シーン7 殿は短期決戦を好まれる。
次の日、無難に難なく同じ1日を繰り返した私は吉乃さんの前に座していた。艶やかな紅色の打掛には鼓が描かれ、鼓を支えている黒とオレンジの組紐が下へ下へと伸びて、優美な曲線を描いている打掛だった。私はその曲線を不躾に追い眺めたが、きつのっちはそんな私を叱るつける様子もなく、どこか心ここに在らずの佇まいだった。だが、そんな互いの気怠るさは長くは続かず、邪魔が入る。男が「殿よりご相談の議あり、参上いたしました」と割って入ったのだ。無性に腹立たしくなって、不機嫌に声のする方に顔を向けたが、そこには漆黒が広がるばかりで人影すらない。視線をきつのっちに戻して見ると、すでにまなじりをキリリと吊り上げたきつのっちは、話しかけられる雰囲気ではなく、空気をピリつかせるよそ行きの威圧感をまとっていた。「あい、わかった。申されよ」ときつのっちが発すると、すぐに口上が始まった。
「大依山から密かに北に降りた敵は静かに西へと向かい、二手に分かれたのち夜間行軍を始めた。朝倉軍が位置を知たい。松明を掲げさせるにお主ならどう思案する。との仰せで御座います」と聞いたきつのっちが目を閉じて考える。
カップラーメンが出来上がらないほどの時間が過ぎた頃、ふと目を開けたきつのっちが「探らせている忍びの者らに、四方から獣の唸り声を上げさせよ。浅井軍は自領地の庭ゆえに地の利に明るかろうが、朝倉軍は不慣れじゃ。月明かりの無い新月の今夜、行先の闇の帷は墨のように真っ暗じゃ。不安を煽れば灯りを灯す」と言った。そう応えたきつのっちの声には、野武士のような粗暴さが滲んでいた。それでも、きつのっちはその瞳を女子高生のようにキラキラと輝かせている。「殿は暇を持て余しておられるな。わらわが言わずともわかっておられるはずじゃ。居どころがわかった朝倉軍に矛先を向けて陣構えを整え、浅井軍に横っ腹を見せて突かせ、押し込ませるおつもりじゃ。姉川は渡河できる場所が限られていると言っておられた。小競り合いをしているうちに、横山城を取り囲んでいる我が軍からの援軍が加わろうぞ。フ、フ、フ、殿もお人が悪い」と言ったきつのっちが、「さゆり」と凛と取り澄ました声で呼ぶ。
その声に「お方さま」と短く答えた女にきつのっちが視線を向ける。私には見えなかったが、きっのっちには見えているようで「そなたこの者と戻り、握り飯を用意せよ。支度ができた頃合いで、腹を空かした兵が大挙して押し寄せるであろう。よいか、握り飯には塩をたっぷりと効かせよ。そうじゃ、大根の漬物があったであろう、それを持ってゆけ。おお、そうじゃな、あいわかった。それと南蛮者が滋養強壮があると置いていった、奇なる香りの酒も持ってゆけ。良いか、握り飯は固くむすぶでないぞ、柔らかく、ふんわりと、女手で結んだとわかるような優しさで握れ。男心をくすぐって奮起させるのじゃ、行け」と景気良く言ったきっのっちに、男が「戦場に女子がウロウロ致しますると」と口を挟み、「この者が選びし者たちは皆くのいちぞ、心配無用じゃ。殿は短期決戦を好まれる、そなたたちには苦労をかけるが宜しく頼む」と淀みなく言い切ったきつのっちはカッコよかったです。
二人の気配が消えると、きつのっちは私に視線を向け「そなた、わかっていながらなぜに今日、同じ日暮らしを続けた?」と仰せになった。「雨が降るわけでも、ワイシャツにアイロン掛けする煩わしさも、金の心配もいらないからです。何が起きるか知っていれば心の平穏も保てるし、ねこも死なない」と答えた私に、きつのっちが「未来永劫、同じ日が続くのじゃぞ。それでようのか」と聞く。「疲れることは、もうしたくないです。このままがいい」と言った私をきつのっちが見つめる。
あぐらを組んでいた私の足が痺れ、感覚がなくなった頃、きつのっちが手にしていた扇子をパチンと鳴らした。