渦の底へ
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「……みんな、川に溶けたんよ」
村役場の職員の言葉が、誠の耳の奥でこだました。
消えた、、川に、溶けた。
「前に住んでいた人たちって、何人もいたんですか?」
「……三人や。いずれも夜に川を渡って、しばらくして姿が消えた」
職員は言葉を選びながら続けた。
「ほんまかどうかは知らん。でも、最後の人は……」
誠は喉がからからに乾くのを感じた。
「……最後の人は?」
職員は、戸棚から古びた紙ファイルを取り出し、一枚の写真を差し出した。
そこには、ぼんやりと笑う若い女と赤ん坊を抱えた男の姿があった。
そしてその男は、、
誠自身だった。
「こ、これは……俺じゃ、ないです」
そう言いながらも、写真に写る男の顔は、どう見ても自分だった。
しかし記憶にはない。女の顔にも、赤ん坊にも覚えはなかった。
職員が静かに言う。
「あんた、、ほんとに自分が“初めてここに来た”と思うとるか?」
「……どういう意味です?」
「ここはな、たまに“帰ってくる人”がいる。
忘れたまま、な。川は、記憶を流してしまうけん」
記憶を流す。
誠は震える手で、もう一度写真を見た。
女の笑顔の奥に、見覚えのない懐かしさが湧いた。
帰り道、誠は橋のたもとで足を止めた。
夕暮れが川面に映り、水が赤く染まっている。
向こう岸に、誰かが立っていた。
髪の長い、濡れた着物の女。顔は見えない。
誠が一歩踏み出すと、女も一歩、橋に近づいた。
胸が痛んだ。何か、大事なものを忘れている。
そのとき、不意に頭の奥を裂くような記憶の断片が蘇った。
あの夜。大雨。
車。崖。
助手席には、妻がいた。
「大丈夫、誠……」
幼い声が聞こえる。
後部座席には、小さな子どもが。
俺はハンドルを切り損ね、車体が揺れた。
、、、 ドン。
そして、水の音。視界が歪み、暗闇に落ちた。
誠はその場に崩れ落ちた。
忘れていた。
いや、忘れさせられていた。
川の向こうで、自分は一度死んでいたのだ。
あの事故で、妻と娘を川に沈め、自分だけが岸に流れ着いた。
そして、この村に“還された”。
その夜、誠は一通の手紙を書いた。
受取人のない遺書のような手紙。
その中で、彼はこう綴った。
[俺は、生きていてはいけない人間だ。
向こうに、置いてきたものがある。
呼ばれているんだ。
あれは、俺を責めているわけじゃない。
迎えに来たんだ]
……そして、誠は橋を渡った。
月も風もない夜。
川の音だけが、確かにそこにある。
水面には、静かに立つ女の姿。
濡れた着物、伏せた目元。
だが、誠にはわかった。
それは、遥だった。
かつて、自分が愛し、家族を築いた女。
記憶の奥底に閉じ込められていた、、、
もう、二度と戻れないはずの人。
「……遥」
彼女は、ゆっくり顔を上げた。
「ようやく……思い出してくれたのね」
その声は水音のように優しく、どこまでも悲しく響いた。
「……ずっと、待ってたの。あなたが、ここに辿りつくのを」
誠の頬に、涙が伝う。
「ごめん……助けられなかった。守れなかった……
全部、俺のせいで……」
遥は首を振り、そっと近づく。
「違うの。あのとき、あなたは私たちを守ろうとした。命をかけて」
彼女の腕の中には、幼い女の子、、
紗英が眠っていた。
その小さな目がゆっくり開き、誠を見て微笑む。
「……パパ…帰ろう」
その一言に、誠の胸は張り裂けそうになった。
記憶の中の声と、寸分違わない。
泣きながら誠は両腕を広げた。
遥と紗英が、迷いなくそこに飛び込んでくる。
「……もういい。どこにも行かない。
ずっと、ここにいる。いっしょに……還ろう…」
水面が静かに広がり、家族三人を包み込む。
冷たいはずの水が、あたたかく感じられるのはなぜだろう。
それは、罰でも死でもなかった。
“還る”ということ――
魂の奥底にあった喪失が、ようやく埋まっていく感覚。
川の音は、もはや怖くなかった。
それは、迎えに来た者だけが聞くことのできる、再会の調べだった。
翌朝、誠の家は静かに空気を抜いたように、人の気配を失っていた。
井戸の水も枯れ、床板の隙間は塞がれていた。
老婆は、畑の端で空を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。
「……よかったねぇ……還れたねぇ…」と呟いた。
そして風が吹いた。
まるで誰かが、微笑んで手を振っているように。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
公式企画、夏のホラーを書いてみました。
テーマは死と再開。後味悪いのはあんまり好きじゃないので、終わり方は怖くなくしちゃいました。
ブックマークやコメントが欲しいところですが
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