シーン29 笑う能面が聞く
クソ!!!カッコつけて“お供“などと言ったからバチが当たった!!「ここで」と言ったよしのさんと別れてから駆け出し、家に帰り着いたのが8時15分。慌ただしくシャワーを浴びて家を出たのが8時45分、遅い!!!スーツを、新しいスーツとワイシャツ、ネクタイの準備に手間取ったのだ。タグだ!クリーニングタグを取るのに手間取ったのだ。タグの紙質は頑丈で引っ張ったら生地が痛む。だからホッチキスに手をかける。だが!!ホッチキスの針を立てるのに失敗したら針は指先に突き刺さる。慎重を期するためにはホッチキスを使うしかない。そう!!ホッチキス!!ホッチキスの尻にあるあの突起を使って根気強く、一本一本引き起こしてゆくしか手はない。ハサミ⁈そうかハサミを使えば良かったのか・・、クソ!!時間に余裕がないと考えも狭まる。いい教訓を得た。クソ!!ハサミだったか・・クソ!!
4つの服になぜか6つのタグ、バチっととまっているホッチキスに突起を突っ込んで、引き上げるを繰り返して落ちたタグを拾い集め、床に這いつくばって取りこぼしたホッチキスはないかと確認する。案の定、予想通り一個見つけて指先を舐め、落ちたホッチキスに押しつけて拾い上げる。そしてしっかりとタグとホッチキスの数を確認してからゴミ箱に捨てた。ねこはどの子も今朝のようなタグとか、ホッチキスのマックス針とか、なんとかの破片とかが大好物で、なぜか猫は人間が“いけません“と思う物が好物で両手で突き回す。口をモグモグさせているのを見る度に、私は何か誤飲したのかと思い、口内を確認している。そんな思いからか・・単に焦っていたのか・・なおのこと今朝の私は小さな破片に気を取られ時間を食う羽目になった。会社に駆け込んだのは始業時間ギリギリセーフで、遅刻ではなかったが私の息は上がり切っていた。そこへスマホが鳴り出し「もしもし」と出ると、上司が「お取り込み中、申し訳ない。今日は会社に来るの?」と言った。何を想像したんだこの野郎と思いながらも上司なので「今、階段上がり始めました。すみません」と言うと、「そのままUターンしてトモッキーが入院してる病院に行ってくれるか、お前に会いたいって企画部経由で言ってきた」と上司、「なんで!私なんかに会いたいんですか⁈」と聞いても無駄だった。「さぁ〜な。芸能人の考えなんて俺にはわからん」それが上司の返事で、確かに答えはトモッキーにしかわからない。
病院の入り口にあの時の取り巻きの一人が立っていた。ソワソワと周りを見渡していたその人が、私を見つけ一瞬顔をしかめて駆け寄って来る。その勢いに押された私は2、3歩後退り、それでもその人は距離感を詰めて「その節はご迷惑をお掛けしました。マネージャーの林田と申します。今日はご無理を申し上げまして」と言いながら左手に持っていた名刺入れに右手をかけ、可憐な手つきで名刺を一枚取り出して私に差し出した。「頂きます」と言って内ポケットに手を入れたが私の名刺入れはそこにはなかった。あっっ!!移し替えるのを忘れた・・・「申し訳ありません。今日は名刺を切らしておりまして」と所在なげに言うと、「あっ、いいです。いいです。企画部の方の連絡先は知っているので」と返された。どっちが・・失礼か・・・どちらも失礼だが・・より名刺入れを移し忘れた私が・・いけない。歩き出した林田さんについていきながら「お加減はいかがですか?」と聞く、「今朝、やっと起き上がれるようになって、開口一番あなたに会いたいと言いました。ここ数年忙しくてまともに休んだ日が一日も無くて、先生のご診断では疲れが溜まっていたのでしょという事でした。我々の仕事はいつ用済みになるか不安を抱えながら、毎日椅子取りゲームをしているようなもんでして、本人からも休みが出来ないようにと言われていましたから、無理をさせていたのかもしれません」と廊下を歩きながら言った林田さんは、どこか楽しげで自慢げだった。
知っている。こんな人を人たちを知っている。バリバリと仕事をこなす華やかな部署に帰属している人たちの特徴だ。自動販売機の前に立ち止まった私は「すみません、ちょっとお時間いただきます」と言ってお茶を買う。その場でごくごくと飲んでから思い出した。二日酔いだったと。そうすると脳みそによしこさんの顔が走馬灯のように蘇り、膝の上に乗ったねこを撫でいる手になり、私に薬を差し出してひるがえした手の平となった。和やかだった朝の気分は今もうすでになく、知り合いでもない芸能人に電話1本で呼び出される私の価値は、安すぎないかと思う自尊のやるせなさに変わっていた。「あの・・」と言われて「ああ、すみません。お待たせしました」と言えた私はいたって普通の会社員で普通の人でしかない。どこかで何かしら毎日こんなことが繰り返されていて、もうすでに誰もがそんな理不尽に怒ったり、訴えたりする気力をなくし、仕方ないと割り切る気持ちだけが日々研ぎ澄まされ、気に留めるだけ無駄なのだと知りすぎるほど知っている。
