2. あの朝に至るまで ②
きっかけは、ヨルンに警備隊所属の恋人ができたことだった。
「エスタはどうなのよ?」
いつものように終業後の図書館で勉強を終えると、ちょうど業務を終えたヨルンが、恋人を待っているところに遭遇した。最近よくあることである。
「えっ?何が?」
「あなたは恋人いるの?」
そんなことを訊かれたのは、これが初めてだった。不思議な気持ちになったが、素直にエスタは首を振る。
「いないよ。そんな暇ないし」
「そう」
ひとつ息を吐いて、ヨルンは続ける。
「実は、エスタを紹介してほしいって最近よくお願いされるのよ。恋人がいるなら断るんだけど…」
衝動的にあなたのお兄さんが好きなんだと言ってしまおうかと思ったが、ぐっとこらえた。
ようやくユグと同じくらいまで仕事ができるようになって、そろそろ本人にこの気持ちを伝えようと思えるところまで来たのだ。ここで妹に先に明かしてしまうのは順番が違う。
「うーん、まだ仕事もしたいから、そういうのはとりあえずいいかな」
「あら、そうだったのね」
ヨルンは感心したように頷いた。
「あのお兄ちゃんだって、恋人にうつつを抜かしたりしてるのに、エスタはさすがだわ」
聞き捨てならない、衝撃の一言にエスタは凍り付いた。あの仕事人間に恋人がいるだなんて、考えたこともなかったのだ。
「………え…っ?ユグって、彼女、い…いるの…?」
自分の発言によって一変したエスタの様子に、さすがのヨルンも何かに気がついてしまったらしい。
「……ごめん」と、短く言ってうつむく。
明るい灯火が一気に消えてしまったかのように、しゅんと落ち込むヨルンに、エスタは自分の中の元気を総動員させて明るく笑った。
「えっ、ちがうちがう!ユグに先を越されてるとは思わなくて……あんなに忙しいのに、手を抜かないところはさすがだね」
ヨルンは歯切れ悪くはあるものの、いつものようにエスタに応える。
「まぁ、幼なじみみたいな子だから」
「意外ね!ユグ、あんまり帰省しないじゃない」
ああそれは、とヨルンは少しだけ間をおいて、そっと微笑んだ。
「彼女も地元を出ちゃってるからね。あまり会えてはいないんじゃないかな」
「文通してるとか?」
「そうみたい。たまにコソコソしてるわよ」
「ユグにもそういうところあるんだね」
「もちろん。あいつ本当に小心者だもの」
意地悪くそう言ってみせると、ヨルンはぱっと顔を輝かせた。ふだんはあまり表情に出ない彼女の変化を、エスタは不思議な気持ちで見つめた。
ヨルンは迎えに来た恋人を見つけたらしく、軽く手を振っている。
「じゃあ……」
「うん。またね、ヨルン」
そうして少しだけ小走りで駆け寄っていくヨルンの背中を見送った。よくやった、よくがんばったと、心の中で自らを讃えながら。
けれどもさすがにしばらくその場を動けなかった。なぜか警備隊所属の中では小柄とされる彼だが、ヨルンと並ぶとさすがに大きく見えるな、なんてわかりきったことに感心したり、明日の仕事の内容を考えたり、だいぶ寒くなってきたな、などとぐるぐるとさまざまなことが頭の中を渦巻いていた。
ヨルンが羨ましいと思うこともある。だが、エスタも誰でも良いわけではない。
自分にも相手がいないから、当然のようにユグにもいないと思い込んでいた。なんて勝手なのだろう。彼は適齢期の男性なのだ。なぜ恋人がいるだろうことに思い至らなかったのか、間抜けここに極まれリである。
ようやく暗い夜道を踏みしめるように歩き出すと、見慣れた夜の風景が、とんでもなく美しく感じて怖くなった。通りすぎる人々はみな、幻想の世界に生きる亡霊のように透き通っているように見えた。
そこからどこをどうやって自宅まで帰ってきたのか、全く覚えていない。ただ、気がついたら寝台に座り込んで、体中の水分がなくなるくらい泣いていた。
ほとんど眠れず夜を過ごし、翌朝は体調不良で休もうかと、相当悩んだものの、エスタは干からびた体を引きずってなんとか出勤した。しかし案外なんとかなるもので、空虚な毎日ではあるものの、普通に仕事をこなすことができた。
それが、である。
いつからなのかはもう定かではないが、気がつけばエスタはすべてのことに心が動かず、ただ仕事を処理するためだけの道具になってしまっていた。
税務官とは、数字に込められた人間性や感情を読み取ることも仕事のひとつである。道具と化したエスタは、たびたび誤作動を起こすようになった。




