8・ダックス
「なに、アンタ。犬なんてどこから連れてきたの――」
一二三が帰宅すると、ちょうど母親が洗濯カゴを抱えて玄関前を横切るところだった。
「いや、連れてきたっていうか、ついてきただけで……」
しかし一二三が慌てないのは彼の母が大の動物好きで、近所の保護猫の里親探しなども熱心に参加しているから、という理由もあった。
「へえ、まあ。ミニチュアじゃないダックスフントとか、最近じゃ珍しいわねえ。どーれ、お名前は何ていうのかな?」
彼の母は腰をかがめて、息子が連れてきた犬を撫で始める。
「ヤマダさん――っていうのは飼い主さんね。リードもついてるし、ちょっと町内チャットで声掛けすれば見つかるでしょ」
と、軽く言ってのけたが、
「でも、散歩中に逃げ出しちゃったのかしら。だとして、もしかしたら飼い主さんに何かあったのかもしれないわねえ。お年寄りとかだと物忘れで置き去りにしたり――最悪、その辺で倒れてたりするから。アンタ、何か見てない?」
あながち間違ってはいないと思いつつも、一二三には答えられない。大転生者が派手な寿命を全うして、忘れ形見として置いていったとは。
「ま、まあ。そういうのは母さんに任せるから。僕、部屋に行ってもいいよね?」
「そうね――。気持ちを入れ替えたら、ご飯食べに下りてきなさい――」
母の言葉は、いくらかの憐れみをふくんでいた。
一二三は部屋に戻ると負け試合の悔しさも跳ねのけて、行方不明の家出少女と怪しい身なりの侍が近所に出没していないか、ネットを駆使したあらゆるホットラインで調べてみた。しかし、該当する情報はなかった。
(あの侍、いくつくらいだったかな。十代の女の子を押し付けたけど、いろいろ大丈夫かな……)
そこへ、中途半端に開いていたドアから聞き覚えのない声がした。
「まあ、なんとかなるようには、大転生者様が順番をつけている。心配するな」
一二三はまず、そこで身体を硬直させた。
「だ……」
誰――? とも声を出せないまま、ふたたび身体が固まった。ドアの隙間からダックスフントが顔を出している。いつの間に、だ。
「我が名はダックス。驚くことはない。すべては運命の導き。時が満ちれば否応なく現実を理解できる日が来るであろう。ワム」
何から驚けばいいのか、一二三には分からない。混乱する頭の中、どこか負けた気分のままで犬を相手にとりあえず尋ねてみた。大転生者の飼い犬ならば、そういうこともあるかと。
「あの、ダックスさんでしたっけ……。とりあえず、今のこの現状を一から説明していただいてもよろしいでしょうか……」
「ワム!」
「いえ、もうちょっとやそっとじゃ驚かないんで。何か教えてくれませんか?」
「ワムワム!」
話にならない。何より彼は、本気で犬と話そうと思った自分が情けなくなった。
なので、大転生者などという怪しい人間の存在の記憶を消しにかかることから始めることにした。ピザでも食べて風呂に浸かって歯を磨いて着替えて眠って目を覚ませば、県大会の準決勝で負けたという現実だけが残るだろうと。
しかし翌朝――。
「ワムワム!」
その鳴き声と布団の上にのしかかる重みが、やはり紛れもない事実をつきつけてくるのだった。