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通り雨

半分ぐらい過ぎてからやっと変化描写に入ります。

ネタバレになってしまいますが、メインの『本化』と、作中作の『平面化』という二重構造になってます。


【視点:シオリ】



 始業前の教室。

 前の扉がカラカラと開き、すらっと背の高い男子生徒──トモヒコが登校してきた。夏服の半袖シャツを着た肩に鞄を担いでいて、運動部らしく短くした髪型のてっぺんを整髪料か何かでツンツンと立てている。

 その姿に気づいたタケル──トモヒコよりも一回り背の小さい男子生徒が声を掛ける。


「おはよぉ、トモヒコ。昨日のオカズは何だったんだ?」


 ニヤニヤとした笑みでそう問いかける。トモヒコより少し長めの茶色っぽい髪は癖っ毛で所々先っぽが跳ねている。制服の白ワイシャツを腕まくりしていた。


「おはよっす。昨日のオカズか? 昨日は槙島アドネちゃんで三杯おかわりしたぜ。 あの子ちょっと可愛すぎるわ」


 トモヒコは黒板前で飄々とサムズアップを決めつつ堂々と申告し、黒いスラックスの長い両足を踏みしめて、タケルが陣取る教室真ん中の席に集まり話し込む。

 その会話は教室の大部分にまる聞こえで、そこここからクスクス笑いが起きる。


「ちょっと、バカ男子ども! クラスでそんなエロ話すんなっていつも言ってんじゃん! ほんと最低!」


 そんな男子生徒ふたりのもとに気の強そうな女子生徒──イズナが近づいてくる。肩に掛かるくらいのストレートの黒髪に色白な丸顔、胸元に青いリボンをゆるく結んだ夏服の白ブラウスの半袖からは色白の柔らかそうな二の腕が覗いている。

 横からこのふたりの会話の輪に自然に混じる。

 本気で反感を示しているというよりも、気兼ねない者同士で軽口を叩き合っている感じ。

 この教室ではこれら一連のやり取りはある種のお約束であるようで、他のクラスメイトたちも慣れっこな様子だった。


「はぁ? 誰がエロ話をしてるって?」

 タケルは動じず、ニヤニヤしたまま言い返す。

「トモヒコは、アドネちゃんが可愛すぎるあまり食欲が爆発して、どんぶり飯三杯おかわりして平らげちゃったって話をしてるんだぜ? なんでエロ話してるって発想になるんだ? そんなふうに考えちゃうお前の方がエロいんじゃねえの〜?」

「はぁ? 可愛い女の子見て食欲湧いてくるなんて、無理がありすぎるっつうの! どうせ隠語使ってまで猥談したいだけでしょ!」

「はぁ? そんなわけありますが?

 鰻を焼く匂いをオカズにご飯を食べまくる故事を知らんのか? 嗅覚のみで米飯が進むことかくのごとし、いわんや視覚においてをや」

「あんた今日適当すぎるわよ?! 故事……?」


 夫婦漫才の応酬みたいになったところに、私──シオリがイズナを宥めるために割って入る。私の見た目を一応説明しておくと、黒髪を高いところでお団子にまとめて、生まれつきほんのり浅黒い素肌に、女子の中では肩の張りがちな上半身を包む半袖のブラウスの上からベージュ色のニットベストを重ね着するスタイルはいつも通り。


「まぁまぁイズナ、このへんで……」

 彼女の肩を両手でポンポンと叩いてなだめる。

「おっ、おはよっす、シオリ」

「あ、うん。おはよう、トモヒコ」

 イズナの肩越しに私に気づいたトモヒコと挨拶を交わす。

 この四人はクラスの中でもよくつるんでいる仲で、休み時間は教室のこの真ん中の、タケルの席の近くに集まってワイワイやってることが多い。


「今日の英語、小テストだって聞いた?」

「え、うそ。あれって結局今日やったん? やべー、しくったら今度こそガミセンにくらされるわ……」

 私の言葉に対し、トモヒコがその飄々とした顔は崩さずにやや大袈裟に頭を抱えてみせたので、思わず笑いそうになる。昨日の晩は例の槙島アドネちゃんとやらに夢中だったようで、小テストのための勉強はほったらかしだったらしい。


 すぐそばではイズナとタケルが相変わらず言い合いを続けていた。

 さっきまで「お前の方がエロい!」「いやそっちの方が!」と言って押し付け合いをしていたはずが、いつの間にか「お前より俺の方がエロい!」「いや私の方がエロいが!?」という張り合いにすり替わっていた。なんでそうなるの。





 その日の放課後。

 バレー部の練習が終わり片付けが済んだあと、帰り支度のために体育館から出て部活棟の方へ繋がる渡り廊下に差し掛かった時、偶然トモヒコとすれ違った。ちょうど彼もバド部の練習が終わった直後らしい。


