シーン9 煮込みハンバーグ3つとナポリタン2つですねーー。
いつものテーブルに案内されたが、着席して気づいてしまう。椅子の色が赤茶色から深紅になっていた。きっとパラレルワールドが移動したせいだ。タイムマシンは理論的に証明されていると聞いた事がある。縦軸が成立しているのなら、横軸を否定する理由はない。だが、赤は、赤色は警戒の色、私の手の平にジワリと手汗が浮いてくる。運命が動き出した。吉と出るか凶となるか。出来れば前者でありたい…。体感が現実の空気感だった。想像して選択して決断する世界。繰り返しの世界に慣れ切った私の精神は、対応しきれるだろうか…。不安しか…ない。
それにしても、男3人1つのヨーロピアン席に奥から上司、私、エースと横並びに座ってしまった。183㎝痩せ型の私の隣に座るエースは、お尻の三分の一が椅子からはみ出しているであろう、筋骨逞しい肩幅のある青年との横並びは満卓の鮨詰め状態を思わせる近さだ。「椅子出しましょうか?」と言った従業員に、上司が「通路に椅子があると、あなたの邪魔になるでしょ」と滑らかな声で断った。ほんと、このポンコツは外面と人当たりだけは天下一品だ。ポンコツがいつもの台詞を吐き始める。朗らかと見れば朗らかな表情だが、鼻の下が伸びていると言えばそう見えなくもない顔で「成形し終わったハンバーグを油でツルツルにコーティングするんですよ、油で表面を覆うことで焼いているときの破裂も防げるし、肉汁を逃さないように表面を焼きかためにもいいらしい」、そこまでは聞こえていたがあとは集中力が途切れ、私は肩が触れ合うほどに一つの長椅子にギチリと座った男3人が、向かえに座る女性たちの目には滑稽に映っているのではないだろうか、と、そんなくだらない事ばかりグルグル、グルグル、グルグル考えていた。上司の前に座っているよしのさんの連れが「デミ缶じゃないんですか?」と口にする。おいおいそれはエースのセリフだ。
上司はいい顔つきで「ガストリックを使っているんだよ」と応え、顔を前にちょこんと出したエースの視線が、私の前を通過して上司に向けられ「なんですか、それ?」と聞く。私は後ろに姿勢をそらしながら「秘密の調味料で、ビーフシチューやハヤシライスとかでも使うんだけど、深みのある大人の味にソースを早変わりさせるらしんだ」とこぼしていた。私はハッとしてグッと黙る。きらめく目でカメラにウインクするトシちゃんとは正反対に、私はグッと黙って下を向く。しまった!横取りしてしまった。上司のセリフを横取りしてしまったーー!!毎日聞いていた上司の言葉を、私は無意識に暗記していたのだ。それはそうだろう、タイミングを間違えないためにはある程度おぼえておく必要が…ある、だから。うつむいたままそんなことをあれこれ考えていたら、「先輩、真ん中って気を使いますよね。すみません、俺が座れば良かったですね」とエースが私を気遣い、上司も「どうした?」と私に聞く。「なんだか、ししゃりでた気がしまして」と言い訳がましく口にすると、上司は「そんなこと考えてると生きづらくなるよ。いいんだよ、好きな事を好きな時に言って」とフォローする口ぶりで言った。
よしのさんの連れが「いい上司さんなんですね」と大きな声で感嘆をこぼし、意味ありげな目を左隣に座るよしのさんへと向けた。エースがうんうんと頷きながら「自分は部長の下に今日配属になったんですけど、なんだか今の言葉を聞けて安心しました」と笑顔でこぼす。そしてエースは笑顔の眼差しをよしのさんの連れに向け「あのー、お名前聞いてよろしいですか?」と言った。「あっ、自己紹介がまだでしたね、さちこと言います」と言ってさちこさんはぺこりと頭を下げた。「さちこさんか、いいお名前だ」と言った上司が、「ですからね、さちこさん、ぜひ煮込みハンバークを食べてほしいんですよ」と話を戻した。
なんだかんだと脱線しても、大まかな筋書きは変わらないんだと私は安堵した。エースが「そうなんですけど、店の前にあったサンプルを見てから、俺、ナポリタンが食べたくなりました」と言いだし、流れを乱すことばかりを選んでしているかのようなエースに感じる私の了見は、パラレルワールドを移動してもなお相変わらず狭いらしい。今はただ通常運転を願ってやまない私は…、あの日と変わらず…、平凡なのだった…、自分に対してがっかりとしたため息が漏れる。そのため息に敏感に反応したのはエースで「俺、母が当直の晩に弟に作ってたんですよ、ナポリタン。懐かしくなっちゃって」と右手で頭をかきながら口にし、「いいですね、私もナポリタンにしょう」とさちこさんが同調した。私のため息は勘違いされ、さちこさんに気を使わせてしまい、私は寛大に欠けると判断されたに違いない。また一歩、私は私の人格を後退させてしまった。
ああ、こんな事を積み重ねる世界だった。1つの取り違えから始まる世界。だから、いやいやと思いながら通じなかったと虚しさを感じつつも、さりげなく会話して修正を加え、互いの心象を守り合う世界。そういえば共存共栄が子供の頃から私は苦手だった。母がよく言っていた「ほんとボーッとした子ね」と。“そうじゃなかったんだ、母さん。どれが正しい答えなのか、考えてしまうんだよ“、この一言をあなたに言えず、随分と損な役回りになった気がする。その母も84になり、記憶の中にはもう私は存在していない。一人暮らしの父に「同居しようか?」と言ったら、「6年も一人暮らししてるし、俺には俺のペースがあって正直、お前が帰ってくるとペースが崩れるんだよー」と拒否られて驚いた。いや、傷ついた。母の入院費の援助はしてほしいが、お前とは暮らしたくはない。ふと思う。この身勝手な世界はいつまで続くのだろう。どこからやり直せば許される。いや、いや、無理か、自分で自分を許せないのだから。あの時、上司に対して違和感さえ感じなければ、私の人生は違うものになっていたはずだ。今ならわかる。笑顔の仮面で「仰る通りです」とか「だと思いましたー」とか、「なるほど」とか適当なこと言って、その場、その場で合わせていれば良かったんだよね、母さん。そうさ、あの時、部屋に招き入れていれば…。
よしのさんが「どうかされました?煮込みハンバーグでよろしいですか?」と私に聞く。「はい」と何も考えず答えると、従業員が「煮込みハンバーグ3つとナポリタン2つですね」と言った。