シーン14 あれはハワハラだったのか、セクハラだったのか、いや、どっちもだった。
どうにかこうにか、家にたどり着いた。疲れた。半端なく私は疲れている。会社を出るまで誰かに呼び止められるのではないか、スマホが鳴り出すのではないかと気が気じゃなかった。マンションが見えて来た時、私はようやく何も起こらないと実感する事ができた。あの時、トモッキーには触れていないとよしのさんが証言してくれて良かった。ヒールが折れていると指摘してくれて良かった。よしのさんが私を連れ出してくれて良かった。左手が、左手の中指がズキリと痛んだ。よしのさんと約束したのに、私はほったらかしにして軟膏も買い忘れている。すっかり忘れていた。それどころでは無かったと言い訳させてほしい。保冷剤はもうグニョリとした物体でしかなく、私の体温でしかなく、包帯を伸び切らせている邪魔者でしかない。鍵を閉めて猫の名を呼ぶ。カバンをたたきに置いて猫の名を呼ぶ。いつもは迎えに出ている猫がいない。急ぎ靴を脱いで、彼女のお気に入りの場所へと急ぐ。
寝ていた。唯一買い与えたウサギのぬいぐるみから頭を上げ、細めた目で私を見ると彼女は「ニャー」と鳴いた。「おい、驚いたじゃないか。迎えに出てこないから」猫に向かって強く言っていた。共に暮らすようになってから11年、こんなにも不安になったことはない。戸締り用心を欠かさないから、外に出るわけがない。そうわかってはいても、いなくなってしまったという脱力感が私を掻き立てた。振り返ってみれば、玄関で靴が竜巻にでも巻き込まれたかのようにトルネードしていた。「牛乳飲むか?」と猫に聞く。起き上がって背伸びした猫の流線型を撫でながら、「夕食の準備するから、牛乳飲んで待ってて」と言った。
手早く部屋着に着替え、猫の牛乳を準備する。猫が待っていてもまずは、外着を脱がなきゃ気が済まない私がいる。外は外、ウチはウチ、こうやって私なりに境界線を引いているのだろう。名を呼びながらゲージへと向かう。いまだ排泄と食事はゲージの内でさせている。習慣と規則を覚えていてほしいからだ。人一人と猫一匹の生活は誰もいないから曖昧になりがちだと、私はどこかで警戒しているのかもしれない。会社員を続けるためには規則正しく朝を迎え、定時出社できればその日をクリアしたも同然と知っているからか。あとは安定の中で最大限の用心を欠かさず、悪目立ちせず平々凡々を持続すればいい。そうすれば退職となるその日まで、生活費は定期的に支給されて安泰だ。競争心などを捨ててしまえばいいのだ、持ってても邪魔なだけだ。私にとっては簡単なことではなかったが、今、こうなってみてやっとわかった。誰もが向上心を持っているわけではない。より良い自分になりたいわけでも、努力が美徳とも、学びは素晴らしいと思っているわけではない。
適当、適宜、塩梅が社会的には無事なのだ。猫が屈んで皿を置いた私に体を擦り寄せてきた。泣けてきた。何年ぶりだろうか、私は泣いている。猫が皿の中の牛乳を嗅いでいる。「いつもと一緒だよ。安心してお食べ」私は泣き声になりながらそう言った。ゲージの近くで猫を眺めながら私は泣いた。そう、私の最初の上司は奈良橋、ポンコツ上司と同期で、ポンコツ上司になり代わりプレゼンした男。私を最初から使えないと判断していたのか・・私を今の私へと導いた男。泣いているから・・あの日を思い出しているのか・・・、出張先のホテルの個室に「一緒に飲もう」と言って、ワインボトルとアペタイザーを手にして訪れた彼を断った日だった。彼の誘いを断った日だった。




