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2. あの朝に至るまで ⑤

 へんに空いた会話の間を訝しんだのか、じっと視線を寄越すアレスを避けるように、エスタは一口だけ酒を飲んだ。王都でもよく飲んでいた、赤い果実からできる醸造酒だとは思うが、あまり見たことがないくらいに黒に近い色をしている。

 おそるおそる口にしたが、やさしい渋味と果実の甘味に、思わずため息がこぼれた。

「……これおいしい」

「それはな、アスタル領の新作だそうだ」

 穏やかにアレスが応える。

「えっ、アスタル領って農作物だけじゃなくて、お酒も造ってるの?」

「ああ。ここ数年ではじめて、今年はようやく売れるものが造れるようになったらしい。イーリス殿が今一番ハマっているのが、酒造りだと聞いている」

「へぇ…そうなんだ」

「イーリス殿もそうだが、アスタル領には世話になっている。エスタらなら知っているかもしれないが…」

「……実はね、さっきこれ読んでたの」

 と、しまったばかりの、ハルマ村の歴史を見せた。

「ついこの間、うちで出したものか」

「そう。仕事柄わりと読むんだけど、地元編纂のものが一番信用できるから」

 ハルマ村の近隣にあるアスタル領は、かつてはハルマ村に負けず劣らず過疎の進んだ田舎として有名な場所だった。

 ハルマもアスタルも、かつてはそれぞれ貴族が治める『領』だった。どちらも王都からは遠く離れた田舎であるうえに、作物も育ちにくい不毛の地である。それでも昔は魔導石の産出鉱山があったため、それなりに栄えていた。

 しかし、ある年を境に急速に魔導石の発掘量は減った。領主であった貴族は、早々に平民に統治権を譲り、二つの領は新たな産業を苦心しながら模索していた。

 そして先に光明を得たのは、アスタル領だった。

 今から五十年ほど前、研究者メイガによって作り出された肥料を使い、土壌の改良を行うことに成功したのである。これによってアスタル領の農業が息を吹き返すことになる。

 はじめこそ、作物が育った、という歓びだった。しかしそれだけでは飽き足らず、品種改良や栽培方法に工夫をこらし、現在では、とにかく味が良い、ついでに見た目も良い、というアスタル産ならではの価値を国内外に広めることに成功したのである。

 ハルマ領は完全に出遅れた。メイガの肥料に効果がなかった、というのが一番の理由だろう。

 そのため、ハルマ領からはどんどん住民が流出し、ついには『領』という規模から『村』へと単位を変えざるを得ない状況になってしまったのである。

 ただハルマ村には鉱山が盛んだったころに、たまたま見つけられた温泉があった。

 温泉自体はめずらしいものではあるが、国内には田舎の温泉などでは太刀打ちできないほど、歴史と知名度を誇る観光地が多数ある。

 そのため、観光資源とするには弱かったが、アスタル領民が冬季休暇などにのんびり過ごせる穴場的な場所として、なんとか、ギリギリで生き残ってきたのである。

 転機は約十年前、アスタル領の研究者であるイーリスが疑問を呈したことだった。彼女はもともと綿密な調査を得意とし、特に地質調査においては右に出るものはいないとされている人物である。

 そんなイーリスが、ハルマ村の温泉に入るとなんかいい感じで頭が冴える…と、言い出したのだ。一般的な効能だけではなく、特別な何かがあるのではないかと調査を始めたのである。

 ハルマ村の泉質は、源泉が発見された際に一度調査されたきり。しかもそのころは、まだ魔導石の採掘が盛んだったため、さほど泉質は重要視されていなかったのである。

 そして一年に及ぶ調査の結果、導き出されたのは、魔導を含むという効能だった。それに一番驚いたのはハルマ村の全住民だ。

 こうして効能が公表された日から、数日も経たないうちに、ハルマ村へたくさんの人々が、温泉を求めて殺到することになったのである。

 エスタはすでに王都へ進学していたため、そのころの混乱を知らないが、家族から聞く話を要約すると、老若男女問わず動けるものは仕事に追われていたらしい。

 エスタの父は、かつて経験がないほどの監査業務に追われ、母は村の外から商売に来る商人たちへ許可証の発行に値するかどうかを見極めるという気疲れする業務にあたっていたという。弟たちも、家事と書類の整理で一日が終わるという状況だったと嘆いていた。

