57・水生モンスター
「すっげえな。なんだ、ここは」
魔物の住む星とは思えないほどの、緑に囲まれた静かで美しい湖畔だった。洞窟の壁を抜けたベルモットと一二三は、その風景に見惚れてしまっていた。空は薄曇りだが、湖の底からほのかな温かい明かりが照らしている。
その穏やかさに気を緩めたか、一二三は座り込んで竹刀の手入れを始めた。
「おい、気ぃ抜いてんじゃねえぞ」
「ええ。でも、竹刀はすぐに手入れしなきゃいけないんで」
「ま、大事なモンだからな。じゃあオレはさっきの礼ってことで、周辺警戒に当たっとくぞ。何かありゃ、すぐ呼べよ」
「はい。ありがとうございます」
(ベルさん。気は強いけど、いい人なんだよな)
一二三は腰袋から手ぬぐいに巻いていた千枚通しを出すと、竹刀の中結を解き始める。突きの衝撃で竹刀が緩むと、そのあとの打ち込みで派手なささくれができてしまう。そのささくれを小刀で削っている時だった。ベルモットの助言も忘れて気を抜いてしまっていたのだ。
妙な音に気がつくと、静かだった湖面に小さな泡が浮かんでいた。何かが水中にいる――。そう思った時は遅かった。
岸辺から、巨大なカエルが何匹と這い出てきた。全身が黄色に黒の斑。腹は白く膨れ、3つの大きな目が別の場所を向いてギョロギョロと何かを探している様子がありありと見て取れた。
(ヤバい……目が合ったりしたら……)
1匹のカエルと目が合った。三つの黒い瞳が一二三へと焦点を結んだ。
カエルは跳ばなかった。大きく開けた真っ赤な口から、さらに溶けるように赤い舌を素早く伸ばしてきた。
一二三は身を転がして避けると竹刀を握る。
(ダメだ、解けたままだった――)
こうなったら巌流仕込みの掌打で一体ずつ倒すしかないと覚悟を決めた瞬間、
「ダメだぞ一二三。そいつぁ毒がある。黒に黄色だ赤だって派手な色は、生物界じゃ脳無し臆病野郎の常とう手段だ。『俺様に触るとケガするぜ』ってな」
背の高い木の上からベルモットが見下ろしていた。
「悪いな一二三。お前は囮にさせてもらった。超低温術ってのは時間がかかるもんでな――」
そういうベルモットの胸は、大きく膨らんでいた。カエルの腹といい勝負だ。
たじろぐ一二三の姿を6匹のカエルが目で捉える。合わせて18の目だ。
「青の練成459.67……。合図したら後ろに跳びな。レディ――」
カエルがゆっくりと口を開けてゆく。一二三は震える脚を止められない。
「ビビんなヒフミ! 跳べっ!!」
声にはじかれたのは一二三もカエルも同時だった。瞬時のことだった。逃げる一二三の蹴り足に6本の舌が伸びた。ベルモットが唱える。
「『絶対零度』!!」
圧倒的な冷気が吹きつける。逃げきれなかった一二三の足にカエルの舌が絡みつく。だが6本の舌はその根元から白々と凍りついてゆく。その氷が追いつく前に、彼は靴から足を抜いた。危機一髪だった。
大きく息を吐いた一二三の目の前で、氷漬けのカエルが並んでいた。
「湖にカエルかよ。センスがねえっつうか」
大きな足音でやってきたベルモットが、やはり大きな音を立てて一二三の背中に座り込んだ。質量的にも重くなっているのか、ズンと音がした。
「なんだ? 背中で感じるより手で触りたいか?」
からかい口調のベルモットが、大きく膨れた胸を押し付けてくる。
「ベルさん――ちちょっつ、つ」
「妙なこと考えてんじゃねえ。まず、その竹刀っての、しっかり直してみろ」
青少年には刺激の強過ぎるシチュエーションの中で、一二三は心を限りなく無に近づけて竹刀を編み上げる。
「できましたけど」
「そっか、じゃあそのままオレにも握らせろ」
「竹刀を、ですか?」
「ああ」
彼女は押し付けた胸のまま一二三の身体ごと強く抱き上げて、
「マテリアル――」
呟いたまま黙り込んでしまった。
動けないのは一二三だ。彼女の呼吸の音を耳の後ろで聞きながら、大きな鼓動を背中に感じていた。
「ベルさん……なんなんですか」
「お呪いだよ、竹刀が壊れねえためのな。さあ終わりだ、ちょっと休ませてくれ。そいつらが冬眠から覚めたあとは、お前に任せたぜ」
言うと彼女は本当にそのまま眠ってしまった。今のうちに氷漬けのカエルを叩いておくか、まだこの感触に酔っているか、そんな葛藤をしている自分が堪らなく恥ずかしかった。