「よっ、シオリ」

「あ、お疲れ様〜」

「お疲れっす。ま、ここだけの話、俺はそんなに疲れてねぇけどな」

「ふふっ、それはよかったね」


 サムズアップしながらの飄々とした恒例の軽口に思わず笑ってしまう。私を見つけて、片手に提げていた部活用具入れのケージを下ろして立ち止まり、話し込む体勢になる。この用具入れを体育館まで返しにきたようだけど、特に急いでいるわけではないのかな。


「そうそ、今日の小テスト、サンキュな。ガチで助かったわ」

「あ、そう? そんなに役に立たなかったかなって思ってたけど」

「いや、あれなかったら本当ヤバかった」


 直前に教えてあげた私の簡単な出題予想に対して礼を言われる。力になれたのなら嬉しい。

 私も女子の中では小柄ではない方なんだけど、それでもトモヒコと話すときは自然と見上げる形になる。練習着の黒いTシャツに黒いハーフパンツ、バドミントン用の白いシューズを履いている両脚はソールの厚さを差し引いても高い背丈に見合ってスラリと長い。

 練習で流した汗の余韻が残る軽装にも彼元来の爽やかな容姿が映える。主に教室でタケルとふざけ合っている時の言動のせいで同級生からは『残念なイケメン』と称されがちだけれども、口調のカラッとした感じやポジティブな性格のおかげか、少なくとも私は一緒にいてそこまで不快感を覚えたことはない。



 だからどちらかというと、こうしてトモヒコと話していて引け目のようなものを感じてしまっているのは、単に私が自分に自信を持てていないからだと思う。

 こちらも部活が終わったばかりで、汗の染みた練習着姿のままなのは彼と同じはずなんだけど、私の方は爽やかさのかけらもないというか、ただただじっとり湿ってるだけって気がしてしまう。

 髪をお団子に纏めているのは教室の時と同じ。上半身は、化学樹脂製だとボールに飛びついた時の摩擦で融けてしまうことがあるので、綿多めで丈夫な無地の白Tシャツ……俗にババシャツと呼ばれるような見た目のものを着ている。腰回りを包むペラペラとした薄い生地のショートパンツ……濃紺色の両サイドに太地の白いラインが入ったそのウエストに練習中はシャツをずっとタックインしていたので、裾まわり近くが特に汗でじっとり濡れている。ほんのり浅黒い両手足、肘と膝には黒いサポーターをつけて足元はクッション性のあるシューズを履いていて、ヒョロながい手足との対比でややボテっとした見た目になっている。とは言え、部活が終わってすぐなので、こういうあまり可愛らしいとは言えない格好をしてるのはまあしょうがない。今気になってるのはどちらかというと、薄着の練習着が汗に湿ってより浮き彫りになる、私の身体つきの方だったりする。

 いかり肩と言うのだろうか、私は女子の中では肩が張ったガッシリめの骨格である一方で、性徴著しい他の子たちと比べて身体の線が柔らかみや凹凸に乏しいので、このババシャツみたいな練習着をタックインせずに裾をストンと下ろした時の立ち姿は、なんというか、無風のときに船のマストに帆を張ったときみたいな、あるいは立て看板にカバーをかけたみたいな、要は真四角っぽいシルエットになってしまうのだった。

 正直、イズナみたいな見た目が丸っこくて柔らかそうな女の子らしい体つきが羨ましい。

 我ながらヌリカベっぽいというか、こういう身体って、多分男ウケも良くないよね……。

 あと、バラエティ番組なんかで男性芸人さんの裸とか見ると、たまに私よりおっぱい立派だったりして草なんよ。


 世の中にはどうやら物好きな人たちもいるようで、バレーボールの女子選手のビジュアルを好きこのむ男の人というのが一定数いるらしいんだけど、どうせ、そういう人たちが好きな女子バレー選手っていうのはしなやかな体躯でスパイクを放つ背番号『1』のエースアタッカーで、私みたいなヒョロガリで泥臭く拾って上げることだけがウリの背番号『7』のリベロなんか眼中にないんでしょ?


 ……このコンプレックスを誰かに告白したことはない。

 自分に少しでも自信を持ちたくて、この学校に入ってから、明るく振る舞うようにしたり、髪型やおしゃれを工夫してみたり、軽いイメチェンに挑戦してみた。

 たまたま仲良くなったイズナはいつも元気で華のある子で、彼女と一緒にいるうち私もいつの間にか、クラスの中でも目立つあのグループの一員に数えられるようになっていた。

 あの四人で一緒にいるのは楽しいし、こんなふうに何気なくトモヒコと二人でお喋りするのもすごく楽しい。だから、私としてはそれだけでもう幸福度としては充分というか、これ以上何かを欲しがってしまったらバチが当たるような気がしてしまうのだった。


