2. あの朝に至るまで ④
エスタがハルマ村に到着したのは夕暮れ時だった。
トーリアと別れ、改めて村の繁華街を見て回る。
最後に帰省してから五年。初めて見る施設や店ばかりが立ち並んでおり、興味のままにのぞいていたらすっかり暗くなってしまった。エスタは荷物を詰め込んだ小さな鞄と、書店にて購入した数冊の本を抱えて、実家に戻る前に食事でもしようかと、大通りから一本入った路地に、ひっそりと営業する酒場に入ることにした。
自らの食欲に任せて、飲食店に入るなんて久しぶりかもしれない。ここ最近、蔑ろにしてきた食生活が脳内によみがえり、エスタは苦笑した。とはいえ、トーリア一家の豊かな食事のおかげですっかり体型は元通りになりつつあるのだが。
酒場は盛況だった。
貴族らしき身なりの客もいれば、ハルマ村の住人だろうと思われる客もいる。一人客も複数人の客も、それぞれが干渉せず食事やお酒を楽しんでいるのが感じ取れ、この居心地の良い雰囲気は、世俗とはゆるやかに切り離されており、くつろげる空間になっていた。
エスタよりもやや年かさの女性店員が、すぐに気がついて、思いのほか丁寧に案内してくれる。観光客だと勘違いされているのかもしれないと、気がついたが特に言及はしなかった。
案内された横並びの席に着くと、空腹を感じながら品書きを手にする。やたらにアスタル領産の食材が多いなと思いつつ、エスタはいくつか軽食と酒を注文した。
「失礼ですが、お腹はすいていらっしゃいますか?」
注文を取り終えた店員に尋ねられ、エスタは大きく頷く。
「ええ、それはもう…!」
「でしたら、またあとでこの辺のお食事を追加されると良いかもしれません」
おそらく注文した料理は、あまり量のない前菜のようなものだったのだろう。気の利く一言に、エスタはすっかり感激してしまった。
「ご丁寧にありがとうございます」
「いえいえ、今日のおすすめですので、よかったらぜひご賞味くださいね」
なんという完璧な接客に素敵な笑顔なのだろう。きっと彼女に付く常連は多いに違いない。
そんなことを一人考えながら、料理が来るまで手持ち無沙汰であったため、エスタは先ほど買い求めたばかりのハルマ村の歴史という本を開いた。次に会ったらこの村のことを教えると、コントラルに約束したのだ。その機会がいつ訪れても良いよう、いまから準備はしておきたい。
黙々と読み進め、しかし運ばれてきた料理の美味しさに何度かページをめくる手を止めたり、勧められるままに追加で頼んだ酒の深い味に感動し、店員に感謝を伝えたり、なんだかんだで一人の食事とは思えないほどの充足を得ることができた。
エスタが彼に再会したのは、読み終わった本をしまい込み、あともう一杯くらい飲んで帰ろうかというところだった。
「エスタ?」
ふいに名前を呼ばれ、顔を上げると立派な体躯の男性が立っていた。
黒髪短髪に黒い瞳、王都で流行りの軽めな美男子ではないものの、田舎には似つかわしくない整った顔立ちに、懐かしさを覚える。思わず名前を呼んでいた。
「アレス…?」
「久しぶりだな」
彼の、少しだけ表情を和らげるような控えめな笑い方は、記憶の中の少年とあまり変わらない。エスタは一気に同じ学校に通っていた頃の気持ちを取り戻し、じんわりと嬉しくなった。
アレスは、隣の席の椅子に手を置き、
「隣、いいか?」
と、エスタに尋ねる。
律儀な姿勢に好感を持ちながら、エスタは勢いよく頷いた。
「もちろんいいよ。アレスに話したいことたくさんあるし」
素直にこのハルマ村の発展を称えたかった。ちょうど改めて歴史を知ったところで、アレスの行った施策の数々について興味があったのだ。
「………いいぞ、なんでも言ってくれ」
アレスはゆっくりと椅子に腰をかけ、体ごとエスタの方を向く。うっすらと覚悟をにじませるような表情に、エスタは呆れて笑った。
「待って待って、早いよ。先に注文して」
「そうか?じゃあ……」
常連なのか、アレスは店員を呼び止めると、品書きを見ることなく、すらすらと注文する。
「エスタも何か飲むか?」
わずかに振り返り、視線だけをエスタに寄越す。
「ええと、じゃあアレスのおすすめで」
「そうだな……醸造酒を飲んでいたのなら、同じ感じのものにするか」
少しだけ残っているエスタのグラスを見て、何やら知らない名前の酒もついでに注文してくれた。
誰かと食事をすることに慣れているのか、気が利くところにも経験を感じる。感心すると共に、自分との違いを見せつけられた気がして、少しだけ気後れした。
「……アレス、本当に立派になったねぇ」
エスタにとっては心からの言葉だったが、アレスは一拍おいて苦笑する。
「おまえは俺の親戚か」
「いや、だってハルマ村をこんなに発展させて、本当にすごいと思う。あなたが私と同じ年だなんて、信じられないもの」
「そうか?」
アレスは意外そうに眉を上げた。
「おまえの方がすごいよ。単身で王都へ進学して、いまや部屋持ちの役人だ。新聞に名前が載るたびに、俺は誇らしさと焦りでどうにかなりそうだった」
そう言って、アレスは運ばれてきた酒に口をつける。夜空にきらりと光る星のような色の蒸留酒が、半分ほどアレスに吸い込まれていくのをぼんやり見ながら、そっとエスタは微笑んだ。
「なにそれ。どうなったのよ」
エスタが頬杖をついて続きを促すと、アレスは少しだけ悩むように視線を彷徨わせてから、口を開いた。
「そうだな……俺はとりあえず精一杯働いたかな」
「それは、ちょっと嬉しいかも」
役人という、全国民が支払う税金が給与となる仕事に就いてしまったからには仕方ないのだが、人事のすべてが新聞に掲載されてしまう。エスタはこのことをずっと苦手に思っていたが、どうやらアレスの励みになることができていたらしい。
この慣例に対して、肯定的な気持ちになれる日が来るとは思いもしなかった。
「ふふ、じゃあ結果的に私もハルマ村の発展に貢献できてたのかな」
冗談のつもりで言ったが、アレスは真顔で肯定した。
「ああ、そうなる」
「……そっか、それならよかった」
でも、と言いそうになって、エスタはぐっとこらえる。
アレスはどう思うだろうか。失恋なんてつまらない理由で仕事に支障をきたすような、情けないこの状況を。
昔から取り繕うことなく素直な彼だ。自分を讃えてくれた言葉は、きっと本音だ。それだけに、エスタはアレスに幻滅されるのが怖かった。




