第7章 乳牛(ちちうし)は割とおニューな恒心(こうしん)
1
先生の勤める国立更生研究所は、地上部分が病院で、地下部分が監獄だそうだ。
2階の病室に向かう。といっても研究所の入り口は2階にあるので、無人(カードキィで管理)の受付を通ってさらに奥。首の長い恐竜骨格の逆さ吊りを横目に、病室をノックする。
返事はなかった。眠っているのだろうか。
今朝意識が戻ったと先生から連絡をもらい、課長に有給届を叩きつけて駆けつけた。
オズ君は真冬の海に飛び込んだ。
すぐに救助したので命に別状はなかったが、なかなか意識を取り戻さずに七日間が経過した。先生の専門は精神外科だそうだが、さすがにこれ以上なんの治療効果も望めないようなら転院もやぶさかでないと申し出ようと思った矢先だった。
病室は充分に温かかった。薄暗い室内に青白い顔が寝ていた。
カーテンを開ける。
「あ」オズ君の小さな口から声が漏れた。
「おはよう。久しぶりだね」私は極力平常心を心がけた。
先生の面会謝絶攻撃を受け流す条件として、感情を昂らせないことをくれぐれも言いつけられている。
動じるな。いまは、なにも望むな。
「飲むかい?」私はサイドテーブルのペットボトルの蓋を開ける。
オズ君はほんの少量、水を口に含んだ。
私は、喉が上下するのを見ていた。
「今日は、何日ですか?」
私はサイドテーブルの卓上カレンダーを見せて丁寧に説明した。オズ君がここに運ばれた日と、今日の日付を。
オズ君は知らない惑星の言語を聞いたかのような顔をした。
「生きてる」
「生きてるよ」私はベッドサイドの丸椅子に腰かけた。
「あなたが助けたんですか」
「生憎と私が君の一番近くにいたものでね」
オズ君のか細い腕から点滴のチューブが延びる。
特に外傷は残っていないようだった。ここから見える範囲は。
「どうして助けたんですか」
記憶も問題ない。
ちゃんと、憶えている。
「僕は、僕はあいつらを」オズ君の歯がかちかちと音を立てる。
「その点は心配ない」私は極力平板な声を心がけた。「船はすぐに取り押さえたよ。全員無事だ。無事に家に帰ったよ」
「ウソです」オズ君が眼を見開く。「あいつらは、僕のせいで、いまごろ」
「材料にはさせないさ」
先生もそれを望まない。
人間を材料に創っていい芸術なんかない。
「全員救出したよ」
「ほんとうですか」
「君に嘘をつきたくないな」
オズ君が息を吐く。
よかった。
息をしている。
「僕はいつ退院ですか?」オズ君が言う。
「先生と相談かな」
「ああ、あの女の先生」
退院と同時に先生の治療が始まる。現時点の主治医は実は先生ではない。ここには外科医も内科医もいるらしい。
「お願いがあるんですけど」オズ君が言う。
「なんだい?」
「ぶんい学園でしたっけ? あすこには」
「だろうと思ったよ。あの学校は男子禁制だ」
「ですよね」
窓から光が差し込む。
オズ君が眼を瞑る。
「寝るか」
「退院の日にまた来てくれますか?」オズ君が眼を瞑ったまま言う。
「もちろん」
病室を出る。
エレベータの前に先生がいた。研究所所長用の仕事着なのか、ちゃんと服を着ている。糊のきいた白衣を羽織って、薄い黄色のワイシャツに、濃い紫のマイクロミニ。
「ちょっといいか」眼線が乗れと言っていた。
エレベータは3階で止まった。先生は迷わず突き当たりの部屋に入る。
「私の部屋だ」
ひどい散らかりようだった。分厚い専門書と書類が至るところに乱雑に放られている。足の踏み場は辛うじて残されており、さながら獣道のようだった。
本と紙の束を床にどけ、アンティーク調のソファに先生が腰を下ろす。私はやや斜め向かいに座った。スカート丈が短すぎるので。
「転院はさせない」先生が脚を組みながら言う。「なぜだかわからんとは言わせん」
逃亡の危険性。オズ君には前科がある。
「サイトに動きはないな」先生がデスクを顎でしゃくる。ノートPCが開きっ放し。「管理者が1週間寝ててくれたおかげだが。祝多は私に任せてくれていいが、あっちはどう思う?」