「なぁ、シオリ。せっかくだし、このあと二人でお茶でも……」


 しばらく他愛もない話が続くうち、気がつくと下校時刻が近づいてきていた。トモヒコはまだ話し足りないのか、場を改めようという提案を口に仕掛けたようだけど──。


「おいこらぁ! トモヒコぉ、はよ片付けに来んかい! 倉庫閉めてまうぞ!」

「げっ、やべっ、ガミセンだ……」


 体育館の片隅、教員室から近づいてきた大声にトモヒコが振り返る。そういえばまだ用具入れを収納していない。


「先生が呼んでるみたいだし、この辺にしとこうか。じゃあねトモヒコ」

「あ、う、うん。また来週……」


 トモヒコの意識が先生の方に向いたのをきっかけに、私は渡り廊下の方へ早足で歩き出す。



✳︎



 思いのほか長く話してしまっていたようで、校門を出る頃には既に下校時刻を回っていた。生徒の大部分は下校していて駐輪場はほとんど空だった。

 夏なのでまだ陽は高く明るいが、校舎の方を振り返ると、上空に聳え立った巨大な壁のように縦長に膨らんだ入道雲が浮かんでいて、風向き的にこちらに流れてきそうだった。

 この季節はにわか雨も多い。雲に追いつかれる前に、駅に続く大きな通りとは反対側、のどかな田園風景が広がる田舎道、細長く舗装された路側帯もないアスファルトの上を自転車で駆けていく。こちらの道は既に下校ラッシュも過ぎて人通りもほとんどなく、遠くにバス停の待合室のトタン小屋が見える以外は、ひたすら田んぼが広がっている。

 更衣室でサポーターを外したあと、練習着の上からジャージぐらいは羽織って帰ろうかと思っていたのだけれど、あまりに外が蒸し暑くて、見回りの先生もいなさそうなので、ジャージは鞄の中に突っ込み、練習着の白Tシャツにショートパンツという格好のまんまでペダルをひたすら漕いでいった。


 そんなふうにバタバタと慌ただしく帰途についたのは、単に折り畳み傘を持ってくるのを忘れてて雨に降られたくなかったからなんだけど、これではまるでトモヒコのところから急いで逃げてきたみたいになってないか。

 ……まあ、ある意味その通りかもしれない。

 仮に雨の気配がなくても、部活終わりの汗の匂いを間近で嗅がれるのを嫌って先に帰っていた気もする。

 トモヒコも自転車通学でこっち側の道を通るはずなので、結局は彼を学校に置き去りにしてきた形になる。




 ──ひとり黙々とペダルを漕いでいると、ふとイズナと先週二人きりで色々話したことを思い出す。


 その日は二人とも部活がなかったので放課後も教室に残って課題をやっていて、そのうち机に齧り付くのに飽きてお喋りをしていた。

 他の生徒たちもいなかったので、普段しないような込み入った話もこぼれだす。


 イズナは一時期、タケルと付き合っていた。二人の間の話は私も全てを聞き及んでるわけではないし、知っていることについても外野には内緒にし続けるつもりだけれども、少なくとも、いつも一緒の四人グループの関係性がこの二人が別れても健在なのは、この二人が互いの気持ちを率直に伝え合って尊重できるようなオトナだったからだと思う。



 自らの話を引き合いに出して、イズナは私が『遠慮している』と指摘してきた。

 落ち着きを取り戻したグループに新たな波風を起こしたくなくて、自分の気持ちを押し殺しているのではないか、と。

 秘めていた本心を見透かされたという感覚と、思いがけない事実に気付かされたような感覚と、その両方がないまぜになったような気分だった。


 その身体の丸みを私の平べったい背中に重ね合わせてきて、静まり返った水面にいたずらでさざなみを立てるように、耳元にフッと息を吹きかけられた。「ひゃっ!?」と声を立ててしまった。からかうように、しかし子どもをあやすような優しさで、つーっとうなじの生え際を指先でなぞられた。


「シオリも、幸せになっていいんだよ?」


 そして、背中を押すように、もっとズルくなってもいいんだよ、と付け加えた。



 それ以上私から具体的な話をすることもなく、曖昧な態度のままその場はそれっきりになったんだけれど、今になってイズナの言葉がだんだんと私の本心に沁み込んできた気がする。

 本当は今日、トモヒコとお茶したかったかも、なんて思う。



 でもなぁ……と、ペダルを漕ぎながら大きな溜め息を吐く。

 イズナとの話をきっかけに、自分の気持ちについて改めて考えてみて、一つ気づいたことがある。


 自分の身体つきについてのコンプレックスは確かに大きなものではあるんだけど、それは多分、実際は瑣末なことに過ぎないのだと思う。

 そのさらに奥底には、もっとドロドロとした、気持ち悪い欲望が渦巻いているみたいだった。

 たとえるなら、玉ねぎを剥いていくように徐々に晒け出されていった最後に残る中身の“自分”。それはまだ誰かに観測されていないがために実体がなく、自分でもそれが何なのかよく分からないまま、無貌のまま奥底で蠢いている。

 そして、あわよくばそれをそのまんま愛してほしいという、そういう願望が捨てきれないでいる。

 これから仲を深めていこうとするならば、その“自分”をいつかは彼の前に明らかにすることは避けられないと思う。あるいは、もしかしたら、理解してもらうことは諦めて、未来永劫自分の奥底に封じるしかないという可能性もある。


