存在の理不尽性について
—— 「存在の理不尽性について」 魔法博士(根源学)ザイン・フォン・シュタイン (王国暦一九九〇年三月一〇日作之)
「ザイン先生の論文……いや、魔導書?助成研究の成果物なら助成課に回すか?」
今朝、魔導庁本庁舎へ配達されてきたそれは不可解なものであった。
大方、魔法学に関する研究論文の体をなしているが、紙やインキは魔導書に用いられるそれであり、全体として強い魔力を帯びていた。強いていうなら論文と魔導書の中間、魔導論文とでも言うべきように思われた。
役人は、何の説明書も付されていないそれの正体を確かめるべく、「存在の理不尽性について」を閲し始める。
「存在の理不尽性について」は纏まりの良い文章とは言えなかった。序論に数十ページもの紙幅が割かれてある事からして。ザインは数千年に及ぶ自らの人生を懐古し、先に逝った数百の同僚研究者の功績を称えていた。その作業は殆ど魔法学の歴史を一から説きおこしているに等しい。
久遠の時を生きる博士が研究のきっかけや経緯の概略を語れば、必然的に魔法学史が完成してしまうのだろうかと苦笑していた役人の手が止まる。
「……余は、根源に到達し、同時に絶望した。世界は閉じており、何らの進歩も発展も存在し得ない事が今や明らかとなったからである。数十世紀に亘る余の根源研究は、余にとり無意味で無価値なものであった。馬鹿馬鹿しい研究であった。……余はこの絶望に打ち克てぬようである。故に、余は去ろう。これは、余の遺書である。……各所に本書を発送した。人々に少なからぬ混乱を生ずることを申し訳なく思うが、真理を知り、にもかかわらず余と違って絶望せず進み続ける者が現れることを余は実のところ希望しておるのかも知れない……」
「遺書」という所から先は殆ど読むことなく役人は魔導通話機へ走った。
「はい、魔導通話でございます。どちらへお繋ぎいたしましょう」
「大魔術師ザインを」
ザイン博士は通話魔術を拒否しているか魔術の届かない場所にいて通話できなかった。学院事務局にも架話したが、「ザイン教授はまだ登校されていない」とのことだった。
不吉な予感は今や確信に変わっていた。
事態は一刻を争う。何かの間違いならそれでいい。
「……交換手、巡察に繋いでくれ」
交換手が手早く通話魔術回路を構築する。
「はい、巡察庁緊急部。事故ですか事件ですか?」
「事件です。魔法学者のザイン博士から自殺を仄めかす文書の送付を受けました。急いでご本人に架話したのですが不通で、学院に確認しても登校されていないとのことで……」
※※※
王国魔法学の権威、魔法博士ザインが「存在の理不尽性について」という一片の論文を遺して自決した事は、一躍、国中の噂となった。
氏が悠久の時を生きた大魔術師として有名であった為にその死は話題性を帯びた。
しかし、それ以上に博士の死は、目下進行中の魔王禍における王国国防力の深刻な低下を意味した。単身で王国魔道師団にも匹敵すると評された人類の切り札が失われるには余りにも時機が悪い。
そして、博士の論文、「存在の理不尽性について」を回収しようとする魔導庁の必死の努力にも関わらずその内容が広く世間に流布したことが一層事態を悪化させた。
王国暦一九九〇年三月十二日。
「存在の理不尽性」発表と博士の死から二日後、国王府庁舎閣議室にて対策会議が開かれていた。
魔導庁の担当魔術士が論文の内容を閣僚に説明する。
「お手元の資料に問題の論文の要旨をまとめてございます。特に問題なのは、第3章の『魔王は世界の構成的要素である』という部分でありまして、構成的というのは、魔王の存在を承認することがこの世界が存在する必要条件であるとの説であります」
博士の説はこうであった。
(1) この世界は存在する
