44・巌流の本気
「ダメだ! 何度言えば分かる! お前の剣には殺気がまるでない!」
巌流による一二三の特訓は、今日も続いている。
「でも……。竹刀も力も、これが限界で……」
「だから言ってるんだ! 竹刀に頼るな! 力で押すな!」
鬼がいればこんな形相だろうという顔で、巌流が一二三を睨む。
「だったら……どうすれば。これが僕の精一杯なんです。これ以上、期待されても……」
一二三は竹刀を地に下ろして項垂れる。剣士が剣を地につけるという気弱なその姿がさらに癪に障ったか、
「分かった。お前は今日から竹刀を捨てろ」
「捨てるって――?」
「素手だ。今日からは素手だけでこの大樹を叩け。拳とは言わん。手のひらで、その根元から折り倒すつもりで叩け。一発ずつ、渾身の力で叩け」
それだけ言うと、巌流は腰に刀を携えて斜面を上がっていった。振り返りもせず。それが小さく見えるまで、一二三は立ち尽くすしかなかった。
「それで、そのザマかよ。弟子も師匠もバカじゃねえのか。こんなデカい木が、素手で倒れるかっていうんだよ」
両手のひらを血だらけにして倒れ込んでいる一二三に対して、ベルモットは冷ややかだ。ただし、一緒に現れたシュルケンは言うことが違った。
「ヒフミ殿。ガンリュウ殿が申すのは、心の持ちようの話でござる。誰も、このような大木を素手で倒せる訳がないのでござるよ。確かに人はそう考えまする。しかしそれは強敵を目の前にして『倒せるはずがない』と考えてしまう心と同じ。だが『倒せる』という、その心を以てして、鍛錬に励めと――」
そこでシュルケンが言葉を止めたのは、河原に戻ってきた巌流が目に入ったからだ。
もう薄闇という時刻、その影は憤然とした何かに満ちていた。両目が赤く燃えている。一二三はようやく、そこで理解した。本当の『殺気』というものを。
「見ていろ――」
誰に言うでもなかった。巌流はそのまま一二三が倒れ込んだ場所まで近づき、大木に向かって掌打を打ち始めた。いきなり目の前で深夜工事が始まったような、凄まじい音が響き始める。
ズン……!!
まずは、木にとまっていた小鳥がけたたましい鳴き声と共に、何十羽と飛び去った。三度目の掌打で大木が鈍い音を立てた。四度目には明らかに何かの軋む音が聞こえ――。
「があああぁっ!!」
巌流が四方数キロまで届かんばかりの雄たけびを上げると――、
メリっ――! メリメリっ――!!
湿った、鈍い音が聞こえる。
「おい……ウソだろ……」
ベルモットが思わず飛びのいた。巌流が、もう一度叫ぶ。
「はあああぁっ!!!!!」
メキメキっ――という、誰もがどこかで聞き知っている巨木の倒れる音だった。が、それはただ映画やアニメの効果音であり、なのに今はそれが目の前の現実として、そのままの光景を見せた。
巌流が肩を上下に揺すって両腕をだらりと垂らせば、その大木――直径80センチを越えようという大木は、敗北を認めたかのように激しい音を立てながら、ゆっくりと倒れた。ぐしゃりばさりと枝が折れて潰れる音が止めば、あとは千切れた木の葉が風に舞うだけだった。
「ヒフミ。次はお前の番だ。ベル、この木を戻しておいてくれ」
シュルケンまでもが腰を抜かした光景の中で、倒れたままの一二三が微かに目を開けた。
その目が見つめる先には遠い一番星が見える。しかし一二三は、その遠い星に指の一本だけでも触れなければならなくなった。
誰も動けない。動かない。
ベルモットだけが、
「またオレかよ……」
まだ身を包む恐怖から逃れるように呟くだけだった。
その数日後、シュルケンだけが聞いた話だったが、
――「道場破りの場所がなくなってイライラしていただけ」
だったらしい。