 それらを指揮していたアレスは、その何倍もの苦労があっただろうと、容易に想像できる。

「よく乗り越えたねぇ…」

「ああ。だが、公表前にアスタル領主と密約を交わして準備していたからな。本当に助けられた」

「……そっか。アスタル領ってすごいね」

 エスタはちびちびと醸造酒を舐める。イーリスと結びつくユグの存在が、否応なしにちらついて、重く息を吐いた。

「エスタ?アスタル領と何かあったのか?」

 そう、アレスに問われ、エスタは慌てて否定する。

「ううん、違う。関係ないよ」

 ユグやヨルン親しくなったきっかけは、彼らがアスタル領の出身で、さらにはイーリスの子供たちだったからだ。話すきっかけも、エスタがハルマ村の出身ということを知って、母が迷惑をかけた、と声を掛けてくれたのである。

 迷惑なんかじゃ全くない、故郷の救世主だとその時のエスタは思っていた。いや、今だってそう思っている。

 イーリスの息子と同僚だと言うことは、なんとなく家族にすら伝えられずにいたが、それがむしろ良かったのかもしれない。

「私さ、仕事で失敗が続いて、長期休暇を取らされたんだよね」

 覚悟も何もなく、びっくりするくらい、普通に話してしまった。全く意図しない自分の行動に、エスタが一番驚いた。

 アレスがどう思ったのかが気になり、緊張しつつ、ちらりと彼を伺う。

「…そうなのか?」

 アレスの表情はあまり変わらなかったが、一応驚いているらしい。飲もうとしていたグラスを持ち上げて、口元まで運ぶことなく、また置いた。

 その仕草がなんだか可愛らしくて、エスタは弾みで口を開く。あっけなく零れ落ちた。

「うん。失恋したの。そしたら、いろんなことがうまくいかなくなっちゃったんだ」

 一度話し始めると、するすると言葉が口をついて出てきた。

 しかも、ところどころ相づちを入れてくれるアレスは聞き上手で、エスタは自分の身に起きたことがよくある出来事だと改めて認識できて、結果的に気持ち良くすっかり話してしまった。

「……そうか。見る目がないな、そいつ」

「うーん、どうかなぁ。彼に恋人がいるって、私が何年も気がつかなかったんだよね。もっと情報収集したり、積極的になったりしなきゃいけなかったのに、なぜか勉強ばっかりしちゃってさ……アレス?」

 声を殺して笑うアレスに気がついて、エスタは顔をしかめる。

「笑いたきゃ笑いなさいよ」

「いや……悪かった。ただ、どうして好きになると勉強するって流れになるんだ」

「彼に見合う人になろうとしたのよ」

 エスタが拗ねて言うと、アレスは優しく言った。

「なるほど。それはわかるが、人を選ぶ方法だな」

「……うん」

 アレスの一言で、長らく混沌とした気持ちが治まってきたことに、エスタは戸惑った。

 ちょっとユグに会わないだけで、どろりと留まり続けていた、後悔と恋慕でこんがらがった気持ちが薄れていたことに改めて気がついた。さすがに自分の単純さに不安になる。

「エスタ?」

 急に黙ったエスタを心配したのか、アレスに名前を呼ばれる。低く響く声にはっとして、エスタは知らず知らずのうちにうつむいていた顔を上げた。

「うん、大丈夫。ちょっと元気になった」

「……それならいいが」

 考えてみれば、ユグは器用だ。王都という華やかで人の多い場所で、恋人の目の届かないところで適当に手を出そうと思えば可能だったはず。けれども、ユグは一途だった。そういう人間に惹かれたということは、エスタにはおそく見る目があった。

 きっと偉大なる先人たちは、失恋という深い悲しみに対して、自分で自分を説得しながら乗り越えてきたのだろうと、エスタは無理やり落とし込んだ。

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