第十話「荷物持ちとリーダーが出会ったほんの少し昔の話を暫し語り続けている件」
待望の狩り人が派遣されてきたと言う事で、村人達は安堵の笑みを浮かべて殆ど全員でリョウジロウ達一行を出迎えた。
剣士のリョウジロウ、魔術師のロクタロウ、棒術使いのナミカ、斥候担当のカヨ、そして剣士見習のミツタカがやってきたパーティの構成員だった。
これで森鹿も何とかなると安心して喜んでいる村の大人達に混じって、フクタロウや他の子供達も狩り人とやらの一行を物珍し気に眺めていた。
リョウジロウ達は村長の家に滞在する事になり、荷解きを終えるとすぐに森鹿の行動範囲や村の被害の様子を調べ始めた。
リョウジロウ達大人の狩り人の後に付いて働く成人直前の年頃のミツタカの姿は、いずれは家を出て独立して働かなければならない村の少年達の関心を幾らか惹いていた。
十四歳のミツタカは既に頭を坊主に丸め、角ばった顔立ちになり掛けており青年に見えなくもなかった。しかしまだ背は低めで筋肉も生育途上のせいもあり、辛うじて幼い雰囲気も残っていた。
他の子供達と違ってフクタロウは単純に自分に近い年頃の、年上の少年が絵草子の中の英雄の様に活躍する姿を空想して心をときめかせていただけだったが。
だが、村人達と話をする時にリョウジロウ達はすぐに打ち解けてにこにこと愛想良く笑い、時には冗談を言い合って大笑いする事もあったのに、その後ろに付き従うミツタカはいつもむすっと口を引き結んで押し黙っているのをフクタロウは不思議そうに思いながら見ていた。
リョウジロウ達が村に来た次の日。彼等のパーティは山の入り口に出現した一頭の森鹿を早速仕留めて帰ってきた。
まだ四頭残ってはいたが、駆除の手始めだと村人達は大喜びした。
自宅や村長宅に閉じ籠らされる生活がもう少ししたら終わるのだろうという希望に、フクタロウや他の子供達も大人達と共に喜んだ。
それからまた次の日。
その日はフクタロウは家族で自分達の家の畑仕事に出掛けていた。
まだ一頭が駆除されただけで、森鹿の脅威はあったもののいつまでも田畑を放置する訳にはいかず、最低限必要な農作業を済ませて早目に家に引き上げると言う事になった。
二つ三つの家を一つのグループにしてナミカやカヨ、ミツタカが村の各グループの護衛を分担して受け持つ事になった。
森鹿の襲撃に備えてカヨ達が護衛として付き添い、その間に村人達は慌ただしく農作業を済ませる事となった。
フクタロウの家や隣近所の家の護衛付き添いにはミツタカが割り当てられた。
畑に向かう途中、フクタロウの年下の兄弟達や隣近所の子供達は物珍しさや、幾らかは歳が近いという気安さでミツタカへと口々に笑い掛け話し掛けていた。
「ねえねえ、いつから狩り人になったの?」
「修行って厳しいの?」
「あの棒持ったお姉さんとどっちが強い?」
子供達からの質問責めにミツタカはやはりむすっとした無愛想な表情のまま、言葉少なに答えるだけだった。
「……まだ登録して半年だ……。」
無愛想なミツタカの様子に子供達は勢いを削がれ、畑に着く頃には問い掛ける事をやめていた。
フクタロウはそんな様子を見ながら、ミツタカも人見知りで無口な性格なのだろうかと勝手に親近感を抱いていた。
大人達はいつ森鹿が来ても子供達と逃げられる様にと注意しながら、手早く農作業を済ませていった。
夕方が近くなり、他のグループの帰宅を見届け終えたカヨがミツタカ達の様子を見にやってきた。
まだ少し作業が残ってはいたものの、子供達には出来る作業はもう無く、疲れて眠り込んでいる幼い子も居たので母親達と子供達だけミツタカに付き添われて先に帰宅する事になった。
「いやー、美人に護衛されるのはいい気分だなー。」
「もう、あんたったら!」
畑の残りの作業をする男手を護衛する事にしたカヨを見ながら、フクタロウの父が軽口を叩き、母もまた笑いながら窘めた。
そうしてフクタロウ達は先に帰路についたが、家のすぐ近くまで戻ってきたところで、フクタロウは畑に忘れ物をした事を思い出した。
