8.5先バレ投稿「花音とダックス」
「ダックス! そこでオシッコしちゃダメ!」
浅川沿いでダックスを散歩中だった少女が、リードを握ったまま立ち止まった。
8月28日の午後6時。残暑の夕陽が傾き始めて、すべての影を長く伸ばしている。
『しかしカノン。犬というモノは縄張りを大切にする生き物。これだけは、仕方なき習性――』
会話をしているのは小学六年生で一二三の妹・沢渡花音と、驚くことに話相手は犬だった。その犬が、リードを強く引くと、花音は引きずられるだけだ。
「でもねダックス。あんまり人の前でしゃべっちゃダメだよ?」
『ああ、極力はそうしておる。お前の兄には、一つだけ伝えたがな。ワムワム』
「えー、兄ちゃんにも話したの? 私だけの秘密だって思ってたのに」
花音はダックスを連れて、お気に入りの小さな公園に向かった。遊具も何もない、ほとんど人も寄らない。だからこそ、花音は彼とのんびり話ができるのだった。ちなみにダックスは「ワムワム」と鳴く。
「でも私、何でこんなんなっちゃったの? 私の手、いつまでこのままなの? ダックスは何か知ってるの?」
『カノン。今は考えなくていい。ワムワム』
「無理だよ。考えちゃうよ……。」
話は静かに終わり、花音は足元の砂をスニーカーのつま先でなぞっていた。夕暮れが運ぶ風に紛れるように彼女が呟いた。
「ねえ、ユルエさんってさあ――」
『ユルエがどうした』
「うん、何かね。私の勘なんだけど、兄ちゃんのこと好きなんじゃないかなって」
『ふん、それがどうかしたのか。仲がいいなら問題ないだろう。ワム』
流されかけた話を、花音は引き戻す。
「違うって。何かユルエさん、兄ちゃんにだけご飯大盛りにするんだよ?」
『食べ盛りだからな』
「それだけじゃないの。気がついたら、いつも兄ちゃんのこと見てるし――ダックスには分かんないかなあ」
『からんな。それより、ドッグフードをソフトタイプに変えてくれないか。長生きしていると、歯が弱くなってな。ワムワム』
何が何でも話題を変えたいのか、ダックスが鼻を鳴らすとそう答えた。
「もういい、帰ろ。あー、今日の晩ご飯ってチンジャオロースなんだよね。ピーマン苦手」
『好き嫌いはよくないぞ』
「ダックスに言われたくない」
すでに『二人』と呼んでいい彼女と彼は、足早に帰宅するのだった。




