シーン8 私もポンコツ上司と変わらない。
来る日も、来る日も、とある来る日も、そしてまた次の来る日も翌日も、私は繰り返し、繰り返し、繰り返しの毎日の中にいる。相変わらず煮込みハンバーグを食べ、エースくんの涙を見送り、ねこの牛乳を買い忘れている。わざと毎日、毎日、毎日、毎日スケジュール管理が得意な販促部のように、一日のトピックが変わらないように、同じ事の繰り返しになるように気をつけながら過ごしている。時間軸の縦と横が変わってしまうのが怖かったからだ。塗り絵の黒線から色鉛筆がはみ出さないようにするかのように、1日を無難に消化している。いまがいいから、今のままがいいから、変えたくないから、変わりたくないから、こんな気持ちになるの当たり前の話だと思うんだ。君も一度経験するとわかるよ。だってさ、健康は維持されるし、人間関係の煩わしさも、生活費も、心労もないんだよ。安泰の人生を手にしたんだよ、よく考えてみてよ、そうすると理解できるからさ。認知の世界線が変わるかもと思ってよしのさんとの会話も「落としましたよ」以外は口にしていない。新鮮さが目減りしてきたような気がする今日この頃だけど、それでも今日を重ね続ける今日を私は生きている。
毎日が同じだから日付と曜日が、いや違う。何日目かがわからなくなった私はロビンソン・クルソーを真似て正の字を刻み始めた。正の字が7つになった頃、棒読みの台詞のように言葉に感情が乗らなくなった。13個になった今では空気も腹筋も使わず、ハリのない声で呟くように言葉を言っているけど、そんな私を誰も気にしない。スポンサーの社会貢献をアピールするだけの、時間と言葉と経費を無駄に消化するだけの、演出家だけが妙に元気な超ロングなつまらない舞台巡業みたいに、演者の私に誰も気を留めない。私は贅沢を言っているのか…。考えるのに疲れてしまって、この世界を選んだはずなのに、グルグルとこうやって思考を巡らせている。人間は考える生き物だと言ったのは誰だったか…、超面倒くせー、人間って。それでも私は今の毎日の中にいたい。人を嫌い、人を信じられず、託せない程に私は人に疲れる。関われば誠意は意味をなくし、真心は真を成さず、純粋は粋でなくなって、正直は正しさを失う。しかも責任感は責められる材料でしかない。
毎日の繰り返しなのに、なぜだか家猫の行動だけは毎日違う。鳴くタイミングも違えば、身体をすり寄せてくるのもタイミングも違う。自宅にいる時だけが時間が過去へと押し流されている。刷新されている。それでもなぜだか、外の私は繰り返す毎日の中ににいられた。黒ねこの魔力だろうか…。
正の字が49個になった日、すれ違ったよしのさんの微笑が悲しげに見えた。私は振り返る。いつも通りに振り返る。お決まりのタイミングでハンカチが落ちた。私はハラリと落ちるハンカチに安心して見入ってしまった。よしのさんは悲しいわけではない。私の見間違いだったと安堵したその一瞬、100分の1秒、私は出遅れた。ハンカチに駆け寄ったエースがひょいとハンカチを拾い上げ、よしのさんに「あの、これ、落としましたよ」と声を掛けた!!私は恐怖した!!!!この馬鹿エース!!!筋書きを変えやがって!私の安穏を!!このばか野郎!!馬鹿、バカ野郎!!運動神経自慢の馬鹿エース!!私は!!運動神経だけが自慢の馬鹿エースに!!!先を越された!!くそ!くそ!!クソッタレ!!!平安の日々の中に居た私を、運動神経だけで、先の見えない世界に返り咲かせやがった。チキショーーーウ、私の中でコウメ太夫が叫ぶ!!叫んでいる、チキショウ!!!と!!何もかもが分かり切った世界が、私の世界が!!!チキショウ!!クソ!!クソ!クソ!!!そ、それに!!ちょっと振り向いてみただけの異邦人よしのさんは私のものだ!!!怒りを覚えた私はエースに駆け寄りながら「あっ、そのハンカチ、よしのさんのですよね」と言ってた。いきなりの名呼びによしのさんは目を見開き、よしのさんの友達は沈黙を深め、私を犯罪者を見るような目でみている。くそエースは口を半開きにした。そんなに驚くことないだろう、誰のせいだ!!お前の運動神経のせいだ。
視線の痛さに耐えきれず「あっ、前にお隣の方に、そう呼ばれているのが聞こえまして」とあえぐように取り繕ったら、火がついたかのように顔面が火照りだした。も、もう、私は展開が読めない恐怖と共に俯くしかなかった「…す、…すみません」と絞り出す。喉が詰まった。
「あの時ですよね!ほら、綺麗な人がお二人も!揃いも揃って歩いてるって、先輩と見惚れてしまった、あの日ですよね」と嘘8000をスルリと並べ立てたエースが恨めしい。だが、その助け舟にすかさず乗った私も「ああ、そうなんだよ」とスルリと認め、続けて「すみません、不躾にお名を呼んでしまって」と謝罪した。いつの間にかに、私の隣に立っていたポンコツ上司が「それは奇遇だねー。これをご縁に軽〜〜い気持ちで、我々とランチしませんか?」とのたまった。私はその横顔を突き刺すように見やる。また適当なことを言いやがってと殺気を込めて見る。よしのさんの連れが「どうする?よしの??」とよしのさんに聞いた。ふと私の目を見たよしのさんに「煮込みハンバーグが最高なんです」と言った。またも脳内でコウメ太夫が「チキショウーー!!」と叫ぶ。チキショウ!ーーーッ 私もポンコツ上司と変わりない。