 ただ少なくとも今は、そのどちらかを選ぶ覚悟は、心の準備はできていない。




 気がつくと、少しずつ薄暗くなり始めていた。

 陽はまだ高いところにあるけれども、上空がすっかり雲に覆われていたのだ。

 遠くの雲間から、時折うねるような音が聞こえてくる。ひとりでウジウジ考えている私に空が苛立っているみたいだった。


 『やばっ……』と思ってペダルを漕ぐ脚を早める。水の匂いが鼻を掠めたのだ。

 もし雨に降られたら逃げ場はない。停留所まで辿り着いても、傘がないのでそこで足止めをくうことになる。

 そういえばトモヒコは傘を持ってきてるんだろうか、となんとなく思った……その時だった。



 ──一瞬のうちにカッ……と目の前が眩しくなる。

 その真っ白い光に私の身体が包み込まれて、何も見えなくなり、瞬間、前後が分からなくなる。


「えっ……あれっ……?」

 てっきり、雷に打たれたのかと思った。

 おかしいな、雷鳴はまだずっと遠くだったはずだけど……? 


 手足から離れた自転車が、アスファルトの上に転がる音は聞こえたが。中空に放り出されたような感覚があって、ハンドルを掴み直そうとしたんだけども、あるはずの手の感覚がなかった。そもそも自分はどんな姿形をしていたんだっけ? 自分の姿……形……?


 自分の頭の中の(私、今、どうなってる……?)という疑問が、どうしたものか、先ほどまでのウジウジとした考え事と一緒くたに束ねられて、より大きな一つの疑問へと収斂していく。



 ──どうやら“自分”というものは、誰かから認識されることではじめて確かめられるものであるらしい。

 ──でも、自分でもどんな形をしているか分からない、どう見てもらえればいいのか分からない“自分”は、どんなふうに認識してもらえればいいんだろう?



 それに対する答えへ導くヒントのように、いつのことだったか、イズナが何気なく言った言葉が浮かんできた。


『自分の考えてることが分からなくてモヤモヤした時は、文字に書き起こしてみるといいらしいよ』




【視点:トモヒコ】



 ガミセンの説教を適当に聞き流したあと、家路につく。駐輪場も田んぼ道も、人の気配は全くない。

 そしてバスの停留所の手前付近まで辿り着いたところで異変に気づいた。


 視線の先、田んぼのド真ん中を細長く突き通したアスファルトの道の上、自転車が一台転がっている。


 近づいて見てみると、その荷カゴから放り出されたと思しき鞄ごと、赤いフレームのママチャリが横倒しになっていて、すぐ横には靴が一足分転がっている。

 まるで、乗っていた人間だけが一瞬でその場から消え失せてしまったかのような、そんな異様な有り様だった。

 しかもよくよく見ると、その自転車と鞄と靴と、いずれもが先ほどまで話していたシオリのもののように見える。



 一体何事かと思い、周りを確かめるが、ただ田んぼが広がるだけで人の姿は全く見当たらない。

 自分の自転車をひとまずスタンドで立てかけて、地面に投げ出された鞄や靴を拾い上げる。荒らされた形跡などはない。

 普通に考えると、シオリの身に何か良からぬことが起きたのではないかと危惧すべき状況のように思えるが……。


 自転車の赤いフレームの蔭、アスファルトの上にポツンと落ちていた“それ”が視界に入った途端──なぜだかその心配は霧散していた。

 意識が丸ごと、そのものに釘付けになる。



 それは、片手で持てるくらいの大きさの、いわゆる文庫本だった。

 全面が布みたいにスベスベとした手触りの真っ白い無地のカバーに覆われていて、その上から、濃紺色の両サイドに白いラインの入ったペラペラとした帯が、文庫本の下部三分の一ほどを覆うような形で巻かれている。


 その本を手に取ってさらに確かめてみる。

 きちんと製本された立派な文庫本に見えるそれはしかし、表紙や扉、奥付けがあるべき巻末などに、その本の得体を示す情報が何一つ記されていない。

 白いカバーを外すと、下から浅黒い色の表紙が現れるが、そこにもやはりタイトルや著者名などは載っていない。目についたのは、その浅黒いオモテ表紙の向かって左下の方、人間の黒子みたいにポツンとついているインクか何かの黒い点ぐらいだ。


 もうひとつ気がついたこととして、カバーの上から巻かれていた帯は実は二層構造になっていた。濃紺色のペラペラとした帯を外してみると、さらにその下からより薄い紙質の白い帯がもう一枚現れた。幅は上に重ねられた濃紺色のものよりやや狭く、ちょうどこの二枚の帯を重ねると、下の白いものが完全に隠れる形になる。

