72・苦渋の選択
「おい! ダックス!」
一二三の問いかけも虚しく、ダックスはそれ以上、何も答えなかった。
そこで、うわ言を口走っていた花音が、か細く声を漏らした。
「ダックス……。私、帰れるの……? お家に、学校に、帰れるの? そこに、あなたはいるの?」
『主、カノン。赴くままに選べばよい――』
「でも……。でも、そこにいるのは、あなたじゃないダックスなんでしょ?」
『主、カノン。我が身は今この世界にあり――。我は主を守護する者なり――』
そんな重大事実の中、やはりどうしても黙っていられない人物がいた。
「強くなるの? じゃあ私、裏口入学!」
ユルエが門をくぐってしまった。『たまごっぴ』がレベルアップ的な音を立てた。
「ユルエさん! 勝手に何してるんですか! ダックスは花音さんのために言ったんですよ!」
しかし、どうやらそうではなかった。
『前世への転生を求める者よ、ゲートを前から潜れ。力を求める者よ、ゲートを逆に潜れ――』
その声は止まない。
「どうやら、拙者どもは試されているらしいでござるな」
「試されてるって――」
「ヒフミ殿。これは千載一遇の好機ではござらぬか。拙者もとより、戻るつもりなど毛頭なし! ならば力を授け給え!」
シュルケンが、ユルエと同じく門を後ろから潜った。
「ちょっと、シュルケンさんまで!!」
香月が止める間もなかった。そして、香月に抱かれていた花音がおもむろに立ち上がる。
「カノンさん?」
花音がゆっくりと門柱へ向かう。一歩ずつ、よろめきながらも。
「私……帰らない。ダックスと一緒じゃなきゃ帰らない……」
その動きは緩慢だったが、花音の意志が誰もの手出しを拒んだ。やがて花音が門を裏から潜ると同時に光が消えた。石造りの門と共に。
「カノン……」
どうにか動き出せた一二三が、今にも倒れそうな花音へ駆け寄る。
「お前は帰っても……。帰ってもよかったのに……」
座り込んだ一二三の肩に、花音がもたれかかる。
「兄ちゃん、シャバいって。それは『帰る』って言わない。『逃げる』って言うの――」
そして安らかな笑みと共に、兄の肩で眠り始めた。
ツキヨタケゾーンは極力息を止めて、全員が洞窟の外へ脱出した。暗黒のはずの魔界の空が、眩しく思えるほどだった。
「どくっぴぃ! 元気してたぁ!?」
『僕、どくっぴ! 食べたら死ぬよ!』
その激しい抱擁には目を向けず、憔悴していたのは一二三と香月だった。
「私、なんだかもう。ダックスのことが分からなくなってきました」
「ですよ。主なんて呼びながら、なんで出てこないんだよ。花音はこんなに待ってるのに――」
その傍ら、シュルケンは自分の身体を撫でまわしている。
「んー。何が変わったという雰囲気はないでござるが――」
いい加減に、といった、香月の雷が落ちる。
「ユルエさんもシュルケンさんも、軽率過ぎです! なんで、あんな勝手なことするんですか! 何かの罠だって、思わなかったんですか!」
その通りだった。それでも、リーダーのひと言は必要な空気だ。
「フォーミュラさん。終わったことは、終わったことですよ。カノンは無事みたいなんで」
「そんなベルモットさんみたいな理屈は通りません!! なんですかヒフミさん! ガンリュウさんとかベルモットさんとかの、あのヘンなところだけ意識して真似なんかして!」
「ヘンってなんですか! それに真似なんてしてません!」
「そうだな。オレの物真似だったら、もうちょっとカッコよく決めてくれねえと――」
見るに堪えない夫婦喧嘩のようなやり取りに、乱入者があった。
「べ――ベルさん!?」
「よお。ちったぁ強くなったか。巌流のオッサンも、ボチボチ来るそうだ」
フードを上げてブロンドの髪をなびかせるのは間違えようもない、ベルモット・オルウェーズその人だった。いつも以上の皮肉っぽい笑顔が輝いている。感動の再会というのはなかなか上手くいかないもので、まずは恥をさらしただけの一二三と香月だった。
「うわああい! ベルモっちぃぃぃっ!」
ボディプレスよろしく飛び込んでくるユルエに、ベルモットが応える。
「おおユルエ。なんか女らしさが増したんじゃねえか? 男どもにこき使われてなかったか?」
『うん! 僕、どくっぴ! 食べたら死ぬよ!』
ベルモットの目が真っ赤に光り、13メートルほど飛びのいた。
「おままままま――お前! なななななななん! なんでいやがる! おいユルエ! どういうことだあっ!! 説明しろぉっ!!」
「んー。私、ゆるっぴ。ゆるしてくれっぴ」
「許すかあっ! ダメだ、オレもう帰る。おいヒフミ、あとはよろしくな」
いろいろと台無しだ。
「ベルさん落ち着いてください。こんなキノコなんかどうでもいいくらいの大事件なんですよ」
「はあっ!? どうでもよかねえだろ! 毒キノコだぞ! 猛毒だぞ! オメエら、あの時のこと――ああっ! 思い出したくねえっ! ユルエ、お前すぐ捨ててこい。じゃなきゃ、オレが焼き尽くす」
『僕、どくっぴ! 焼いても食べられるよ! 死ぬよ!』
「……」
とりあえずユルエと『どくっぴ』を亜空間へ押しやって、ようやく話が始まる。
「はあ、ゲートか。ここにもあったんだな」
ベルモットは、涼しい顔で言い放った。
「知ってたんですか! どうして教えてくれなかったんですか!」
「待て待て。オレたちは、そいつを確かめるための別行動だったんだ。セドールの話じゃ1000年も前の記憶だって、それが胡散臭くってよお。そんな不正確な情報じゃ、伝えられねえだろ。第一に、傍には必ず強力なゲートキーパーがいるってウワサで――ちくしょう、アイツだったか」
亜空間からユルエが顔を出す。
「ボクゆるっぴ! よろしくね、べるもっぴ!」
「うるせえ! 出てくんな!」
うっかり聞き逃してしまいそうだった彼女のセリフに、香月が問いただす顔になった。
「ベルモットさん。『ここにも』って言いましたよね? 他にもあったってことですか?」
「あー、そういうこった」
「その上でベルモットさんもガンリュウさんもいるってことは、裏から潜ったんですか?」
ベルモットはつまらない話をする時の顔で、
「ああ、とりあえずは試しにな。オッサンは、どっちも断ったが。侍ってのは面倒臭えな。強くなりたいくせに、そういう時に見栄を張る」
一二三が質問を追いかける。
「じゃあベルモットさん、何か新しい錬金術とか手に入れたんですか?」
「いや、別に何もねえ。古い口伝ってのは、尾ひれがついて大げさな話になるんだろう。もっとも『現世に帰る』ってのは証明できなかったが。ゲートってのは、ある程度の時間で消えちまうみたいだ。本物だったとして、一度に裏から表から何回も行き来できる代物じゃないだろ。できるなら、とんだイカサマだ」
バカバカしそうに吐き捨てると、次に声色を変えた。
「妹は。様子はどうなんだ」
「眠ってます。苦しそうとか、そういうのはないです。よく寝てる、って感じです」
「それならいい。ただし、あの犬コロも信用できなくなったって訳だな」