「あ! タケサブロウの太鼓、忘れてきた……。」
「あらほんとだ。うっかりしてたわ……。」
フクタロウの言葉に、眠り込んだタケサブロウを背負っていた母親も慌てて懐をまさぐった。
一番下の弟は四歳ではあったがでんでん太鼓のおもちゃを赤子の頃からとても気に入っており、未だにいつも持っていた。
目を覚まして太鼓が無い事に気付いて不機嫌になるのも可哀想ではあったし、弟達の面倒を見ている長男からするとぐずられるのは煩わしくもあったので、フクタロウは急いで畑へと引き返す事にした。
「フクタロウ! 明日でいいわよ! やめなさい!」
母親が慌てて呼び止めるが、今来た道には危険そうな様子は無かったしまだ辺りは明るかったのでそのまま引き返せば大丈夫だろうと、フクタロウはそのまま畑へと走っていった。
「おい! 危ねぇぞ!!」
苛立たし気にミツタカは声を上げたが、既にフクタロウの姿は遠くなっていた。
家が目の前に近くなっているとはいえ最後まで油断してはならないというカヨ達の教えを守りすぐには追い掛けずに、ミツタカはフクタロウの母親達を家の敷地の前まで責任を持って送り届けると、フクタロウを追い掛けて急いで駆け出した。
「うちの子が本当にすみません……。」
母親が深々と頭を下げる声と気配を後ろに感じながら、フクタロウに危険が無い様にとミツタカは駆ける足を速めた。
まだ陽も高く辺りも明るく、途中の道も先程自分達が通った時と何も変わった様子は無かった。
このまま何事も無く畑に戻れるだろう――そう思いながら家と畑の中間程の場所にフクタロウは差し掛かった。
だがそこに、道沿いの小藪の中から小さな木の枝の様な角を振り立てた影が現れた。
「……!!」
フクタロウはそれに気付いて慌てて立ち止まった。
草を食みながら森鹿の子供が道の真ん中へとのっそりと進み出た。
森鹿の仔という言葉の響きに全く似つかわしくない、そのぎらぎらと光る目はフクタロウを獲物として捉えていた。
フクタロウの肉を食う訳ではなかったが、目の前に居る生き物へと牙を剥き攻撃する――魔獣の荒ぶる気性は、森での縄張り争いに負けて外に追われたせいで余計に際立っていた。
仔鹿一頭だけとは言え、丸腰の子供を殺すには充分な凶暴さと残忍さを持っていた。
「あ……。」
森鹿の目に射竦められ、フクタロウは微かに声を漏らす事しか出来なかった。
親戚の果樹園の手伝いに両親と出掛けた時に、普通の野生動物の方の鹿は遠目に見た事があった。
普通の鹿と似ている筈なのに、その目のぎらつきや牙を剥き涎を垂らす口元、枝分かれした全ての先端が鋭く尖った角――こうして目の前で対峙していると、おおよその姿以外はまるで違う生き物なのだと思い知らされた。
フクタロウは恐ろしさに身動き一つ出来なくなってしまった。
逃げなければ――と、焦るばかりで頭も体も何一つ働いてはくれなかった。
そうする内にも森鹿は近寄って来て、二、三歩程足踏みの様に足を動かすとすぐに角を振り立ててフクタロウへと走って来た。
「伏せろ!」
追い着いたミツタカの声がフクタロウの背後から響いた。
何とかその場にしゃがみ込むだけの力は残っており、フクタロウが指示に従うとすぐにミツタカは森鹿の顔面に向けて石を投げ付けた。
「!!」
突然の顔面への攻撃に森鹿は一瞬怯んで立ち止まった。
しかしすぐに攻撃してきたミツタカを認識すると、走ってくるミツタカへと照準を変え角を振り立てて迎え撃ってきた。
しゃがみ込んで震えているフクタロウの横を刀を抜きながら駆け抜け、ミツタカは一先ず刀の峰で森鹿の角を弾き、素早くいなした。
フクタロウから遠ざかる様にと森鹿の注意を惹き付け、ミツタカは何度も森鹿の横や背後に回り込み、脇腹や尻へと刀を振るった。
息を切らしながらもミツタカが何度かそれを繰り返す内に森鹿の受けた傷は増え、出血量も増えていった。
ミツタカの刀では森鹿の丈夫な角とやり合うのは難しかった為、ミツタカの戦い方は泥臭く地味なものだった。
