呼ぶ声 濡れた廊下
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ぽちゃ……
ぽた…… ぽちゃん……
深夜の古民家に、確かな水音が響いていた。
だがそれは風呂場ではなく、玄関から廊下を這うように移動してくる。
川村誠は、布団の中で動けずにいた。耳に届くのは水の滴る音と、濡れた裸足の足音。
ぴちゃ……ぴちゃ……
それが確実に、自分の部屋に近づいてくるのを、呼吸すら止めて聞いていた。
ま、、こ、と
みつけた
女の声が、風のように部屋を吹き抜ける。
ふすまの向こう側に、誰かが立っている気配があった。
静かに、そこで待っている。
水の匂いが、畳に染み込んでいく。
「……出ていけ……」
掠れた声でそう呟いた瞬間、ぴたっと音が止まった。
しかしそれは、終わりではなかった。
次の瞬間、ふすまが濡れた手で押されたように、ぎしっとわずかに開いた。
その隙間から、水滴がぽちゃん…と床に垂れる。
その水音に重なるように、声が届く。
「……かえして……」
翌朝。誠はほとんど眠れずに朝を迎えた。
ふすまはほんの少し開いており、廊下には確かに水の跡が残っていた。
しかしその跡も、誠が目を逸らした隙に、乾いて消えていた。
気が狂いそうだった。
夢なのか現実なのか、自分の中で区別がつかなくなってきている。
仕事中も集中できず、ミスをして、上司に注意された。
周囲の目も、どこか冷たくなっている気がした。
視線を感じる。誰かが、じっと観察しているような、、。
仕事の帰り道、またあの老婆を探しに橋の方へ向かったが、その姿はなかった。
代わりに、橋の脇に立つ看板に変化があった。
昨日までは「生活道」とだけ書かれていた木札に、新たに墨で書き足されたような文字があった。
[ここより先 夜は通るな]
その字はどこか震えていて、急いで書かれたような筆跡だった。
帰宅後、誠はもう一度、家の中を調べることにした。
特に気になるのは、水音の正体。
家中の水回りを点検していくと、台所の床板に不自然な隙間を見つけた。
まるでそこだけ、後から修繕されたような、色の違う板。
釘の打ち方も雑だ。
ドライバーでこじ開けると、そこには古びた井戸のような穴が隠されていた。暗く深い穴。
懐中電灯を照らすと、底にはほんの少し、濁った水が溜まっていた。
その水面に、、、何かが浮かんでいた。
白い、指のようなものだった。
誠は息を呑んで焦り、懐中電灯を手から落とし、慌てて蓋を戻した。
その夜、誠は決意して、廊下に塩を盛り、窓にお札のような紙を貼った。
ネットで調べた簡易的な「結界」だったが、何もしないよりはましだ。
そしてふすまの前にも塩を置き、念のため玄関の鍵も二重に閉めた。
ふと、風呂場の鏡を見ると、自分の顔がやけに水に濡れたようにぼやけて見えた。
指で拭っても曇りは消えず、代わりに鏡の向こう側で、女の目が一瞬、誠を見返した。
「……っ!」
誠は鏡から目を逸らし、風呂を出た。
深夜。
静寂を破るように、水音が始まった。
ぽた……
ぽた……
廊下を歩く足音。
ぴちゃ……
ぴちゃ……
ふすまの前に、それが立ち止まる。
今夜も、来ている。
誠は目を閉じ、耳をふさぎ、ただ耐えた。
やがて、部屋の中に水がしみ込む音が聞こえてくる。
壁の中から、天井から、じわじわと水が染み出してくるような――。
すると。
部屋の隅から、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
「……どうして……わたしを……」
女の声だった。子どもかもしれない。
小さな嗚咽が、部屋中に反響する。
「……かえして……かえして……」
誠は恐る恐る、布団から顔を上げた。
、、そこに、濡れた着物姿の女が、しゃがみ込んで泣いていた。
髪は顔に張りつき、手は泥に汚れていた。
いや、水に濡れた地面のような泥だ。
女はゆっくりと顔を上げた。
その目が誠を見据えた瞬間、部屋全体が水に沈んだかのように、ごぼ、ごぼっ……と泡の音が響いた。
「つれていくね」
その声と同時に、誠の視界は暗転した。
目を覚ましたのは、翌朝。
自室の畳の上だった。
周囲は乾いていたが、指先にぬるりとした冷たさが残っていた。
玄関の扉には、泥の足跡があった。
中から外へと続いている。
だが、それよりも恐ろしいのは、ふすまの前に置いたはずの塩が、すべて水に溶けていたことだった。
その日の昼、誠は職場を早退し、村役場を訪れた。
目的は一つ。深渕村の過去の記録を見ること。
応対したのは年配の職員だったが、誠の顔を見るなり怪訝な表情になった。
「……あんた、川向こうに住んどる人か?」
「……え?」
「川の、あっちの家。あそこは……あんまり人、寄りつかんとこでね。前に住んどった人も、みんな……」
「みんな、何ですか?なんかあったんですか?」
職員は目を逸らし、ぼそりと答えた。
「消えたんよ。川に、溶けたように」