(2) この世界は、世界大の極大魔術(創世魔法)により創られた
(3) 創世魔法は、未来の人類において開発・行使され、その時点の世界全てを材料に遥かな過去の世界誕生時点にこの世界を生じる(た)
(4) この世界は、そのような時間的循環運動を無限に繰り返している
(5) 魔王との戦争は、人類の魔導技術研究を加速させ、人類の種族的寿命までに創世魔法を完成させるよう促す世界の存在保障力である。
(6) この世界は三次元空間的に有限であり、時間的にも(4)のような幅的有限性を有する四次元魔力体である。
(7) 以上を魔術一元的に説明すれば、この世界は創世魔法という極大魔術の存在と要約される。故に魔術は創世魔法以上に発展し得ず、創世魔法がこの世界の存在として現にある以上、如何なる魔術的発展も進歩も全体的・客観的には観念され得ない。
「……と、以上がザイン博士の論文の概要です。内容の正確性については魔導庁研究部が学院と共同で確認を進めておりますが、」
「まず、間違いないだろうな」
大臣が割り込む。
有史以前から魔術を研究し、人類に文明を与えたとも言われる大魔術師の論文だ。常識に照らして誤っている筈もない。
「はい。論文の原典が魔導書化されていれる点からしても博士の理論は正しいと思われます」
魔導書は固定された魔術。魔導書が成立するためにはその記載内容が魔術的に正しい必要がある。魔術論文の魔導書化は、その意味で内容の真実性を端的に証明する手立てと言える。ただし、そんなことができるのは大魔導師ザインくらいのものだろうが。
「少々複雑で、しかも突飛な印象を受けるのだが、要するに魔王との戦いは原理的に終わりがある類のものではないということか?」
そう問うたのは軍務長官。魔王戦争に終わりがないなら軍政を大幅に変更する必要があるため、軍務庁としてはその点に関心を持たざるを得ない。
「はい。そのようにご理解いただけます。魔王を打倒するということは、一種の親殺しのディレンマ的であるとお考えください」
子が過去に戻って親を殺すと論理的な矛盾が生じる。親を殺したなら子は生まれない事になるが、子が生まれないならば親殺しは行われず子が生まれることになるという矛盾だ。
世界が世界自体を創造したという場合に、その創造プロセスの不可欠の一部である魔王を討伐するという状況は親殺しのディレンマに近い。
「それじゃあ、魔王は倒せないと?」
「それについては、論文で『弱い世界仮説』と『強い世界仮説』とが提唱されております。前者によりますと、魔王を倒すか人類が滅び創世魔法実現の可能性が消滅した時点で世界は消失します。後者では、世界の存在保障力によって魔王は絶対に打倒できず、人類もまた滅亡は免れるようです。ザイン博士の研究は後者を示唆しておるようです」
親殺しのディレンマを解消するためにはディレンマが発生しないか、ディレンマごと世界が消滅するしかない。前者が「強い世界仮説」で後者が「弱い世界仮説」だが、論文のデータは「強い世界仮説」に親和的だ。
強い世界仮説に立つ限り、世界が存在すること自体が、魔王を討伐できず人類は滅亡の日まで魔王と戦い続けなければならないことの証拠となる。
「何故今まで魔王は現れなかったんです?」
諸閣僚の疑問を代弁したのは農水庁長官だった。
「文明の強度が魔王戦争に耐えうる水準になかったからと推測されます。ザイン博士が発見した魔王システムの起動条件が論文130頁以下にありますが、それらの条件が満たされた時期は魔王の出現時期と重なります」
「たとえば今から文明水準を引き下げるというのは?」
農水長官の提案は尤もではあった。