しかし自分を助ける為に刀を振るい、森鹿を遠くへと誘導しているミツタカの姿はフクタロウにとっては頼もしく強く見えていた。
――けれども、自分の軽はずみな行為でこんな事になってしまい、自分のせいでミツタカが死んでしまったらどうしようかと、先程の森鹿への恐怖とは違った恐怖感と申し訳無さでフクタロウはますます動けなくなってしまっていた。
「――クソがぁっ!」
角の先がミツタカの着物の左を掠め、左腕を浅く切り裂いた。
薄く流れる血を気にせず一瞬だけミツタカは背後に下がり、呼吸を軽く整え直すと、右足を大きく踏ん張ってから辺りの土を蹴り上げた。
「!!」
田舎の村の小道が舗装されている訳も無く、蹴り上げられた土埃や多くの小石の粒が森鹿の顔面へと降り掛かった。
既に二、三刀傷の付いていた顔を顰めながら大きく振り回し、森鹿は悲鳴とも唸り声とも付かない鳴き声を上げた。
ここにきて攻撃よりも逃げようという意識がやっと強く働き、森鹿はミツタカへと背を向けて山の方へと走り始めた。
だが既に体のあちこちの刀傷から血を流し過ぎており、その走りに思う様な力強さは発揮されなかった。
ミツタカはすぐに森鹿へと追い着き、背後から刀を振り下ろした。
切断こそ難しかったものの森鹿の後ろ脚は大きく裂け、森鹿は体勢を崩して倒れてしまった。
すかさずミツタカは脇腹の心臓と思しき位置へと刀を突き立てた。
野生動物と何の違いも無い赤い血を刀傷から噴き上げ、暫くの後に森鹿は息絶えた。
森鹿の返り血を少し着物と皮鎧に浴びてしまい、ミツタカは森鹿の死体から離れると袂から手拭いを出して軽く拭い取った。
「……あ……。っ……。」
地面にしゃがみ込んでいたフクタロウは、ミツタカが森鹿を斃し終えたのを見て力が抜けそのままへたり込んでしまった。
「……おい……! 馬鹿かお前っ!! 魔獣舐めてんのかっ!! 死ぬとこだったぞ!!」
既に十四歳という歳よりも大人に見られ始めた角ばった顔で、ミツタカがフクタロウへと近付きながら怒鳴り声を上げた。
「っっ!!」
それはフクタロウが死ぬところだったんだぞ、と、いう意味で放たれた言葉だったのだが。
眉間に深い皺を寄せて怒鳴られると、フクタロウのせいで俺が死ぬところだったと責めているかの様にもフクタロウには聞こえてしまっていた。
「……っっ……ご、ごめ……なさ……。」
フクタロウはぶるぶると震えながら、近寄ってくるミツタカを見上げ泣き出してしまった。
目の前までやってきたミツタカに見下ろされ睨み付けられると、震えながら出るのは涙ばかりで、謝りたくても言葉が出て来なくなってしまっていた。
自分一人でも大丈夫だろうという油断がこんな事になってしまい、ミツタカに迷惑を掛けてしまった――まだ抜けていない森鹿への恐怖感や、怒っているミツタカへの恐ろしさと申し訳無さ。そうしたものが混ざり合って込み上げてきてフクタロウは泣きながら震え続けていた。
「……っ……ご、ごめ……。」
謝罪の言葉を何とか絞り出そうとするがうまく声が出ず、フクタロウはそのままミツタカへの足元へと這いつくばる様に土下座をした。
せめて何とか謝罪の気持ちを表わそうとした咄嗟の行動だった。
「おっ、おい! 何もそこまでは……。」
子供が震えて泣きながら土下座をするという姿にミツタカの方も流石に驚き、慌てて膝を突いてフクタロウの顔を上げさせた。
「もういいから。判ったから泣き止め。」
ミツタカの方もどうしたものかと困惑に眉を顰め、着物の袖の血の付いていない箇所でフクタロウの涙を拭ってやった。
フクタロウの涙も多少は止まり始めたが、落ち着くまでにはまだ少し時間が掛かりそうだった。
「……立てるか?」
そのまま暫くの間様子を見ていたミツタカは、フクタロウが何とか泣き止んだところで声を掛けた。
フクタロウはミツタカの問い掛けに、びくっと大きく体を震わせてしまったが小さく一回頷いた。
