2. あの朝に至るまで ⑥
ゆっくり休みなさいと言う、トーリアの言葉がエスタの胸によみがえる。ようやく、彼女の気持ちを受け止められるような気がした。
「アレスと話してたら、ちょっとすっきりした。ありがと」
「そうか?俺で良ければいつでも付き合うぞ」
じゃあ乾杯と言って、アレスはもう半分も入っていないグラスを持ち上げて口に運ぶ。
エスタも一口分ほどしか入っていないグラスを持ち上げ、少しだけアレスの方に傾けて、中身を飲み干した。
「アレスはどうなの?」
「なにがだ?……あ、同じものを」
給仕を呼び止めて、アレスは空っぽになってしまったグラスを渡しながら追加で注文した。
「私もお願いします」
「まだ飲めるのか?」
「うん、もう一杯だけ」
アレスは軽く頷き、水も一緒に頼んだ。そんなに酔っているように見えるのだろうかと、エスタは首を傾げる。もともと、さほど酒に弱い方ではないが、彼の気遣いはありがたく受け取ることにした。
「で、なにがなんだ?」
と、アレスは再びエスタに尋ねる。
「アレスって村長じゃん」
「なんだよいきなり」
「村長でしょ?」
「…そうだな、村長だ。今時珍しい、若き村長とは俺のことだな」
「ふふふ、そうそう。でも、王都でアレスは貴族の女の人に人気だったよ。かっこいいし、ハルマ村がハルマ領になるのも時間の問題だって言われてたし」
「あー……まあそれなりに話は来る…が、惹かれない。現状、領に戻すつもりはないよ」
「そうなの?」
「ああ。まだまだハルマは安定していないしな」
「まぁ…お金はかかるよね」
税金も増えるし、エスタがそう付け加えると、アレスは軽く首を振る。
「いや、そこは問題じゃない。俺に力がないだけだ」
きっぱりと言い切られたが、エスタは疑っていた。
「じゃあ、貴族と縁つなぎになるのは?いろんな手続きが簡単になるよ?」
ハルマ村やアスタル領は、統治者が平民であるため、国への申請が他よりも手間がかかる。例えばエスタの専門である税に関しても、確認内容や項目が増えており、時間も手間も負担になる。
貴族は優遇されている。それが常識である国に生まれたため、エスタはその優遇に関して、さほど疑問には思わなかった。平民であれば、可能あれば貴族へ籍を移したいと考えるのは普通だ。
エスタも貴族と共に働くまでは、貴族という立場に憧れがあった。この国のほんの一握り存在する特権階級であり、きらびやかな世界を生きる人々。
しかしアレスは首を振った。
「……確かに、村民の負担が軽減されるのは助かる。ただ、まずもって、俺は貴族が好きになれない」
「そうなの?」
「ああ。彼らの多くは、利益重視であるくせに、伝統や品格、立場というものにこだわり過ぎて、話が進まなかったり、かと思えばころっと騙されたりする。だが、有能だとされている者は、性格に難があることが多い。とにかく極端すぎるんだ」
周りの貴族に配慮しているのか、アレスは並んで座るエスタの方に少し身を寄せて、ひそひそと話す。彼の大きな体躯を縮める様子に、エスタはこっそり笑った。
「わかるよ。私、ふだん一緒に働いてるからね」
「言われてみればそうか」
アレスは目を丸くする。
「おまえ、本当にすごいな」
そう?と軽く流して、エスタも声を落として話す。
「その上で言うんだけど、アレスは貴族を利用する気はないの?」
「ない。この村の経営に参入させたくない」
「そうなんだ。意外…」
エスタは野心のなさに拍子抜けしながらも、真面目な彼らしい判断だとも、同時に納得した。
「領に戻してしまうと、相当やり手じゃないと治めるのは難しい。貴族との繋がりも必要になるだろう。と、なると俺では無理だ。だから村のままで、行けるところまで行ってみようと思う」
「そっか。なーんだ、私はアレスと結婚する人は、きっと貴族のお嬢様なんだろうなって思ってた。へんな家と縁つなぎにならないように、知っている限りの話をしておこうかと…」
アレスは少しだけ唇の端を持ち上げた。
「この人手不足の村に嫁入りしたら、仕事は絶対に手伝ってもらわなければならない。俺としては実績がある方が良い。でも、それだけではだめだ」
エスタはうん、と相づちを打ちながら、運ばれてきた酒に口をつけて、そっとアレスを伺う。
ぎゅっと魔導が詰まった、質の良い魔導石は闇に輝くと言われている。彼の瞳はまさに、それそのもののようだ。
「……俺個人としての心もある」
アレスはふと表情を緩めて、エスタと目を合わせた。
「と、言うわけだ」
「……えっ?ええと、好きな人と結婚したいってこと?」
いきなり空気が変わった気がして、エスタは慌ててそう言った後、間を持たせようとして、とりあえずごくごくと酒を流し込んだ。
アレスは慌てるエスタの方に、さらに体を寄せて、そっとグラスを置く。そのままじっとエスタを見つめ、少しだけ微笑んだ。
「そう。だからエスタ、俺と結婚してほしい」
言葉の意味を理解できず、エスタはわずかに口を開けたまま固まってしまった。
人生で初めての求婚に、どう応えればいいのかひとつもわからず、結局そのまま何度も何度も目を瞬かせる。エスタは自分の体が支配されてしまったかのような錯覚に陥った。
「えっ……えっ?」
「言っておくが」
アレスは視線を外してくれない。先ほどまでの会話の延長のような、彼の気楽さが恨めしい。
「俺はずっとエスタが好きだったよ」
「…そんなそぶり……」
「過疎地の未熟な村長に言い寄られて、嬉しいやつがいるか。俺だって、おまえに見合うようになりたかったんだ」
静かに諭すように言われて、エスタはあっと小さく喉の奥の方で声をあげた。
「返事は急がない。ちゃんと、ゆっくり考えてくれ」
酒精が一気に体じゅうをめぐり始めたかのように、顔が熱くなる。この場を早く離れたいような、もっとアレスと話をしたいような、矛盾した気持ちを見極めたくて、エスタはじっと自分のグラスを見つめた。
どこにも答えは書いていなかった。