 二枚も帯を巻かれた本を全く見たことがない訳ではない。書店で、映画化などの大規模なメディアミックスを展開中の作品の新刊などを手に取ると、ごくたまに通常版の帯とは別にもう一枚、メディアミックス宣伝用の帯が重ねて巻かれていることがある。しかし、目の前のこの帯のおかしな点は、主に宣伝目的で巻かれるはずの帯の表面に二枚とも全く情報が載っていないほとんど無地であることと、まるで濃紺色の帯がその下の白い帯の存在を悟られぬようすっぽり覆い隠すような形で巻かれている点だった。


 そして本の中身は小説かなにかのようで、数百頁ほど続く白いページの上に活字がズラリと書き連ねられているが、書誌情報も印字されずにただ本文だけが延々載っている文庫本など初めて見る。



 理由は分からないが、その瞬間無性にその本の中身が気になってしまい、パラパラと捲って目に止まったページに目が吸い寄せられ、思わずその場で読み始めてしまっていた。

 自分は本を読むときには帯がついたままだと気になってしまうタイプなので、濃紺色と白、その二枚の帯をカバーから外して、邪魔にならないようジャージの右ポケットに仕舞い込む。

 本屋でこっそり立ち読みするときみたく、多少周りをキョロキョロと見回してから、本文に意識を集中させていく。




【本に書かれていた内容】



『わたしはシオリ、十七歳。

 今日部活に行くと、なんとびっくり、トモヒコが女子バレーボール部のマネージャーになっていた!

 このバレー部がもっといい成績をのこせるように、なんでも協力してくれるんだって。


 その日の練習がおわったあと、わたしはひとり、部室棟の更衣室に呼びだされた。

 今日はわたしひとりだけ動きが良くなかったから、“反省会”をやるんだって。

 ……心当たりはある。トモヒコがじっとこっちを見ているのが気になって、練習に集中できなかったんだ。



「どうしたんだ、シオリ? 調子が悪そうじゃないか。

 本番の大会まであとすこし、守護神であるお前がしっかりしてくれないと試合に勝つことはむずかしいんだからな。チームの勝利のために、おれができることならなんでもしてやるつもりだぞ」

「あうぅ、ごめんなさい……」


 まさかトモヒコのせいで集中できなかったなんて言えず、わたしは黙ってしまう。

 ジャージ姿のトモヒコが更衣室のとびらの前に仁王立ちしていて、出入り口を防がれたかたちになったわたしは部屋の奥のほう、ずらりと並んだ荷物入れロッカーを背に、灰色のコンクリートのたたき床になっている空間にたたずんでいる。


 今日は本番を想定した練習試合だったので、いつもの練習着ではなくて、公式試合用のユニフォームを着ていた。

 半袖で襟つきのシャツとショートパンツは鮮やかな赤色で、シャツの脇下からショートパンツの裾、半分ほど隠れた太もも横にかけて、グレーの太いラインがまっすぐ入っている。

 ちなみにウチのエースの子はお胸とお尻が大きく丸みのある身体つきなので、そのユニフォーム姿を横から見てみるとそのグレーのラインは身体の凹凸に引っ張られてS字状に歪んで見えるんだけど、わたしはこの通りひらべったい体型だから、このユニフォームを着てもグレーのラインは綺麗にまっすぐストンと落としたようなかたちのままだ。

 そのユニフォームの前面と背面には背番号がついていて、わたしの着ているこれには『7』という数字と、その上に『SHIORI』という選手名がそれぞれ白文字でプリントされている。

 肘と膝には黒いサポーターをつけていて、足元には白い長靴下と白いシューズを履いている。


「チームが勝つためには、わたしがもっと相手チームのアタックを拾いまくれるようにならないと……。

 そのために、トモヒコが力になってくれるのなら、うれしいな……」


 練習に身がはいってなかった理由は言えないけれど、本当はチームに貢献したいんだという気持ちは伝えておく。

 それはうそじゃない。

 せっかくトモヒコがマネージャーになってくれたんだから、いいところを見せたい。


 ……それに、さっきからトモヒコはチームのために“なんでも”するという意志を何度も言葉にし、強調している。

 わざわざこうして誰もいない更衣室に呼びだして、二人きりの状況をつくりだしたということは……なにかわたしだけの特別な秘策を伝授してくれようとしているのかもしれない。

 しかしトモヒコはバレーボールのことにはあまり詳しくないはずだから、それは本格的なアドバイスとかではなく、もっと変わった角度からのアイデアであるはず。


 うわぁ、わたし、一体これからトモヒコにどんなことされちゃうんだろう……?



「なるほど、シオリの意気込みは伝わった。その気持ちが疑うまでもないことは俺もわかってる」


 トモヒコは重々しく頷く。


「ただ、どのみちチームの守備力の強化が急務であることには変わりない。シオリには悪いが、これから少々手荒なまねをとらせてもらうぞ」


 そして、わたしが更衣室から逃げられないよう、扉の内側からガチャリと鍵をかけてしまう。


 きたー……この流れは絶対、エッチな目にあわされちゃうやつだ……。

 オカズを通りこして、主食のどんぶり飯にされちゃうんだ、きっと。

 チームの守備力云々って建前から、どうやってエッチなことを決行する理由をひねり出すんだろう?