ふらふらとフクタロウが立ち上がるのを軽く支え、そのまま肩を抱く様に寄り添ってミツタカはフクタロウと家に向けて歩き始めた。
ミツタカに支えられる様にしてフクタロウは俯きながら歩いていた。
森鹿が恐ろしかったし、ミツタカに恐い声で怒られたのも恐かったし、けれども申し訳無かったし――フクタロウの頭と心の中はまだぐちゃぐちゃで混乱していた。
――でも、何だか手があったかい。
フクタロウの肩に回されたミツタカの手は、森鹿との戦いの直後で火照っていたせいもあるのか随分と熱を持っていた。
その温もりがフクタロウを落ち着かせ始めていた。
「……っ……。」
落ち着き始めたのに、何故かミツタカの手の温かさにまた涙が滲んできてフクタロウは慌てて目をぎゅっと閉じた。
「お、おい、泣くなよ……。」
フクタロウのその様子に気付き、ミツタカは慌てて立ち止まった。
また先程の様に着物の袂の余り汚れていない所をフクタロウの顔に押し付け、ごしごしと乱暴にフクタロウの涙を拭った。
着物に染み付いていた森鹿の返り血によるものなのだろうか――さっきは気付かなかった生臭い湿った錆の様な匂いがフクタロウの鼻に届いた。
そして、ミツタカの汗の匂いも。
三つ程しか歳が違わない筈なのに、既にほんの微かに大人の雄の独特の臭みの様なものが汗の中にあった。
フクタロウを助ける為に戦ったミツタカの汗の匂いに、フクタロウはほっと安心する様な――しかし同時に股の芯の奥からきゅぅっと熱くなって震えてくる様な――やはりフクタロウの頭も心もまだぐちゃぐちゃで混乱してしまっていた。
フクタロウが落ち着くまでミツタカはゆっくりと歩き、時間が掛かりながら二人はフクタロウの家へと戻ってきた。
「フクタロウ……! あんた、何て事……! ほんと、狩り人さんに迷惑を掛けて……!」
フクタロウの無事の帰宅を喜びつつも、心配し気を揉んでいた母親はミツタカへと深々と頭を下げて礼を言い、それからフクタロウをこっぴどく叱り付けた。
森鹿に襲われた事はミツタカはその時は言わなかったが、夕方に村長の息子がフクタロウの様子を見舞がてら訪れた時に聞かされた両親は更に追加でフクタロウを叱り付けた。
その翌日。
今日は畑仕事は父親達だけで午前中で済ませるという事で、またミツタカが護衛に付いて父親達は朝から畑へと出掛ける事になっていた。
ミツタカが昨日仔鹿を仕留めた事で残り三頭にはなったが、引き続き油断しない様にとリョウジロウからミツタカ達パーティの者達へと指示があった。
父親を見送りに家の前まで母親と出て来たフクタロウは、父親を迎えに来たミツタカへと怖々と挨拶をした。
「お……おはよう……ございます……。」
「ああ……。」
相変わらずのむすっとした表情で返され、ミツタカがフクタロウに対してまだ怒っているのかどうかは判らなかった。
それ以上は特には遣り取りも無く、ミツタカはフクタロウの父親や近所の男衆に付き添って畑へと出発していった。
フクタロウが弟や妹の世話をしたり母親の手伝いをしている内にあっという間に昼が近付き、父親達が帰宅する時刻になると、フクタロウは昼食の支度をしている母親の所にやってきた。
「母ちゃん、干し柿持ってってもいい?」
フクタロウは戸棚を指差して母親へと尋ねた。
「いいけど……?」
急にどうしたのだろうかと母親が首をかしげると、フクタロウはぽつぽつと呟く様に答えた。
怒鳴られたし、今朝もむすっとした顔ではあったが、改めてきちんと感謝や謝罪の気持ちを伝えたいとフクタロウなりに考えた事だった。
「……狩り人さんに、昨日のお礼……。助けてもらったし……。」
「ああ! そうね。」
フクタロウの言葉に母親は納得して頷いた。
余り裕福ではないミナミヤスハラ村では砂糖や蜂蜜等は贅沢品で、手軽に入手出来る甘い物は干し柿が定番だった。後は売り物にならない虫食いや生育不良の大蜜柑も収穫期には村人達のおやつになっていたが、今は手に入る時期ではなかった。
