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1. はじまりの朝

 エスタは自分が目を覚ましたことで、今まで自分が眠っていたことを悟った。

 輝かしい陽光を浴びて、人々が希望と共に目覚める中、カーテンから透ける明るさに照らされて、ぼんやりと記憶を探る。こんなに気持ち良く起きたのは久しぶりだと思いながら、体を起こすと軽く伸びをした。

 異常に気がついたのはその直後である。室内を見渡したエスタは、とんでもない失態に打ち震えた。

「うそ、でしょ…」

「…ん?起きたか…」

 閉じていた目をぱちりと開いた彼に、ひとつも慌てた様子はない。

 一方のエスタは、同じ寝室で少しでも手を伸ばせば触れられるほどの距離に、家族や恋人ではない異性がいるなんて、ほとんど初めての経験である。すべてを忘れたふりをしてごまかす、一目散に逃げる…といった、その場しのぎの行動は一切思いつかず、ただただ真面目にこの現実を受け止め、動揺した。

「……アレス……おはよう?」

「おはよう」

 名前を呼ぶと、応える。ということは、本物の本人らしい。

 エスタは頭を抱えた。大きな寝台、優しい肌触りの毛布、隣に寝転がっている見知った男性、昨夜のおぼろげな記憶。そして彼も自分も何ひとつとして身につけていない、正真正銘の裸という事実。

 揃いに揃った状況証拠に、のたうち回りたい気分だが、とりあえずぐしゃぐしゃに丸まっていたもう一枚の毛布を素早く引き寄せ、絶望と共に体に巻き付ける。

「…信じられない……私……」

「何も覚えていないのか?」

 アレスの少し掠れた低い声は、優しくて甘い。ひるんだエスタはわずかに眉を寄せた。

「あなたと偶然再会して、一緒にお酒を飲んだことは……もちろん、覚えてるわよ……」

「よかった」

「よっ…よくないでしょ」

「そうか?」

 にっこりアレスが笑った。彼のこんな笑顔なんて初めて見たかもしれないと、エスタは短く息を呑む。しかしその直後、即座に自ら否定した。昨夜、どうにかなるくらいに見たではないか。

 断片的にちらつく画像と連動して、アレスの声も脳内で再生される。頭がはっきりすればするほど、記憶がエスタを追い詰めた。

「……待って、違うの。なんで…って私?私のせい…?」

 ここに至るまでの一連の流れを思い出し、ひとり慌てふためいていると、手枕で横になっていたアレスが真面目な顔でもぞもぞと起き上がり、エスタの頬に右手を添えた。愛おしげに撫でられ、エスタは目を逸らして顔を赤らめる。

 なんとか一夜の過ちとして処理したいが、ひとつとして案が思いつかない。

「どうしよう…」

 声に出すつもりはなかったのに、情けないことに言葉となって漏れてしまった。

「……ははっ!」

 エスタのうろたえる様子を間近で見て、声を上げてアレスは笑う。そのまま顔が近づいてきて、唇を重ねられた。

 エスタは驚いて離れようとするが、彼の左手に後頭部を固定されてしまい、身動きが取れない。

 せめてもの抵抗にアレスの胸を押したが、それも抱え込まれるように口づけられ、さらには舌まで入って来て、もうエスタの経験値ではされるがまま受け入れるという選択肢しかなかった。

 戯れにしては長く、事を始めるには少し物足りないくらいの時間でやっと解放される。

「俺は昨日言ったことに、何ひとつとして嘘はない」

 ぎゅっと抱きしめられて、優しく言い聞かせるようにアレスは言った。

「エスタ、どうか俺と結婚してほしい。好きだったんだ、ずっと」

「…ほ…本気で言ってる……?」

「当たり前だろ。忘れたなら、何度でも言うが」

 忘れてはいない、と言うよりもエスタはもうほとんど思い出していた。酒精の力ですべて忘れていたかったが、無駄に高い記憶力がそうさせてはくれない。

「私、失恋して仕事が手につかなくなったから逃げて、帰ってきたのよ…?アレスのことはとても尊敬しているけど、好きなのかどうかは、まだ考えられないし…」

 改めて口にすると、自分の不甲斐なさに顔が歪む。

 そのことで弱っていたのは事実だ。同時に、あくまで紳士的であったアレスに付け入る隙を全面公開して、刹那的な充足を求めた愚か者もエスタだったのだ。

「ごめん。それなのに私…」

「勝手に落ち込むなよ」

 アレスが、はあ、と短く息を吐くと、エスタを抱きしめる腕の力を少しだけ強める。

「理由がどうあれ、好きな女を抱けるなんて幸運以外の何になるんだ」

「……」

 アレスの言葉にエスタは泣きたくなった。エスタの気持ちを汲んでくれる彼に応えたいと思っていても、やはり頷くことができない。

 言葉を探すエスタに、アレスは微笑みかけた。

「おまえは本当に相変わらずだな。誰がどう見ても、どう考えても、得をしているのは俺なんだよ」

 エスタはそうは思えなかったが、これ以上アレスを振り回したくもなかった。

「……違うよ。でも、ありがと」

 されるがままだった体を少しだけ捩らせ、アレスの肩を押した。密着していた肌が朝のひんやりとした空気に触れる。

 自分で離れておいて寂しいと思うのは卑怯だ。アレスにこの矛盾を悟られないよう、エスタは祈るように手を組んだ。

「長期休暇を取ったんだろ?村にいる間、ゆっくりでいいから俺のことを考えてくれないか」

「……うん」

「いつでも会いに来てくれ。返事は急いでいないが、できればたくさん会いたい」

「……わかった」

 エスタの返事に、アレスはゆっくりと頷いた。

「よし。じゃあこれでもう反省会は終わりだ」

「……うん」

 恥ずかしさと申し訳なさで縮こまるエスタの額に口づけ、アレスは名残惜しそうにつぶやく。

「……離したくないな」

 少しだけ苦しげな声音に、エスタは思わずアレスを見つめた。

 彼の朝焼けの直前のような黒い瞳が、獰猛な獣のようでもあり、すべてを包む静謐な闇のようでもあり、得体の知れない雰囲気に気圧される。不思議と怖いとは思わなかったが、これ以上同じ時間を過ごす覚悟はなかった。

 思えば、同じ村で同じ時期に生まれたというのに、これまでエスタはアレスとの接点があまりに少なかったのだ。

 だから知りたいと思った。アレスを理解したいと思った。どうしてエスタに好意を持ってくれているのか、その理由も。

 いつでも会いに来てほしいと言われても、忙しい彼の邪魔はしたくない。なにか、自然に会いにいけるような口実がほしい。

「……アレスの仕事、できることがあったら手伝うね」

 けれども、考えるよりも先に自らの口をついて出た言葉に、エスタは困惑した。

 仕事ができなくなって帰ってきた自分に、一体なにができるというのだろう。

 信頼して任せてもらえるのかどうか、不安になってアレスを伺うと、彼は頷き、エスタの肩を少し越す長さの髪にさらりと触れた。

 その彼の切なげな表情に、いまさら心臓が役目を思い出したかのように、ガンガンと打ち鳴らしはじめたが、エスタは必死で気がつかないふりをした。

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