2. あの朝に至るまで ③
「休暇を取りなさい」
一定の役職に就くと与えられる、こぢんまりとしたエスタの私室で、上司であるトーリアは冷たく告げた。
貴族である彼女は、きらきらしい装飾品に似合う横顔を苦悩に歪ませながらも、声や言葉ははっきりとしたものだった。
「……申し訳ございません」
「違うわ。この数年、あなたは本当によくやった。その功績を認めているからこそよ」
「……感謝しております。そのように、取り計らっていただいて…」
「ばか言うんじゃないわ、あなたの努力よ。私は適切に評価しただけ。とにかく、しばらくゆっくり休みなさい」
「ですが…」
ここで休みなど取ろうものなら、二度と仕事ができなくなる。エスタはなぜか強くそう思った。
「ご実家はどこ?」
「えっ…?」
「エスタ、あなたの、実家よ」
トーリアにひとつひとつ単語を切るようにゆっくりと問われ、不意に緊張しながらエスタは小さな声で答えた。
「ハルマ村ですが…」
「ふふ、そうよね」
腕を組み、トーリアが少しだけ首を傾けると、よく手入れされた金糸のような髪が、流星群のように流れる。
「じゃあ、私たち家族をハルマ村に案内してちょうだい」
「それはどういう…」
「明日ちょうど出発するのよ。うちの馬車に乗りなさい」
確かに明日から数日休暇を取ると話していたことを思い出し、エスタがはっとトーリアを見る。彼女は優しい表情で頷いた。
「ちょっとエスタ、なに泣いてるのよ。そんなに私と帰省するのは嫌なの?」
違う、いや違わないのか。自分の気持ちがエスタ自身もよくわからなかった。
だが、この高貴なる身分の美しい上司が、自分のために休暇を使ってくれたであろうことだけは、なんとなくわかる。何か言わなければとエスタが口を開こうとすると、鋭い視線で封じられた。
「謝ったりしたら、抹殺するわよ」
そう言って手巾を渡される。おそろしく手触りの良いそれを受け取りながら、エスタは恐縮しながら頭を下げた。
「……あ、ありがとうございます」
手巾でエスタがそっと目元を押さえると、涙と化粧が混ざって濁った水分が移る。この汚れは落ちるのだろうかと背筋が凍ったが、トーリアは特にそれに関しては特に言及せずに腕を組んだ。
「そうね」
一度言葉を切り、トーリアはにっこりと微笑んだ。
「案内、頼んだわよ」
そんなこんなで、エスタはろくに荷造りもせずに、トーリアに引きずられるようにして、ハルマ村へ向かうことになってしまった。
彼女の夫と、三人の幼い息子たちにもみくちゃにされながらの道中は、予想していた以上に楽しかった。それこそ、仕事のことや王都での出来事をじっくり考える暇なんてないくらいに忙しなかった。
特にトーリアの長男であるコントラルは、なんでも知りたがり、些細なことに「なんで?」を見つけては大人たちを質問攻めにする。そのたびにエスタがあれこれと構っていたら、大変に懐かれた。
今年で八歳になるという彼の無邪気さに振り回されながら、エスタは自分がとうに失ってしまった視点を、再び取り戻すことができたような気がした。
「エスタ!木が、植物が生きているとはどういうことだ?」
「エスタ!なぜ歯は一回しか生え変わらないんだ?」
「エスタ!季節が変わるのはどうしてなんだ?」
もともと知識として備わっているものもあれば、全く見当もつかないようなものまであり、コントラルと一緒にあれこれと考え調べるのは本当に充実していた。久しぶりに学ぶことが楽しいと思えた。
この状況を見たトーリアの夫が、うちの家庭教師になってくれないかなぁとぼやくと、トーリアは、かわいい部下を横取りするつもり?と言って、睨みを効かせている場面に遭遇し、恥ずかしいような嬉しいような幸せな気持ちになった。
同時に、なんでも言い合えて、お互いを尊重している二人に、結婚の理想を再確認できたような気がした。思い出してみれば、それはエスタの両親と変わらない姿で、とてもまぶしく映った。
ハルマ村に着いてすぐ、トーリアたち家族とエスタが別れることは、あらかじめ決めていた。
その中で、普段は明るく礼儀正しいコントラルが、エスタとの別れ際に涙を浮かべ、けれども引き留めるようなことは一切口にしなかったことに、大人たちはみな心を動かされた。
「エスタと一緒に来れて楽しかった!また遊ぼう!」
そう言ってぎゅっと彼に抱きしめられ、エスタはうっかり泣くかと思った。
「はい、コントラル様。こちらこそありがとうございました。ぜひまた、よろしくお願いいたします」
そう微笑みかけると、コントラルはもう一度エスタにしがみついてくる。
トーリアはそんな息子をエスタから引きはがしながら、少しだけ真剣な声音で、
「エスタ、あなたの部屋は必ず残しておくから心配無用よ。いったん仕事は忘れて、ゆっくり休みなさいね」
と言って、優雅に微笑みながらエスタの肩に一度だけ手を置くと、家族と共にハルマ村の高級宿泊施設へゆっくりと向かっていたのだった。
ほんの数日ではあったが、賑やかな道中にエスタは癒されていた。
貴族である彼らは、一度たりとも平民のエスタを蔑ろにすることはなかったし、なによりエスタが仕事ができなくなってしまった理由を、トーリアは追及しなかった。
上司の愛情を今さらながらに感じて、気がつけば人目も気にせずエスタは深く頭を下げていた。