小さな竹籠に十個程の大振りの干し柿を入れて母親から持たされたところで、家の表の方から父親の帰ってきたという声が聞こえてきた。
竹籠を手にフクタロウが母親と共に出迎えると、父親がミツタカとカヨに礼を言っているところだった。
今日もカヨの方が早めに担当の見送りを終えてミツタカと合流した様だった。
「あんた、お帰りなさい。」
「おう。」
両親が言葉を交わしている横で、フクタロウはミツタカに軽く頭を下げ、そっと干し柿の入った竹籠を差し出した。
ミツタカがいつものむすっとした顔のまま首をかしげると、フクタロウは俯きがちになりながらも口を開いた。
「あ、あの……。昨日は、ありがとう……ございました……。お礼、です……。」
「あ、ああ……! いや、別に気を使わなくても……。」
フクタロウの言葉にミツタカは軽く手を上げ、竹籠を押し留めた。
「こらこら。人の厚意はちゃんと受けなさいな。場合によっては断り過ぎるのも失礼なのよ。教えたでしょ。」
カヨがミツタカの背を軽く叩いて受け取る様にと促した。
カヨに言われてミツタカはむすっとしたままフクタロウから竹籠を受け取った。
「あー……ありがとう。」
ぼそりとミツタカは礼を言い、軽く頭を下げた。
「すみません。皆で頂きますね。」
ミツタカの後ろでカヨもフクタロウと両親へ礼を言い微笑んだ。
「いえ……。うちの子が本当にお世話になりました。」
両親は深く頭を下げて改めてカヨとミツタカへと礼を言った。
フクタロウは去っていくカヨとミツタカの後ろ姿を暫くの間見送っていた。
昨日送ってもらった時の手の温かさや、汗の匂いを何度も思い返していた。
怒鳴られたのは恐かったけれども――どうしてか、ミツタカの事が気になって仕方が無かった。
フクタロウは遠ざかっていくミツタカの背をずっと見つめていた。
◆
次の日。
父親達は今日は畑仕事ではなく村の共同水路の補修作業で出掛けていた。付き添う護衛も今朝はナミカの担当になっていた。
母親が客間――と言っても小さな農家の事で、四畳半程の小さな神棚と仏壇を据えた部屋だったが――でフクタロウと箒を掛けたりして掃除をしていたところ、隅に小さな塊が転がっていた事に気が付いた。
手に取ってみると煙草入れに付ける根付で、小さな丸い太鼓を象ったものだった。
「あらやだ。きっとキクタロウさんのだわ……。」
キクタロウ――一昨日の夕方に森鹿に襲われたフクタロウの様子を見にやってきた村長の長男が、確かこの様な根付を煙草入れに付けていた筈だった。
来た時に何かの拍子に外れてしまったのだろう。
返しに行かなければと思いつつも、まだ残り三頭の森鹿への警戒は続けられており、昼間であっても出歩くのは自粛する様にと村長から村人達へと言われていた。
「母ちゃーん。狩り人さん来た。」
どうしたものかと母親が根付を手に思案していると、フクタロウの一つ年下の妹のフクエが表を指差しながら入って来た。
「狩り人さん?」
母親が問うと、フクエは頷き、
「うん。何か見回りって。」
取り敢えず箒や雑巾を置いて母親は客間を出て行き、フクタロウとフクエも後に続いた。
土間にはミツタカが来ていた。
「えーと、見回りです。何か変わりは無いかって……。」
相変わらず無愛想ではあったがミツタカは母親へと軽く頭を下げて用件を告げた。
残りの森鹿を探して村の周囲や山の中を歩き回るのは主にリョウジロウとロクタロウが行ない、ナミカは状況に応じてリョウジロウ達を手伝ったり村人達の畑仕事の護衛を受けたりしており、ミツタカは教官役であるカヨと共に村人達の護衛に関する仕事をすると言う事で今回の村での仕事の役回りが出来上がっていた。
斥候役のカヨが本来はリョウジロウ達を手伝うべきではあったが、今回の仕事はミツタカへの村人達との関わり方を教育する事を優先しても構わないだろうというリョウジロウの判断だった。
今日は村の多くの男手が水路に集まっていたので、その間手の空いたミツタカは家々を見回る様にと指示を受けたのだった。