個室の前に立った林田さんが「もしよかったら励ましてやってもらえませんか・・15本あったコマーシャルが今回の件で3本になりまして、意気消沈してると思うんです。本人はまたお声がけしてもらえるように頑張るから、お仕事を途切れないよう入れてねって笑ってましたけど・・その・・でもやっぱり増えるのは嬉しくて減るのは残念なことだと思っていると思います」と言うと、深く頭を下げ「本当すみません。見ず知らずの方にこんなお願いをしてしまって」と言った。そういえばそうだ。砂糖に群がる蟻のように取り囲んでいた人びとの姿はここにない。残ったのは彼一人ということで、林田さんは敏感にそんな人たちの機微を感じ取っているのだろう。「私にできる事はさせて頂きます」と言うと、「ありがとうございます」と笑った林田さんがドアをノックした。
私の顔を見たトモッキーは「ああ、ああ、ああ!ほんとすみません!来ていただくなんて!ほんとは私が御社に参りましてぇ!!!お詫びしなければなりませんのにーー」とテンション最高MAXで向かい入れてくれた。だが、林田さんがドアを閉めて立ち去ると、その様相は一変した。「それであんたは私に何をしたの」と言ったトモッキーの顔が、顔の皮膚が、コポコポと蠢きはじめ、いくつもの痘痕が浮かんでは漣が引くように消えてゆき、全く人相のないのっぺりとした能面になった。スッーと右手をあげたトモッキーが手招きする。「おいで」と頭の中で響く。次の瞬間、スッーっと浮遊したまま引き寄せられた私は、ベットのそばに置いてあった丸椅子にストンと座っていた。「何をしたと聞いている」と再び頭の中で響き、口を開こうとしたが接着剤で止められているかのように唇は動かない。だが感覚だけはあって気味が悪い。咄嗟に「ワァーー!!」と発したがやはり口は開かず、「頭で答えろ」と言われたのか、頭の中で響いたのかわからないままに、「何もしていない」と考えると通じたようで、トモッキーの能面がニタリと笑う。
「どこまで知っている」と笑う能面が聞く
「何も知らない」
「嘘だ。お前は知っている。誰に聞いた?」
「わらわじゃ」と突然のきつのっち
「ははーん。そなたであったか、で、何しに来たのじゃ」と能面
「殿が最も信頼していた者をそなたは狂わせた。その仕返しじゃ」
「えっ!」
「そなたは何も考えるな!!邪魔じゃ」と気迫の吉乃さんに叱られた私
「やめてくれ!!まじで二日酔いの頭には辛いから!!」と訴えても無駄で
「あまりやりすぎると、この者の頭は2度と元には戻らんぞ」と能面の意地の悪い声が私の頭の中でこだまする。
ギリギリとこめかみの血管がのたうち廻る
「やめて!!くれ!!」と叫んだが、声にはならず、私の手が空を掻きむしる。
「なぜあの者に裏切らせた?」と冷たい声で聞くきっのっちの言葉が頭の中を駆け巡る。
「お主、知らなかったのか?」と嘲笑う能面の声がかぶさってくる。息ができない。
「何をじゃ」と堂々たる態度で発し、ギリリと奥歯を噛んだきつのっちの声が私の背筋を這い上がり、
「そなたの旦那は魔王と呼ばれておったろう」と言った能面の言葉に鼻血がタラリと垂れた。
「それで!」と吐き捨てたきつのっちの威厳は凄まじく、
「言葉通りよ」と男言葉で返した能面は冷徹に「そなたの夫もまた囚われ者だったのじゃ」と言った。きつのっちが「黙れ!小僧!!」と言い返し、私は美輪さんを思い出し、「殿の仇!!」凛とする重圧感で言い放ったきつのっちが、誇り高く厳しく懐剣を振りかざし、宙を舞った能面がパキリと音を立てて裂け落ちる。
体から力が抜けて、どさりと前のめりになったとモッキーを慌てて支え起こす。
「これで光秀も成仏できよう。すまなかった」と私に言ったきつのっちに、トモッキーがトモッキーの顔つきに戻った顔で「師匠を裏切った事には変わりありません」とか細く言った。「そうじゃな、だが生き方で報いはできる」と言ったのはきつのっちで、「はい」と涙を流したのはトモッキーだった。
なぜか一番苦労して頭痛が再燃した私は置いてけぼりで、やわら私を見たトモッキーが「あなたのおかげで」と泣き声を大きくして私に抱きついてきた。引き剥がそうとしたがトモッキーは骨太で、筋肉でも私は負けていて私の力ではなんともならず、私はされるがままでいるしかなく、泣き声が聞き及んだのかガチャリとドアを開けた林田さんが、トモッキーに抱かれている私を見るや私の目を睨みつけ、私は気まずくも頭をちょこんと下げる事しかできず、トモッキーに抱きしめられていた。きつのっちが「役得じゃな」と笑っている。そもそも吉乃さんどうゆうことよと私は言いたい。