文明の制限ということが個人の自由を基調とした現代国家にとっていかな劇薬といっても、延々と続く魔王との戦争とその先の人類滅亡の回避という正にやむにやまれぬ目的の為ならばやらざるを得ないだろう。あるいは、突きつけられた生存の危機という事態に、法体系は依って立つ前提を破壊されて再構築されざるを得ないかもしれない。
法務長官は人知れず思案する。
しかし。
「文明の後退は、功を奏しないと思われます。博士が解明した魔王システムは、一旦発動したら停止しない構造になっています。今後は加速度的に魔王の戦闘能力が向上し続けるため、あらゆるリソースを投入して魔導技術を発展させて対抗する他ありません」
「何か可能性はないのかね?」
大臣が魔術士に発言を促す。
「『強い世界仮説』に立つと、創世魔法の構成要素である魔王は内在的には——世界内存在である我々人類には——破壊不能です。ただ、仮に外在的な超越者、例えばこの創世魔法を行使した高次元生命体のような存在がありうるとしたら世界を存立させつつ魔王を消滅させることも可能とされます。論文125頁の『世界は内在的には自己原因でありその構成的要素は破壊不能であるが、外在的に存在を与えるならばその在り方を変更しうる』という部分です」
「要するに居るかも分からない神頼みと。まったく、迷惑な話だ。多次元生命体だかなんだか知らんがそこに居て見ているならこんなふざけた世界設定はやめてもっとマシな世界にしてくれ。何が楽しくてこんな世界を作ったんだ、一体」
来るべき決して明るくない未来。それはどうやら殆ど不可避なようだ。
これから確実に世の中は変わる。否、変わらざるを得ない。
「ウィズ・魔王戦争の時代の到来というわけだ。もう、以前の平和な日常は帰って来ず、終わらぬ魔王との戦争が新たなこの世界の日常。それに向けて各種制度や行政機関の改革を進めて行かねばならない。今日は差し当たって、その方針を確認したいが異議はないな?諸君」
「異議ありと言えたらどれ程よかったことか」
「魔法学者には世界を滅ぼすために魔術を研究し、軍人には絶対に勝てないけど魔王と戦えと命じ、国民には勝てない戦争が人類滅亡の日まで続きますが頑張りましょうと言わなくちゃならないわけだ。実に、酷い時代になったものだ」
※※※
熱核撃魔術の飽和攻撃でガラス化し熱を帯びた大地の上を魔導戦艦の編隊が飛び去ってゆく。
「こちら第三魔導艦隊。我、魔王軍地上部隊の排除に成功せり。これより帰投する」
「全艦に達する。現刻を以て作戦を終了。警戒体制のまま帰投する」
王国暦一九九〇年三月二〇日。
王国軍第三魔導艦隊は、魔王軍飛龍部隊の攻撃で艦隊の半数を失いながらも王国に迫る魔王軍地上部隊15万の殲滅に成功した。しかし、余りに多くの戦友を失ったことに加え、以前から広まっている噂のせいで兵士たちの顔は暗い。
「この戦いに終わりがないって噂、本当らしいぜ。魔王がどんどん強くなるってヤツも。熱核撃魔術も今に効かなくなるんで軍務庁と学院が急いで上位の攻撃魔術を研究してるって」
「本当かよ。俺たちどうなるんだろうな……」
いつか、この息が詰まり張り詰めた死と隣り合わせの日々が終わる筈だと信じて戦ってきた。けれども、そんな望みは元よりあり得ないことだった。それを知った兵士達の動揺は大きい。
「何のために戦ってるんだろう」
誰かが呟いた。そう感じた人間は実際にそれを言葉に出した数より遥かに多かったことだろう。
戦いは終わらない。待つのは創世魔法という名の滅びだけ。それじゃあ何のために?その元凶、こんな状況に人類を放り込んだ世界はただ有るだけで何も説明しない。
「いやいや。意味ってのは事実を恣意的に切り取ることさ。徴兵される前、俺は記者だったからそういうのは得意でね。戦争が終わらなかろうが世界が滅ぼうが知らん、俺は酒とタバコと女の為に生きるさ」
「酷い風評被害だな……」