79・セドールの昔語り
昨日まではベッドルームに引きこもってばかりだった花音が、ロビーに姿を見せていた。居合わせたガンリュウと何事か言葉を交わすと、1人で扉を開けてデッキに出た。
マルズ星の潮風は決して心地いいモノではない。それでも船室の隅に座り込んでいた花音は、少しだけ気分を変えた。その足が、ランドセルを背負ったまま甲板の後ろへ進む。
「あなた、セドールっていうの?」
花音は、一二三ですら身を縮める巨大オオカミを見上げて話しかけていた。
「我ガ名ハ、セドール。巌流ヲ主トスル騎馬。幼キ娘ヨ、ナゼ我ガ名ヲ呼ブノカ」
「うん……。あなたは地上からマルズ星に入ってくる人たちが分かるんでしょ? 私のダックス、今どこにいるか分からない?」
沈黙は長かった。セドールは伏せた姿勢で赤い瞳を花音へと向けたまま黙っている。花音の問いかけだけが風に流されて、紅い海へと落ちてゆくだけだった。それでも花音はセドールの目を見返したままで、5分でも10分でも答えを待っていた。
花音の質問へ答えるにはそれだけの時間が必要だったのか、セドールが鋭い牙も見せず声を発した。
「ダックス――転生犬ノ名ハ、ソウ呼バレテイルノカ」
「知ってるの!? 私の友達なの! どこにいるか分からない!?」
「分カラヌ。我ガ感ズルモノハ、ソノ存在ノ在ル無シダケダ。コノ世界ノドコカニハイル。ソレ以上ハ分カラヌ。タダシ、死スレバソレハ分カル」
「ダックスは死んでないよ? ちゃんと、この世界のどこかにいるんだよ――」
それは彼女の願いに近いものだった。だからこそ、花音は声だけでも聞きたかった。その証が欲しいのだ。
黒と白が混じり合い渦を巻く低い空。魔界の波を蹴って進む純白のクルーザー。紅い飛沫がひと際大きく舞うと、何がきっかけだったのかセドールが話し始めた。
「コノ星ニハ歴史ガアル。過去ガアル」
巨体に似合わない小声だった。当ては外れてダックスに関することではなさそうだったものの、花音は真っ直ぐな目で耳をそばだてる。その態度はセドールにとって好ましいものだったのだろう。
セドールは目を細めて船の航跡を見つめる姿勢になった。数百年を生きたオオカミが過去を見つめる時、その記憶を思い返すには千と一夜を費やしそうだった。
「聞キタイカ。幼キ娘――」
「うん。聞かせて。それはセドールのこと?」
「星ヲ語レバ、自ズトソウナル。昔語リナド似合ワヌガ。マズハ今ノ話ヲシヨウ。マルズ星ニハ今、404ノヨソ者ガイル。ソノ中ニ惑星ユーカスティス人ハ380人ダ」
「カヅキさんの星の子孫がまだ生きてるんだね。それじゃあ、えっと――残りは私たちみたいな別の世界の人間なの?」
セドールの答えは、やはり花音の質問に真っ直ぐではなかった。
「タダシソコニハ、カツテ『ユーカスティス人ダッタ』者モ含マレテイル。幾ツカノ転生ヲ繰リ返シテキタ者タチダ」
「生まれ変わったユーカスティス人がいるってこと? ずっと気になってるんだけど、『ユーカスティス』っていうのはカヅキさんのパパの名前なんだよ。どうして星の名前になったの? まさかカヅキさんのパパが、その星を作ったの?」
その問いには、どうでもよさそうに答えるセドールだ。
「数千年前カラ、『ユーカスティス』ハ星ノ主君ニ与エラレル称号ダ。名前デハナイ」
「じゃあカヅキさんのパパ、偉い人だったんだ」
「偉イ? バカヲ言ウナ。主君トハ時ニ、周囲ニ祀リ上ゲラレテ利用サレルダケノモノ。真ノ主君トハ民ヲ愛シ、国ヲ律シ、幸福ヲ齎ス者ナリ。アノ惑星最後のユーカスティスハ、心ガ幼ナ過ギタ。主君タル器ヲ持タナカッタノダ」
そこで完全に興味を失くしたか、次にはこう言った。
「マルズ星デハ今、カツテ無イ混乱ガ起キテイル。ソレニ乗ジヨウトスル者ガイル。我ハ、セドール。猛猛ク勇マシク善シキ漢ヲ主トスル。ソレガ使命ナリ。ジャウズノ誇リヲ永遠ニ滅ボサヌガ為ノ馬。死ス事ハ許サレヌ宿命」
「それってどういうこと? セドールって死なないの? 寿命はないの?」
「我ガ命ノ尽キル時ハ、マルズ星ノ終ワル時ダケダ。ソレヨリ、ココハモウ危険ダ。幼イ娘、戻ッテイルガイイ」
セドールが言うか言わずかのうちに、後部甲板へのドアが激しく開いた。一二三、巌流、シュルケンの3人が険しい顔で立っている。
一二三が花音に向けて指を差した。その指がサッと、水平を保ったまま彼の背中に回った。
「カノン、入ってろ」
「兄ちゃん? また何か来るの? モンスター、近くにいるの?」
「黙って戻ってろ。お前がいると、皆が動けなくなる」
兄のきつい言葉と視線に、花音は胸が苦しくなる。ここが自分の住むべき世界ではないことを痛感させられる瞬間だ。
すかさず、花音の表情を読み取ったシュルケンが間に入る。
「カノン殿。この場は拙者たちに任せて船内へお入りくだされ。カノン殿には『ダックス殿と元気で再会する』という、大事な使命がありますゆえ。ささっ――」
彼が優しく、花音の背中を船室へと送った。それを見届けると、セドールがゆっくりと四肢を伸ばして立ち上がった。背中には、すでに巌流が跨っている。
「陣形を整えろ。船は錨を下ろしている。ベルもすぐに駆けつける。操舵室からは随時、カヅキにより敵の位置が報告される。カヅキ! 首尾はいいか!?」
――『はい! 大型敵影、300メートル沖に補足済み! 深度22メートル。ゆっくりと蛇行しながら当船へ接近中。速度5ノット!』
カヅキの拡声器による指示で、後方から近づくモンスターに誰もが備えた。シュルケンの足元は海戦に備えて『蛙足袋』というヒレ付きの履物に替わっている。一二三の握る竹刀も、真っ直ぐに天を刺す形で掲げられた。この航海における、最大の決戦が幕を開けようとしていた。目指す大陸は、もうそこに見えている。