「ありがとう。うちは何も変わりは無いわ。――あ、けど……。」
ミツタカにそう言い掛け、母親は持っていた根付へと目を落とした。
なるべく早く根付をキクタロウへと返したかったが、気安く外を歩く事の出来ない今は自分で返しに行く事も憚られた。
ミツタカへ預けてもいいものだろうかと悩んでいる母親の横顔に気付き、フクタロウは思い切って口を開いた。
「それ、返しに行ってくる……!」
「え!?」
突然のフクタロウの言葉に母親は驚いて横に居たフクタロウへと目を向けた。
「あの、えーと、それで……一緒に行ってもらえると……。」
フクタロウはミツタカへと頭を下げた。
自分でもよく判らない思い付きだったが、フクタロウはもう少しミツタカの事を知りたい、見ていたいという気持ちになっていた。
あの時の怒鳴られて恐かったけれども――、恐いだけではないよく判らない温かい様な、何かが疼く様な気持ちがフクタロウを動かしていた。
「えーと……?」
首をかしげ戸惑っているミツタカへと母親が忘れ物の根付の事を説明した。
「まあ……いいけど。あ、いや、判りました。」
ミツタカが慌てて言い直し、フクタロウの付き添いを引き受ける事にした。
後二軒見回りがあるのでそれから村長宅に戻る事をミツタカは母親へと告げ、根付を持たされたフクタロウを伴って出発した。
ミツタカから少しだけ離れてフクタロウは歩いていたが、ミツタカは周囲に危険が無いか最低限の気配りをするだけで黙ったまま歩き続けた。
森鹿から助けた後で怒鳴り付けたのでフクタロウに恐がられているだろうという自覚はミツタカにもあったので、フクタロウに敢えて話し掛ける事はしなかった。
残りの二軒の家も特には変わりは無く、そのままミツタカはフクタロウを村長の家へと連れて行った。
「お帰り。……あら?」
村長宅の玄関先には、担当の見回りを終えて今帰ってきたばかりのカヨの姿があった。
フクタロウはミツタカの後ろでカヨへと黙ったまま頭を下げた。
「何か、村長さんトコの忘れ物だってよ。」
ミツタカがカヨへと告げ、フクタロウはキクタロウの根付を届けに来た事をカヨに説明した。
カヨが先に村長の家へと入ってキクタロウを呼んでくると、キクタロウはほっとした様に笑いながら姿を現した。
「そうか、フクタロウの所に落ちてたか。すまんすまん。――そうだ、少し待ってなさい。」
礼を言ってキクタロウはフクタロウから根付を受け取り、フクタロウの頭を撫でた。
それから一旦奥へと引っ込むと小さな紙袋を手にして戻ってきた。
「わざわざ持って来てくれたお礼だ。妹等と食べなさい。」
森鹿が来る前に行商人から買っていたという飴玉が中に入っていた。
「あ、ありがとうございます……!」
滅多に食べられない砂糖で出来た食べ物にフクタロウは嬉しそうに礼を言った。
「じゃあ帰るか。」
キクタロウが家の中へと戻っていき、フクタロウの用事も済んだ事を見届けたミツタカはフクタロウへと声を掛けた。
フクタロウが頷こうとしたところに、カヨが歩み寄ってきた。
「あ、待って待って。お昼も近いし、折角だからあなたも食べていかない?」
「え……?」
カヨの突然の言葉にフクタロウは戸惑いながらカヨの顔を見上げた。
「おい……。」
ミツタカの方はカヨの言葉に不服そうな表情になり眉を顰めていた。
カヨはミツタカの様子に軽く溜息をつき、苦笑を浮かべた。
「こういう依頼では村の人達や子供達とも遣り取りする技術や能力も幾らかは必要だって教えたでしょ? あなた、ずっとしかめっ面で子供達が怖がってたじゃないの。」
「っ……。」
カヨに言われミツタカは言い返せず黙り込んでしまった。
「はい! という訳で、ちょっと待ってなさいね。お弁当貰ってくるから。」
強引にカヨに決められフクタロウとミツタカは共に昼食を取る事になってしまった。
村長の家の中に入っていったカヨはすぐに二つの弁当箱と二個の大蜜柑を手にして戻ってきた。
