川底のオト
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職場では、特に変わったことはなかった。
周囲は相変わらず親切だ。
けれど、誰も深くは関わってこない。
それでも誠は、少しずつこの村の生活に慣れようとしていた。
朝は鳥の鳴き声で目覚め、夜は満点の星空を眺めながら湯に浸かる。
あの水音も、聞こえなくなった気がしていた。
いや、慣れてしまっただけかもしれない。
風呂に入ると、蛇口はきちんと閉めてあるのに、浴槽の水面が微かに揺れていることがある。
風もないのに、水面だけがざわざわと音を立てる。
最初は気のせいだと思ったが、ある夜、確かに聞いたのだ。
ぽちゃん……
何かが水に落ちる音。
誠は湯船を覗き込んだが、何もなかった。
ただその瞬間、背筋を撫でるような悪寒が走った。
ある日の昼休み、誠は思い切って同僚の一人に尋ねた。
「……この村の川って、変わった言い伝えとか、ないんですか?」
相手は一瞬、手を止めた。名前は中井。
三十代後半、無口な男だ。
「……なんで、そんなこと聞くんですか?」
「いやね、こないだちょっと川を渡ったときに、村の人に怒られちゃって……」
その言葉に、空気が変わった。
中井は少し眉をひそめ、低い声で言った。
「……夜に渡ったんですか?」
「……うん。そんな夜でもなかったんだけど…
地図に近道って書いてあって……」
中井はしばらく黙っていたが、ふと顔を伏せたまま言った。
「川は……“あっち”と“こっち”を分けるもんです」
「“あっち”? 死んだ人のこと?」
「……さあ。でも、向こうにいるもんは、帰ってきたがる。人の声、似せるんですよ。
夢に出てきたり、水の音で呼んだりして」
そう言って彼は立ち上がり、席を離れた。
話はそれきりだった。
その夜。誠はまた夢を見た。
今度は、自分の部屋に水が溜まっていく夢だ。
床下から水が染み出し、畳を越えて布団にまで達する。
寝ている自分の顔に、冷たい水が静かに触れた。
その瞬間、誰かの足音が廊下を歩いてきた。
濡れた裸足のぴちゃ、ぴちゃという音。
ぴちゃ…ぎしっ……
ぴちゃ…ぎしっ……
誰かが、部屋のふすまの前に立った。
息ができないほどの緊張の中、ふすまが音もなく、少しだけ開いた。
その隙間から、髪の濡れた女の顔が覗き込んでいる。
その目はまっすぐ誠を見つめて、口が動いた。
「かえして」
目を覚ましたとき、誠は布団の中で凍りついていた。
部屋は静かだ。
だが、確かに聞こえていた。
ぽちゃん…… ぽちゃん……
また、水音。
床を見ると、畳の一角が、濡れていた。
翌朝、外に出てみると、郵便受けに何か紙が挟まっていた。
誰かが手書きで書いたメモだ。
[川には近づくな 声がしても振り向くな]
差出人の名はない。筆跡は細く震えていた。
いたずらかとも思ったが、背筋が冷えた。
誰かが本気で警告している。
それも、声がすると書いてある。
「……声」
その言葉を思い出したとき、誠の脳裏に、夢の中で聞いた“かえして”という声が蘇った。
誠は思わず、部屋の床を見た。
畳の濡れた跡は消えていた。いや、乾いたのか?
それとも、最初から、、、。
それからというもの、声を耳にするようになった。
洗面所で歯を磨いていると、水の音に混じって、誰かが呼ぶ声がする。名前を、何度も。
「まこと……まこと……」
風呂場の壁の中から、風のような声が漏れる。
夜、布団にくるまって目を閉じると、枕元で誰かが息をしている気配がする。
耳を澄ますと、水の滴る音と、川の底を這うような音が、確かに聞こえるのだ。
数日後、誠は思い切って、再びあの老婆を訪ねることにした。
前に会った橋の近くを訪ね歩き、ようやく畑で草を刈っている姿を見つけた。
「……すみません、前に会った……」
老婆は誠を見るなり、顔をしかめた。
「もう……聞こえ始めたんじゃな」
誠は一瞬たじろいだ。
老婆は鍬を地面に立てかけ、誠に近づく。
「戻るうちに、戻らにゃならんのよ。あんたの声が、向こうに届いてしまったんじゃ」
「どういうことですか?」
「川は境い目じゃ。向こうは“死者の水”。
夜に渡ったら、呼ばれる。向こうのもんが、あんたに気づいた」
誠は喉を鳴らした。老婆は更に低い声で言う。
「水はね、“形のない棺桶”なんよ。
生きたまま、閉じ込められる前に、なんとかせにゃ」
「どうすればいいんです……?」
老婆は黙って空を見上げた。
「今夜、満月じゃ。いちばん“向こう”に引っ張られやすい夜。水辺に、近づいたらいけん。
どんな声がしても、見ても、絶対に応えたらならん」
その夜、月は異様に大きく、赤かった。
窓の外に、風もないのに水音が鳴っている。
ぽちゃん……
ぽちゃん……
誠は、布団の中で耳をふさぎ、目を閉じていた。
でも、聞こえたのだ。
「まこと……みつけた」
そして、玄関の方から、、
水のしぶきが、ぽちゃ…ぽちゃん……と廊下を這う音が近づいてきた。