84・妖精
巌流が下した縄梯子を、一二三を抱いたシュルケンが左腕一本でつかむ。ゆっくりと引き上げられた2人の身体が甲板へ横たわった。
「ガンリュウ殿。すぐにカヅキ殿を呼んではくださいませぬか。意識の方が、まだはっきりとはしておらぬようにござって」
「及ばん。もうそこで扉が開くところだ」
巌流の言葉どおり、二層デッキのドアが勢いよく開くと香月が駆け寄ってきた。取り乱した様子はない。
「心臓マッサージ。及び呼吸保全、入ります――」」
横たわった一二三の傍にしゃがみこむと、香月は彼の胸を力強く押さえつけ始めた。彼女が真っすぐな目で一二三の胸を圧迫する度、その口元からにごった海水が吐き出される。
「肺内の液体排出終了。気道確保します」
流れるような行動だった。そして一二三の下あごを持ち上げると、躊躇いも見せず彼の唇を塞いだ。もちろん、その唇によって。
そこには戦場医師としての使命感しかなかった。相手が誰であろうと彼女はそうしたはずだ。
巌流とシュルケンが見守る中、行為は続く。何度も息を吸っては、彼女の呼吸が一二三の肺へと送られる。
やがて、大きく咳き込んだ一二三が身体を揺らした。
「え……げほっ! えほっ! はあ……はあ……」
口元によだれを垂らした顔が瞼を開ければ、至近距離に香月の顔がある。
「ふぉ――フォーミュラさん……? え、あの――敵は! モンスターは!?」
状況が飲み込めない一二三を、香月が背中から抱き抱えて声を上げた。
「よかった――!」
「いやはや、実は拙者も戦々恐々でござったが。ヒフミ殿、ご安心くだされ。モンスターはベル殿にとどめを刺されましたゆえ」
なんとか記憶が繋がり始めた一二三が、まだしがみついている香月に慌てた。
「あの――え? フォーミュラさん、その、え――?」
「まだ動かないでください。まだ体内の滅菌が残ってますから。シュルケンさん。ヒフミさんを就寝室まで運んでくださいませんか?」
「はっ! 仕ったでござる! 一二三殿、ゆっくり構わぬので立ち上がれますかな」
上半身を起こした一二三は一度、辺りを見回した。そして、はにかんだ顔で言うのだった。
「あの――ホントにありがとう。お陰でなんとか生きてるみたいだよ」
その笑みは、彼を囲んだ3人の誰にも向かっていなかった。一二三は肩をすくめる視線で自分の右肩を見下ろしていた。
香月を伴って向かったベッド室では、花音とユルエが顔から床にへばりついていた。
「いやーもぉねー。何がどーしたとか怖いから何にも聞かせないでちょ? ん? ヒフミンもケンケンも、ぐしょ濡れじゃん。これはますます怖いから聞かせないでちょ。で、明日になったら詳しく教えてちょ。心の準備ね」
ユルエは船酔い顔で首だけ横に向けて言う。花音もまた同じようなものだった。事の次第を聞きたそうな顔はしていない。
「あの――それでお二人とも、そういう状態の中に申し訳ないんですけど。今からヒフミさんの体内滅菌を行うんです。室内全体がその状態になります。健康体の方には強い拒否反応が出てしまうんで、しばらく食堂の方に移動しててもらえますか?」
そんな香月に、ユルエと花音の2人があからさまな不服顔を浮かべながらフラフラと部屋を出ていった。
「ヒフミ殿、今はゆっくりと休むのがよいでござるよ。目が覚めれば、『ワンダンズグル』の大陸でござる。ではカヅキ殿、拙者もこれで。ははっ」
彼も濡れた身体のまま出ていった。どこか揶揄い気味の笑い声を残して。気安い男友達が「上手くやれよ――」と声をかけて、その場を後にするような軽さがあった。
「あの、フォーミュラさん――」
「あ、はい。まずは着ているモノを脱いでもらえますか。全部です」
「脱ぐって、いや、その」
「私なら大丈夫です。男の方の裸は見慣れてますから。」
香月は平然と言ってみせる。
「そそそ! そうなんですか!? いや、じゃなくて。なんだか、誰も驚かないんですね」
「十分、驚いてますよ。船が沈むかと思いましたから」
「……。そういう話じゃなくて……。あのね、シース。彼女は僕らの仲間でフォーミュラさん。看護師さんなんだ。フォーミュラさん、この子はシースって名前で。彼女のお陰で助かったんですよ」
突然右肩を見つめて話し始めた一二三に、香月がきょとんとした顔で答える。
「ヒフミさん? 彼女っていうのは――」
「ええ。だからこの子です。こんな見かけで小さいですけど、誰も気づいてない顔ですから」
「え……っと。ヒフミさん? いったい何のお話ですか? それより早く服を脱いで横になってください。異世界の海で溺れるなんて、早く処置しないと妙な症状や病気なる可能性も考えられるんで。着替えが恥ずかしいんでしたら、私はカーテンの向こうにいますから。終わったら、ケープをかけて横になってください」
どこかしら不思議顔を残して、香月は薄いカーテンの向こうへ回った。が、不思議なのは一二三の方だ。
「あの――シース? キミってもしかして亜空間か何かに入ってるの? ツルムラサキのお茶でも飲んだとか」
他人から見れば、今の一二三はどう考えても一人語りの真っ最中だ。しかし、一二三の視線の先では確かに答える者がいた。
『アタシのことなら仕方ないわ。決めた相手にしか姿は見せないから。特に可愛い女の子なんか以ての外。キミはアタシの婚姻相手になるんだからね。いい? アタシ以外の女性に色目なんか使わないでね? 拗ねるよ?』
一二三の肩口には、15センチの背丈で鼻を尖らせる青い髪をしたツインテールの少女が腰かけている。その小さな脚を組んで、態度だけは大きい。
「婚姻? 僕と?」
思わず笑いそうになった一二三に、小さな女の子がその背中で赤く薄い羽根を広げて背伸びをしてみせる。
『そうよ。アタシらはね、泡が弾けたその瞬間に目にした男と婚姻する決まりなの。そういう決まりなの。だからキミ、アタシと結婚しよう』
海の妖精は、いたずらな目つきで片目を閉じると笑顔を見せた。
「ヒフミさん、急いでくれますか?」
香月の急かす声が聞こえる。うっかり食べた麻婆豆腐が辛口だった時の口調で。なかなかに不機嫌な声だ。
一二三は困惑した気分のままで、急いで服を脱ぎ始める。知らない世界のお伽噺に巻き込まれた気分が抜けない。そういった不思議なことが起きても不思議ではない、そんな世界にいるのだと分かってはいるものの。
(とにかく、しばらく話しかけないでね。フォーミュラさんって怒らせたら怖い人だから――)
一二三が困り顔を見せると、妖精の少女はふわりと羽を広げて彼の頭の上で飛び回り始めた。
『あはは! すっごい困ってる! ウソウソ。キミたち、大陸に行くんでしょ? 実はアタシもね、大陸に用事があるの。別にキミたちの邪魔はしないからさ、連れてってよ!』
何はともあれ、一二三の災難が始まった瞬間だった。彼女の名前はシース、紅い海にひっそり暮らす『ルーン・フェアリー』なのだと――そこまでしか教えてくれなかった。