 お手柔らかにお願いします……。



「たしかにシオリが言うように、相手チームの攻撃をもっと拾えるようにならないといけない。そのためには、守備範囲をもっと広げなきゃいけないと思うんだ。そこでだな……」


 そう言いつつ、トモヒコは更衣室のとびらの手前、体育用具が多く収納されている空間から、なにかをズズッ……ズズッ……と引きずり出しはじめた。

 ん? なんか雲行きがあやしいな……?


「俺はバレーのことよく知らないから素人考えなんだけどさ、シンプルに、身体の面積を大きくしたら、守備範囲もそのまま広げられるんじゃね?って思うわけ。

 そういうわけだから、今からこいつを使って、シオリの身体の面積を大きくしたいと思います」



 いつもの飄々とした顔のままそう言ったトモヒコが両手で引きずりだしてきたのは、グラウンド整備で使う巨大なローラー……俗にコンダラと呼ばれるものだった。


 えっ……えっ?!

 なんか思ってたのとちがう!?

 物理的に面積を大きくしようってこと?

 手荒にもほどがあるのでは?!


「心配するな。他の女子たちと違って、シオリは身体が丸っこくなくて元々平べったいから、ローラーで均されるときに潰れる凹凸がない分、苦しまなくて済むはずだ。それじゃさっそくいくぞ!」


 よく分からない論理を展開しながら、こちらの返答も待たずに、トモヒコがコンダラをわたし目がけて転がしてきた。

 たった今までいかにも重そうな感じで引きずられていたはずの巨大なローラーが、一転トモヒコの手によって軽々と放り投げられるように突っ込んできたものだから、不意をつかれて避けることもできなかった。



「ふぎゅうっ?!!」


 全身を丸ごと轢き潰されて、わたしの身体はコンクリートの床に仰向けにのびる。

 どういうわけか痛くはないけど、びっくりして目が回った。

 コンダラの重みで引き伸ばし均され、後頭部や背中、お尻やふくらはぎ、コンクリートの床の冷たさが伝わってくる面積が増えた感じがする。

 まさか、わたしの身体そのものが粘土みたいにぐにゃぐにゃに柔らかくなってるの?!

 

 トモヒコがローラーを手前に引き戻してもう一度わたしの身体の厚みの上を通っていくとき、わたしの疑問は確信に変わった。

 ローラーの重みがかかるたびに、明らかにわたしの身体がどんどんペチャンコになっていっている。

 や、やめて……ただでさえ平べったいのを気にしてるのに、これ以上……。



 ローラーが通りすぎて、床に貼りつきかけている首をペリペリと起こして確かめると、わたしの身体は、まるで人型に型取られたジンジャークッキーの焼く直前の生地のような、表面の曲線的な丸みが希薄になった平面的な見た目になっていた。

 着ていたユニフォームごと粘土状に変質しているようで、ローラーにかけられた圧のせいで、その赤色が、叩きを入れられた金属みたく素肌にベットリと貼り付いて同化しかけている。

 特に、トモヒコが手前へローラーを引き戻した勢いで、ユニフォームのシャツの生地が裾方向に思いっきり引っ張られ、まるで丈が短すぎるワンピースみたいな見た目になるまで伸ばされている。赤いシャツの裾が同じく赤いショートパンツの生地と同化するように覆い隠して、わたしの元々薄い腰回りとお尻までをピタッと包み込むようなかたちになる。

 ど、どういう原理でこうなってるの……?!



 トモヒコはこの有り様を見て、納得したようにふむと頷くと、ローラーをわたしの身体の上でさらにもう二、三往復と転がし始める。

 ふにゃああぁ……。やめてぇ……人型じゃなくなるぅ……。


 ローラーで引き伸ばされるごとに、わたしの身体はだんだんと原型からかけ離れていく。

 身体の中でも体積が大きかった胴体が、厚みを失っていく代わりに、どんどん平面としての面積が大きく広がっていって、角張った骨格の両肩と骨盤をそれぞれ四隅の頂点としながら、長方形みたいなかたちに近づいていく。

 その過程で、元々ひょろりと細長かった両手足は潰れていく胴体に巻き込まれていって、やがて同化、腕や脛なんかの浅黒い肌の色もユニフォームの赤色に飲み込まれるように埋もれて、すっかり見えなくなっていった。


 それと同時、わたしの頭部も徐々に胴体の方へ沈んでいく。

 鶴のようにほっそりと伸びていたはずの首が広がっていく胴体に追いつかれて、ユニフォームの赤色の中に埋もれていったのだ。

 トモヒコがローラーを転がすのを一旦止めたこの瞬間、長方形のかたちに潰れた身体の上辺に沿って縁みたいに空いたユニフォームのシャツの襟の穴だったところから、ちょうど顔はめパネルから覗いたときみたいに、わたしの顔がムニュッと覗いている。

