転勤先の村
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公式企画、夏のホラーを書いてみました。
川村誠は、カーナビの「目的地に到着しました」という機械音に一息ついて、エンジンを切った。
目の前に広がるのは、鬱蒼とした山林と、ぽつんぽつんと建つ古びた家々。
舗装の怪しい細道を抜けた先に、木の看板が立っている。
[深渕村]
会社の地方支社へ転勤が決まったのは一ヶ月ほど前。特に反対する者もいない。
数年前に離婚し、独身。荷物も少なく、即決だった。
ただ、実際にこの村に着いてみると、思った以上に「“深い”」
地図上では小さな集落。
だが、実際には谷底に沈むような場所にあり、周囲を山に囲まれていて、空が狭い。
どこか湿気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。
紹介された家は村の端にある古民家だった。
築八十年だが、村の人が手入れしてくれていたらしく、意外にも綺麗だ。畳は新しい。風呂も使える。
ただ、一つだけ気になることがあった。
ぽた……ぽた……
風呂場の蛇口が、止めてもいないのに水を落とすのだ。
閉め直しても音は止まらず、どこか壁の中から水が滴っているように聞こえる。
天井から? 配管か?
初日はそれを気にしながらも、疲れてそのまま眠った。
夜、遠くから川の音が響いていた。
翌日から仕事が始まった。
工場といっても十数人の小さな部署だ。
皆、丁寧で親切だが、どこか表面的な感じがした。
話しかけると、笑顔のまま言葉を濁す。
その日の帰り道、地図を見て「近道」と書かれていた川沿いの道を選んだ。
暮れかけた空の下、谷あいを進む山道は細く、やがて川に出た。
そこに一本の丸木橋があった。
手すりもない、ただの丸太を並べたような橋だ。
脇に立つ木札には、かろうじて「生活道」と記されている。
「渡れるってことか……」
ためらいながらも、誠は足を踏み出した。
ぎしっと木が鳴る。谷間を吹き抜ける風が、頬を撫でた。
橋の中ほどで、ふと視界の端に何かが映った。
水面に、人の顔が浮いている。
女の顔。
目を閉じ、口を開けて、何かを訴えるような表情。
その顔は水に揺れながら、静かに沈んでいった。
「っ……!」
足がすくみかけたが、無理に視線を逸らし、橋を早足で渡った。
振り返っても、もう水には何もなかった。
ただ、風が止み、水音だけが残っていた。
橋を渡りきったとき、背後から声がした。
「……そこ、、渡ったのかい?」
驚いて振り返ると、橋のたもとに老婆が立っていた。背中に竹籠を背負い、腰は曲がっているが目は鋭い。
「あ、はい。すみません、通っちゃいけなかったですか?」
誠が尋ねると、老婆はしばらく黙って見つめたまま、低く言った。
「……夜に橋を渡ってはいけんのよ…」
「え……あ、でも、まだ日が暮れる前ですよ……」
「あんたには、もう日が暮れちょる…」
老婆は柴を背負い直し、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてくる。誠は道をあけた。
「昼間ならええんじゃ、、でも、日が沈む前に、向こう側に戻っとかにゃならん…」
「向こう側……?」
「水はね、境を映すんよ。夜は境が曖昧になる…」
誠は意味がわからず黙った。
老婆は最後にこう言い残した。
「気をつけなされ、水は、、戻してはくれんぞ…」
それだけ言って、老婆は山道へと消えていった。
その夜。眠りにつこうとしたとき、また風呂場のほうから
ぽた……ぽた……
と水の音が聞こえた。
「またか……」
誠は懐中電灯を手に、寝間着のまま廊下に出る。
だが、音は風呂場からではなかった。
もっと、近い。
……天井から?
見上げても、何もない。
ただ、水の気配だけが部屋に満ちている。
布団に戻っても、“ぽた…ぽた…” は耳から離れなかった。
やがて、夢を見た。
自分が、川の中に立っている夢だった。
冷たい水が胸元まで迫ってくる。
足元に、何かがいる。
誰かが、足首を掴んでいる。
顔を上げたとき、水の向こうに女が立っていた。
髪は濡れ、顔は白く歪んでいる。
「かえして」
そう聞こえた瞬間、息が詰まり、誠は飛び起きた。
汗をかいていた。
夢の内容はうろ覚えだが、ひどく胸が苦しかった。
ふと布団をめくると、足首の部分が濡れていた。
水に浸けたように、、びっしょりと、、
翌朝、出勤途中、昨日の老婆とまた出会った。
道端で草を刈っていた老婆が、誠に目を向ける。
「……夢、見たじゃろ」
その一言に、誠は言葉を失った。
老婆は立ち上がり、じっと見つめる。
「最初はみんな、夢を見るんよ。川の向こうのもんに、呼ばれるんじゃ」
「呼ばれる……?」
老婆はもう何も言わなかった。ただ一歩近づき、耳元で囁くように言った。
「気をつけなされ、水は――戻してはくれんぞ」
続