですけれど、スコッティさん。自分を売らないで生きていける人が、世の中にどれほどいるというのでしょうか?」
彼があたしを見る。あたしの目の奥を見た彼は、その目を優しく細め、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「エカテーナ。君は美しい人だ」
そして、そう言ってあたしの肩によりかかり、
「美しい人だ」
その言葉を、何度も繰り返しに言った。
「ああ、あと千年生きたい。あと千年も生きれば、私も本当に美しいものを作れるだろうに」
あたしに頭を抱かれながら、寝酒の口でそう言っていた彼が亡くなったと聞いたのは、それからしばらくしてのことだった。七十歳にわずかに届かないぐらいの年齢だった。
彼の訃報を聞いてから、またしばらくしてあたしの家に十数枚の絵とデッサンの入った包みが届けられた。包みには手紙が同封されていた。送り主のスコッティの妻がしたためた手紙だった。
――故人の遺言に従い、貴女を描いた絵を贈ります。
アルバート・スコッティの妻フーリーより
人生は千年に足らない。けれど彼の描いた絵は、あたしには美しいものに思えた。