 しかし当然、わたしの頭部も胴体と同じようにローラーで引き伸ばされていっている途中なので、とても誰かに見せられるような顔ではない。

 というか、潰されるうちにだんだん感覚がおかしくなってきたのか、何だか愉快な気分になり始めていて、凹凸が均されて模様みたいになりかけてる目や鼻や口のかたちの上にうっすらと惚けたような表情を浮かべてしまっている気がする……。身をよじったときに床との隙間の空気が抜けてブヒュッブピッ……と間抜けな音が鳴って、そのたびに身体の表面がビクッビクッと痙攣するように震える。

 うぅ……見ないで、トモヒコぉ……。恥ずかしい……。



 しかしそんな願いもむなしく、わたしの全身像は彼から丸見えなのだった。

 縦長の長方形の、それこそ名前通りの本にはさむ栞みたいになって床に貼りついたわたしの身体を、舐め回すように見下ろしてくる。


「いいね、順調だ。こんなにペチャンコになって、シオリ、すごく可愛いよ」


 ここまで見せてきたマネージャーとしての事務的な感じとは違って、やっと素を見せたような口振りで、トモヒコは感慨深そうにつぶやいた。

 いまのこのわたしが……可愛い……? こんなに平べったくなっちゃってるのに?


「ずっと前から、そのスラッとした感じがすごく好きだった。

 だから、今はもっと可愛いよ」


 そう言ってしゃがみ込み、赤色の平面状の上をツツーッとなぞってくる。

 はうぅ……。

 伸びて惚けた顔の少し下らへん、ローラーで潰されて輪郭がぼやけつつある白い背番号と名前をからかうようにカリカリと引っ掻いてきた。


 そ、それ、ズルいぃ……。

 天地がひっくりかえるかと思った。

 わたしも、ひらべったいじぶんのからだ、すきぃ……♡

 そんなわたしの姿をすきって言ってくれるトモヒコも、すきぃ……♡

 ぺったんこになってるとこ、トモヒコに見てもらうの、しゅきぃ……♡



 気持ちごと融けてしまったみたいで、わたしはそこからさらにローラーで伸ばされていった結果、とうとう身体の厚みをほとんど失って、床の上に敷かれた赤一色のフロアシートみたいになっていた。

 唯一素肌の色として残っていた顔も、ユニフォームの赤色にとっくに飲み込まれていて、元のわたしの姿を表す痕跡はかろうじて読み取れるくらいの白いシミみたいな見た目になった『7』の背番号と『SHIORI』という名前の文字だけだった。

 面積は元の人型の何倍もの大きさにまで広がっていて、更衣室の床は大部分がわたしの赤色で覆われている。


 シューズを履いたトモヒコの足が上に乗ってきて、踏みつけられたわたしの身体は反発を示してピクピクと震える。表面積が大きくなったせいで、感覚まで拡張されてる感じがする……。


「よしよし、ちゃんと大きく広がることができたな。この調子なら、コート全体をばっちり覆いきれそうだ。よかったな、シオリ」


 またマネージャーらしい事務的な口調に戻って、トモヒコが語りかけてくる。

 な、なるほどぉ……。

 わたしのからだを自分チームのコートをすべて覆いつくすまでおっきくすることで、相手チームのアタックをぜったいに拾えるようにする作戦だったのかぁ……。

 さすがトモヒコ、天才すぎるぅ……。


「よし、あとは試合中にチームメイトの邪魔をしてしまわないように、踏みつけられても震えるのを我慢する練習をしなきゃな!」


 トモヒコに踏みつけられるたびにからだ全体に甘い痺れの波紋が広がって、ビクッビクッと反射的に震えるのを抑えられない。

 お、お手柔らかにお願いしますぅ……♡』




【視点:トモヒコ】



 ちょうど話が一区切りするところまで読み終わった、その時。

 紙面の上、ボタボタッと二、三の大粒の水滴が落ちてきた。

 白いページが水滴を吸ってジワっと濡れる。


「わっ、ちょっ!? え、え、えっ?!」

 驚いて見上げると、今度は二、三で済まないくらいの雨粒が空から落ちてきた。

 天気雨だ。本を読むのに集中していたのと、陽の光が雲に遮られていなかったことで、雨の気配に気付くのが遅れたのだ。

 一瞬のうちにバケツをひっくり返したようになって、ちょうど見開いていたページにさらに雨粒が染みていく。

 慌てて本を閉じ、これ以上濡れないよう羽織っていたジャージの懐に急いで仕舞って、立てかけていた自転車に跨り、あっという間に全身ずぶ濡れになりながらも停留所の待合室へと駆け込む。通りがけついでにシオリの鞄も回収していく。


 なんとか、雨粒が叩くトタン屋根の下へと転がり込むが……ドタバタはこれだけでは終わらなかった。


 羽織っていたジャージの内側がずっくずっくと膨らんでいったかと思うと、ついさっき文庫本を仕舞ったはずのその懐から、突然シオリが姿を現したからだった。




【視点:シオリ】



 一体、何がどうしてこんなことになってるの?!