「はい。いい天気だし、そこの祠の所ででも食べなさいな。」
「え……でも……。」
カヨから押し付けられた弁当箱と大蜜柑を手に、フクタロウは戸惑ったままカヨとミツタカを交互に見た。
この弁当はカヨか誰かの分なのではないか――そんな心配をしているとカヨはにっこりと笑った。
「ああ、大丈夫よ。リョウジロウは一食位食べなくても鍛えてるから。」
本気とも冗談ともつかない事を言って笑い、カヨは弁当と大蜜柑を持った二人の背を叩いて送り出した。
「さ、ミツタカは村の子供と話す練習よ。もう少し優しそうに笑うのよ。」
カヨにそう言われたもののミツタカは余計に不満気に顔を顰めてしまっていた。
カヨはその様子にまた苦笑し軽く肩を竦めた。
それから少しだけ真面目な表情でミツタカを見つめ、
「狩り人は腕っぷしだけで生きていくから荒々しい一匹狼でも構わないっていうのも、否定はしないわよ。自由で自己責任というのもね。――でもね、一つ一つは些細な事であっても、人と遣り取りして縁を繋いでいく事も決して無駄な事ではないのよ……。」
知識も無く追い詰められ仕方無くという様な形ではなく、色々な事を学び経験した上で己の道を選べる様にしてやりたい――ムロハラの狩部の狩り人達を育成する上での方針や信念をカヨ達教官役の者達はしっかりと仕込まれていた。
「……行くぞ。」
今のミツタカにもフクタロウにもカヨや、狩部の者達の思いを理解し切る事は出来なかった。
ミツタカは不満そうにしながらもフクタロウへと声を掛け、村長の家の隣にある小さな祠を祀った場所へと歩き始めた。
「二人共、しっかり食べて大きくなるのよ。」
カヨの声を聞きながら二人は弁当箱を抱えて敷地を出ていった。
何かの神か精霊を祀っているらしい小さな祠の周囲には椿や桜の木が植えられており大きな茂みを作っていた。
どちらの花も時季外れだった為、青々とした緑色の葉が涼しい木陰を作り出していた。
草刈りをされたばかりの地面の適当な場所にミツタカは腰を下ろし、フクタロウもその近くへと座った。
弁当箱の蓋を開け、箸を伸ばしながらミツタカはぼそぼそとフクタロウへと話し掛けた。
「――えーと。何か、好き嫌いとかあるか?」
ミツタカからの問い掛けにフクタロウは驚いて顔を上げた。
カヨから村の子供と遣り取りする様にと言われた事を、ミツタカは律儀に守ろうとしていた様だった。
「あ、ええと……。無い、です……。」
自分の弁当へと目を落としながらフクタロウもまたぼそぼそと呟く様に答えた。
天気の事とか、この村ではどんな作物を作っているとか、ムロハラの町はどんな所か、そんな当たり障りの無い話をぽつりぽつりと交わすだけだったが、それでも話をしている内にミツタカが怖そうなのは見た目だけで、決して粗暴だったり荒々しいという訳ではない様だとフクタロウは判り掛けてきた。
会話とも言えない様な会話を交わしている内に二人共弁当を食べ終わり、一人一個カヨから持たされた大蜜柑に手を付ける事にした。
大人の握り拳二つ分位の大きさで分厚い皮を持つ大蜜柑は長期保存も出来、冬の終わりから春先にかけて収穫された物は二、三ヶ月経っても腐らず瑞々しさを保っていた。
「う……。」
分厚く少し弾力もある皮は上手く剥く事が出来ず、ミツタカは外皮を剥がす事にも手こずっていた。
二、三ヶ月経っていても皮を傷付けられると、甘く爽やかな柑橘類の香りが大蜜柑から強く立ち上っていた。
「くそ……。」
手に付いた大蜜柑の皮の黄色い精油成分の汁を着物の裾で乱暴に拭い、ミツタカは溜息をついた。
「……あんまり食べた事が無いとか……?」
ミツタカの手付きが下手なのに気付き、フクタロウは恐る恐る問い掛けた。
ミツタカは面白くもなさそうに軽く頷いた。
「ニシゾノ村じゃあ作ってなかったしなあ……。たまに行商人が売りに来る位だったし。」
ミツタカの出身のニシゾノ村では柑橘類の栽培はされておらず、時々来る行商人が売りに来る程度だった。家の者がたまに買った大蜜柑をミツタカも食べた事はあったが、既にきちんと皮が剥かれた状態で皿に出されたものを食べるだけだった。
