シーン2 そなたがわらわの名を知るなんぞ1000年早いわ!と叱られる。
私の前に裏返した手のひらの上に扇子をのせ、その扇子に表にした右手の四本指を添えている女の人が、背筋を凛と伸ばして正座している。和蝋燭がほんのりと照らす室内はどうみても、歴史教科書で知った武家の大広間のようで、その裏付けのような女性の居住いは匂い立つような打ち掛け姿で、豊かな垂れ髪のおすべらかしはカラスの羽の如く黒々としていて美しく、女性から薫る白檀は私でもわかる高潔さで、細く整えられた眉から知性が溢れ落ち、色白で鼻筋は高く、黒目がちな切れ長の目は今、私を見つめている。
まなじりを下げて微笑んだら、誰しもがホッとするような涼やか美人さんなのに、いまは何故だか諭すような眼差しをしていて、その視線を私に向いていた。上司からのお叱りを何度となく経験している私は、その雰囲気が発するニオイ、空気のピリつき、沈黙の深さが織りなす独特たる毛色に見覚えがありすぎた。女性の声が聞きたくもあるが、いきなり怒られて興醒めしたくもないしーと、無言は卑怯と知りながらも貫いて美女の目を見続けていた。
それにしても、なんと貴族的な人なんだろう。こんな美女が何でここに居るのかな??イヤイヤ、待て待て、お邪魔してるのはどう考えても私の方だ、多分。武家屋敷風の家なんて私の生活テリトリーにはない。先祖が豪族ーーっていう友達も交友関係もない。ああーっ、もっーーー、何だこれ!それにしてもこうやって女性と向き合ったのは何年振りだっけか?確か、そだな、そう、4年振り。当時の彼女だった人から1週間振りに連絡が来て、待ち合わせた喫茶店で顔を合わせた途端に「私、結婚するから」といきなり言われて以来だ。まっ、付き合って一年と45日だった浅い私ではなく、他へ嫁ぐのは当然のことだなどと考えながら「お幸せに」と口にして頬を張られた。私のよくないところなのだろう、きっと。何事にも執着心が湧かない。こだわりもない。持つものは女色でなければ何色でもいいし、着るものも季節にあっていればそれでいい。腹を満たしてくれればよくって選り好みなく何でも食べるし、相手に不快な思いをさせるのはーーと果てしなく恐縮するから、自分の事は自分でできるので極力、人に対して要求なんて出さない。
しかしながらそれって模範的な社会性ってやつじゃないのーーー⁇、手がかからない子で育てやすくてよかった。校則違反がないから内申書が書きやすくてよかった。就職率の高い大学に合格できたからよかった。時間通りにバイトに来てくれるからよかった。字が綺麗なノートで見やすくてよかった。母だって先生だって同級生だってそう言って褒めてくれたぞ。
そんな事を果てしなく考えて挙げ連ねていた私に、麗しの美女が「おぬし、何をそんな不毛ばかりを考えておるのじゃ」断然と落ち着いた調子で一言一言を空気に彫りつけるように口にした。私は無意識にかっこいいと思う。そんな心を見抜いてか目を細めた美女が「そなた不躾じゃぞ。心で思っている事は人にはわからぬと思っておるのか、愚か者め。言葉は己の心と約束するためもので、口に出して二言はないと意思表明する道具じゃ。人はな目で語り合うものぞえ、愚か者」と仰せになった。二度も美しいひとから“愚か者“と言われた私の脳内で、あのマッチが歌い出す。愚か者よ〜、お前の流した涙を受けよう〜、愚か者よ〜、私の胸に頬を埋めて今夜は眠れよ〜〜と、明菜ちゃんの涙を受け止めなかったマッチがシャウトしながら歌っている。ギンギラと歌うマッチの髪型マネしたなーーーっ、“い・け・な・い・ルージュマジック“ 麗しの美女の口元が引き締まった。きっとこの人は私の心が読めるのだ。叱られる前に私は「あっ、のー、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」と社会人らしくピリリと節をつけ、社交辞令ぽい声で聞いた。
「そなたがわらわの名を知るなんぞ!1000年早いわ!」キリリと言い放った麗しの美女がふと笑う。笑顔に後押しされた私は調子に乗って「それでも知りたいんです」とイケメン口調でぶった。美女に「よかろう。そなたの寿命を5年貰うがよろしいか」と聞かれた私は速攻の早技で頷き、「吉乃じゃ」と教えてくれた吉乃さんは怖いこと口にしたのに、それでも美しかった。吉乃さんが「そなた時折、星に願いをしておろう。なので私が派遣されたのじゃ。見守るだけで良いとは言われていたのだが、見ているだけでは気が済まんようになってな、こうしてそなたをここへ連れてきた」と鈴を振るような声で聴き心地よく言った。
「えっ!!見てたの!!誰が!!何で!!何で!きつのっちが派遣されたの??、何かの罰!!何したの、何したらそんな罰喰らうの」と息込んだ私を、「そう急くな、見苦しい。殿方というものはデンと座して人の話を聞くものぞ」とたしなめたきつのっちは、「よいか、大事なことを言う。しかと聞け。そなたはバカだと思われている」と続け、私は「ちょ、ちょっと待ってよ、きつのっち。そんなこと面と向かって言ったらいけないよ。パワハラだよ。学校とかで教わらなかった?会社に入って一番最初に受ける研修項目だよ。バカと思われてるのも言われなくてもわかってるし、実際そうなんだから」と思わず口を挟んでいた。きつのっちが扇子で口元を隠して笑う。綺麗な仕草だった。
「馬鹿だと思われていて良いではないか、バカなのに智く振舞っている方が滑稽なのだろう、そなたたちの世界では。それにわらわはそなたを馬鹿だとは思っておらん。よいか、これからはバカと思われている視点で周りを見てみよ。思わぬ色合いの景色がそなたの目に映るであろう。今日はここまでとする。バカの着ぐるみをまだ脱ぐのではないぞ」、「わかった」と言う前に目覚まし時計が私を叩き起こした。