シーン21 その昔、名を馳せた女優さんの逆鱗に触れて割って入って止めもせず、ただ黙って見てたんです。
自宅に帰り着いたのは深夜だった。ありがたい事に最終電車を逃してのタクシーチケットでの帰宅だった。同じ方向の4人が相乗りする車内はギュウギュウではあったが、今日1日で培った連帯感があっての事なのか苦痛は感じず、会話も弾んでいた。「エースくんが泣いたって本当ですか?」と我が部のお局に聞かれた私はクソ上司と思いながら「コンタクトがズレたらしいよ」と応え、「企画部と宣伝部のバトルはドローですよ、あれは」とか、「最古参、今日は会議室に差し入れしまくってて」と言ったのは、再三資料配りで会議室に出入りしていた若手で「俺が行く度に顔を合わせるんですよ、あの人の噂に対する執念すごいですね」と語り、追随したのは定年間際のオヤジさんと呼ばれている人物で「あの人の発信力すごいんですよ。でもね、あの人タチが悪い。あの人ね、昔、新番組の立ち上げに派遣されたことがあったんですよ。楽屋周りの補佐としてね。なのにあの人、若手タレントさんが正座させられたの黙って見てたんですよ。その昔、名を馳せた女優さんの逆鱗に触れて割って入って止めもせず、ただ黙って見てたんですよ」、「えっ!正座!!なんでですか」と若手が口を挟む。「どんな楽屋も奥から年功序列でと研修で教えられたでしょう。なのにあの人、その若手タレントさんを一番奥の席に案内したんです」、「ええ!」と声を上げたのは電話対応の女神と呼ばれている女性で、どんなに怒り狂っていても、無理難題を押し付けてくるお客様でも、最後は和やかな声にしてしまうという天賦の才を持つ人で、オヤジさんはその女神にウンウンと頷き「挨拶回りをしてたマネジャーさんが駆けつけた時にはすでに遅くて、女優さんが仲の良かった番組MCの噺家さんを呼んで、二人でお説教してたらしいです。若手タレントさんからしてみれば、“ここです“と案内されたわけですから、大御所さんからご要望があったのかなって思いますよね」と嘆かわしく、オヤジさんのその語り口調には冬の風情を思わせる憐憫があった。
「それでどうなったんですか?」とお局さんが聞く。「結局、番組プロデューサーが間に入って話をつけたらしいんですけどね、若手タレントさんはそれ一回きりの出演で2度と呼ばれなかったらしいですよ、内々では曜日レギュラーって打診だったそうですが」とオヤジさん、女神が「最古参さんはお咎めなしですか?」と聞けば、オヤジさんは「あの人どこかの回路がショートしてるんですかね、その後も何事もなかったかのようにその番組に関わり続けましたよ。もっともこの話を内輪に広げたのは、あの人がいま育てている噂の坩堝NO2ですが・・ね」と応え、若手が「いいなー、そんな厚顔持ってて。暇なんですかね、あの人たち。いつっも噂話ばかりしてますよ」と上の空でつぶやいた。「あっ、思い出したその若手タレントさん、その一件で事務所とも関係が悪化して移籍しましたよね」とお局さんが助手席から振り返る。「確か違約金がどうとか事務所が言い出して、週刊誌を賑わせましたよね」とお局さんが言うと、オヤジさんは「これから売れるというタレントさんでしたからね」と応じ、続けて「ホント、あの人、人の人生をある意味狂わせるきっかけを作ったのに、反省もなくいまだ聞きかじった事に尾鰭はひれをつけて流布してるんですから、、、どうかしてますよ」と嘆いた。
「幸せじゃないんですよ」と前を向いたお局さんがつぶやいた。女神が「それにしても終電を気にせず仕事に没頭したのはいつ以来だろう」と言うと、お局さんが「お父さまは大丈夫なの?」と聞く、「ヘルパーさんに時間延長頼みました。出費ばかりですね、介護って」と言った女神の顔に影が落ちたのを私は見た。この二人の女性に共通しているのは不倫騒動を起こしたという事で、自主退社してほしいと会社から打診されたが、家庭の事情でそれは叶わず、噂や蔑み、降格人事にも耐えて総務部に流れ着いたという強者だ。
相手の男性は今も出世街道を邁進している。いつも不倫の代償を払わされるのは女性側なのか、二人はいまだ独身だ。最古参とNO2の話を総称すると何度となく、社外の人と恋愛はしたけれども彼女たちと付き合っていると、おせっかい野郎が現れて彼女の過去話を披露され、聞いたお相手は疑心暗鬼となって彼女に説明を求めるのだという。この小さな世界、誰かと繋がればその友達とも繋がっているという事で、棲家や仕事を変えない限り、人間関係、しがらみ、そして過去は断ち切れない。
推測ではあるが正直に話せばやきもちを焼かれ、ディテールをはしょれば告げ口との整合性が合わず嘘つきと不信感を煽り、無言を選べば愛を疑われたのではないだろうか、、、。男とは矛盾する生き物でしかなく、グラビアアイドルの大胆さにお世話になりながらも、嫁となる妻には純粋無知を望み、かといって高嶺の花と羨望する女性は皆もちろん美人で、手を出せない己の弱さを差し置いて気が強そうだと揶揄する。どこまでも自尊心を可愛がるのに忙しいのが男で、総じて放出はするが無責任でいたいと願う馬鹿ばかりだと私は思う。
“苦労は買ってでもしろ“という格言があるが、そんな事はしなくていい。苦労は顔に出るし、金を出して買うなら幸福がいいに決まってる。そしてなるべく目立たず、周りと歩調を合わせながら生き“渡る世間に鬼はいる“と肝に刻んでいればいいと思う。