「こ……こつがあるんだ……。こうやって引っくり返して、おへそのトコ、親指でぐぐって押し込んで……。」
フクタロウはそう言って自分の大蜜柑を引っくり返し、底の部分に親指を押し込んだ。
痩せて力の無さそうな子供のフクタロウでもあっさりと親指は大蜜柑の中に埋まり、そこから皮をちぎる様に手を動かしていくと大して苦労せずに皮を剥いていく事が出来た。
「こ、こうか……。」
フクタロウの真似をしてミツタカも大蜜柑を引っくり返してへその部分に親指を立てた。
綺麗に剥き終わる事が出来、ミツタカも機嫌の良さそうな笑みを微かに浮かべた。
大蜜柑を食べながら、フクタロウは初めて見たミツタカの柔らかい表情を驚きながらもじっと見つめてしまっていた。
「ん?」
フクタロウの視線に気付きミツタカが大蜜柑を口に放り込みながら顔を向けると、フクタロウは慌てて頭を横に振った。
「ご、ごめんなさい……。」
「俺だって何でもかんでも怒鳴りまくる訳じゃねぇぞ。――男らしい強い男はへらへら笑うもんじゃねぇらしいんだ。」
謝るフクタロウに対してミツタカはまた眉を寄せて口を引き結んだ。
「そ、そうなんだ……。」
ミツタカより強いであろうリョウジロウ達の村人達への愛想良さそうな様子を思い出しながら、フクタロウはミツタカの無愛想なしかめっ面を見た。
「……町の本屋で狩り人の絵草子があってな……。その主役がいつも恐い顔してて、でも強くて男らしくて……。」
フクタロウの不思議そうに自分を見る表情に、ミツタカはそんな事を口にしていた。
ムロハラの町の本屋でたまたま見掛けて買った絵草子は狩り人の冒険を題材にしたもので、主役の狩り人の青年は坊主頭で厳つい角ばった顔立ちをしており、たった独りでいつもむすっとした無愛想な表情で居る様子が描かれていた。
しかし孤独の中でも強い魔獣を斃し人々を助け活躍する――その物語にミツタカは惹かれるものがあった。
「それになー……。こんなツラしてると子供も大人も、あれこれうっとおしい事言って寄ってきたりしねえからよ……。」
更にわざとらしく顔を顰めて、カヨやパーティの者達の誰にも言った事の無い本音の一部を、何故かミツタカは漏らしてしまっていた。
無愛想で怖そうな、可愛げの無い狩り人の少年。そんな風に見られていれば、もうすぐ迎える成人の年頃に向けて結婚がどうとか娘達とのお付き合いがどうとか、煩わしい話題を振られる事も無い――。
それはまだ思慮も経験も足りていない少年の他愛の無い思い付きであり、しかし、ささやかでも身を守ろうとする鎧だった。
幼いフクタロウはミツタカの漏らした本音の意味するところを何一つ理解する事は出来ていなかったが、ただ、ミツタカのしかめっ面が寂しそうに見えた事と、確かに男らしくて凛々しく――フクタロウにとって今迄見て心をときめかせていた村の青年達よりもずっと魅力的に見えた事だけは理解出来ていた。
2025-0615
梅雨による高温多湿と気圧低下でやはり更年期のヲカマのオッサンは心身に大ダメージの毎日です。そして梅雨が明けたら猛暑で大ダメージとか言っています。
さて第10話。回想編ですがやっぱりプロットメモ書きしてなかった部分でして、書き進めるのに苦労しました。最初は干し柿をフクタロウが一人で村長宅に持って行ってと考えてましたが、それだと外出制限中の村の様子と矛盾するしなあ、とか何とか。
後、作中の大蜜柑のイメージは土佐文旦を元に創作しています。美味しいけど皮を剥いて種を取るのが面倒です。出回る季節になると二級品三級品の無農薬だけど表皮が傷とかポリフェノールの沈着のブツブツとかで見た目の悪いものが安く出回るのですが、中身を食べた後はその皮を安い紅茶の香り付けに利用したりしております。市販のレモン果汁で味を整えるとレモンの香りとも調和して実に美味い柑橘系のフレーバーティになるのでお勧めです。