 眩い光に包まれたかと思うと、私の身体は全く身動きの取れないままアスファルトの地面の上に転がっていた。

 わけが分からないまま空を眺めていると、ちょうどそこに、ジャージ姿の男子生徒が通りかかって、しかもよく見るとその男子生徒はトモヒコだった。

 その姿は異常に巨大に映る。というか、むしろ私の身体が小さく縮んでしまっていた。

 どういうわけか、私の身体は文庫本に変わり果てていたのだ。


 拾い上げられてからはもう、されるがままだった。

 ババシャツが変化したカバーの上から手触りを確かめるようにサワサワと撫でられ。

 一度カバーを捲られて素っ裸をまじまじと見つめられて。

 身体の真ん中から指を差し込まれて、ぱっくりと開かれて……。


 どういう原理によるものか、トモヒコが開いているページの、そこに何が書かれているのか、どの段落を読んでいるのか、まるで彼の目が私の視界の代わりを果たしているかのように丸わかりだった。

 おかげで、食い入るように“私の心の中身”を読まれているのがよく分かって、恥ずかしくて仕方がなかった。



 トモヒコも目の前に突然私が現れたことに驚いて、わけが分からないという表情のまま固まっている。いつも飄々としている彼のこんな顔を見るのは初めてだった。


 彼のジャージの中で密着する形になっていた身体を引き剥がし、トタン小屋の反対側まで後ずさって距離を取る。


 ちゃんと完全に元の身体に戻れているか、自分を見下ろして確かめるが……。

 うぅ……まだ胴体が四角い……。本みたいな四角い形の白い胴体から、人間の頭部と手足がニョキッと生えたみたいな見た目になっちゃってる。

 …………かと思いきや、よくよく考えると、私のTシャツを着た時の身体は元々こういう四角いシルエットだったと思い出す。


 ただ、なんか全身が水分を吸って、フニャフニャにふやけちゃってる気がする……。

 ババシャツの白い布地がスライムみたいに浅黒い素肌と境目が同化したまま分離しきっていないみたいで、ベトベトしてきもち悪い。

 多分、さっきページに雨粒が沁み込んできたせいだ。

 これ、ちゃんと元に戻るよね……?

 水太りっぽい感じだし、サウナに沢山入ればなんとかなるかな……。


 というか……。

 腰回りがやたらスースーすると思ったら、なんと下半身に何も履いていない!

 白Tシャツの裾を引っ張って必死にガードするが、全然足りない。右太ももの付け根付近にある黒々としたホクロまで丸見えになっている。


「ちょっと、トモヒコ……! さっき脱がしてきたそれ、早く返して!」

「……え、えっ?!」


 私に大声で訴えられて、トモヒコはハッと気がついたように、私に指さされた自分のジャージのポケットをまさぐり始める。

 二枚分の文庫本の帯を仕舞ったつもりのそのポケットを彼が確かめたところ、その中からズルズルと引き摺り出されてきたのは本の帯などではなく、なんと私が先ほどまで身に付けていた濃紺色に白いラインが入ったショートパンツと、その下に履いていた白いショーツだった。


「わ、わっ、えっ……!? えっ……ごめん!? えっ……?!」


 動転した様子で差し出してくるショートパンツとショーツをトモヒコの手からひったくり、小屋の片隅で背を向けて履き直す。

 うぅ……やっぱり雨雫に濡れてる……。しかもトモヒコの体温がまだ少し残ってて生温かい……。



 ……二人の間に気まずい沈黙が満ちる。

 屋根を叩く雨音だけが響き渡る。


 思いがけない出来事が連続で起こって、トモヒコもずっとソワソワ落ち着かない様子でいた。いつもの飄々とした感じと違って、どこに視線を向けたものかキョロキョロと目を泳がせている姿が、パニックから脱しきれてないはずの頭のどこかでなんだか新鮮に映る。



「と、とりあえず……おれの家来る……?

 こっから近いし、折り畳み傘なら俺持ってるから……」


 やがて意を決したように、トモヒコの方から口を開いた。


「何がどうしてこうなったのか、互いに確かめんといかんと思うし、そのままシオリん家まで濡れて帰ったら風邪引くと思うし……。

 今日、ウチ、親いないし、着替えなら貸すから、とりあえずシャワーぐらい浴びていきなよ。

 ……絶対、悪いようにはしないからさ」


 彼なりに勇気を振り絞った様子で、そう告げた。



 もしかしたら、いつもの私ならその提案を断っていたかもしれない。

 トモヒコの家の前まではついていったとしても、何かしら理由をつけて傘だけ借りて一人で帰ったかもしれない。


 でも、わたしの中身……あの本の、頭がおかしいと思われても不思議ではないような内容を読まれてしまったせいだろうか。

 もう、そんな遠慮をするのも今更な気がした。



 気がつくと、わたしの頭の中ではイズナの『もっとズルくなってもいいんだよ』という言葉がリフレインしている。



「お、お手柔らかにお願いします……」

今年もありがとうございました。

良いお年を。

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