先生が気にしているのは、オズ君がまだ何か企んでいないかということ。
「もし何かあっても、オズ君は私が守る」
「頼もしいな」先生が言う。「この状況で起こり得る最悪はなんだと思う? もちろん主語は大王でいい」
「言いたくない」
「じゃあちゃんとわかってるな」先生が口元を上げる。「今度はヘマするなよ」
病室に戻る。
オズ君がいない。
床に水たまり。点滴から中身がこぼれて。針を自分で抜いたのか。
窓が開いている。
2階なら或いは。
「何やってるんですか?」オズ君が戻ってきた。
「どこに行ってた?」
「トイレですけど」
オズ君がベッドに入るまで待っていた。病衣から伸びる白く細い手脚が見えた。
「僕が逃げると思ったんですか」オズ君が言う。「ここどこなんですか? 病院?」
「先生の研究所だよ」
オズ君は私を見ない。
「退院後はどうするんだ? 文葦にも行かないとなると」
オズ君が私を見た。
「希望を言ったらどうです?」
「一緒に来てほしい」
「どこに?」
「私の家に」
オズ君が窓を見る。
「もう一声かな」オズ君がもう一度私を見る。「あなたが本気だってのは知ってます。でも僕はまだこんな年齢だし、親権だってあの女にある。僕がちゃんと学校に行って、ちゃんと自分のことを自分で決められるようになったら、きちんと返事します」
「それまで待てってことだろうか」
「逃げませんよ」オズ君が言う。ベッドから上体を起こして。「逃げずに向き合います。それが生かされた責任です」
春になって、オズ君は中学2年になった。
中学を卒業した後、県内で最高ランクの偏差値を誇る高校に進学した。
大学4年で採用試験を受けた。市職員あたりならよかったが。
大学の卒業式の日、振袖袴姿でオズ君が私の職場に来た。
○○県警。
さすがに人目が気になったので、近くの神社に移動した。桜はまだだが、春が近そうな強い風が吹いていた。
「一応、昼休みの時間にしたんですよ」オズ君が言う。
白地に桜が散りばめられた振袖。黒の袴。髪を結わえて頭の高い位置でまとめてある。ついこの間会ったときは肩くらいの長さだったはずなので、それ用の鬘かもしれない。
「感想を聞いてませんけど」
「よく似合うよ」
「3点」オズ君が口を斜めにする。
「式は着物がいいかもしれない」
「あのですねぇ」オズ君が距離を詰めて私を見上げる。「お昼ご飯まだでしょう? 頭働いてませんよ」
「一緒に食べようと思って待っていた。それは何時まで借りられる?」
「いかがわしいこと考えても駄目ですよ。昼過ぎまでです。なのでいまから返しに行きます」
「返す前にわざわざ私に見せに来てくれたのか?」
強い風が吹いた。
「何やってるんです?」
「いや、つい」
風に押されたのだ。私のせいじゃない。
「部下に見られますよ。けっこう偉くなったんでしょう?」
「問題ないよ。偉くなったんだから」
オズ君は見違えるほど綺麗になった。
身長も伸びたし、雰囲気もますます大人びてきた。
腕に力を込める。
「あのときの返事をもらえると期待していいかな」
「自分で自分の食べる分を稼げるようになったらですかね」
「まだ待たせるのか」思わず腕を軽く折り曲げた分の距離を返してしまった。「もういいだろう。あまり待たせると私が」
「ここまで待ったらそう変わりませんて」オズ君がいたずらっぽく笑う。「あんまりうるさいと役所行って性別変えますよ?」
「いや、それは」
結婚したいつもりは大いにあるが、別に結婚が最終目的じゃないし、オズ君が変えたいと言うなら別に止めはしないが、でもやっぱりそれでも。
したいかしたくないかの二択なら、したい。
「心配なら指輪でも買ってください」オズ君が言う。「デザインとか諸々はこの際、文句言いませんから。それして4月から働きます。いちお、希望は少年課です」
私はたぶんこのとき、何が何でもどんな非道な方法を持ってしてもオズ君を説得してせめて別の課にしてもらうべきだったのだ。このときの私は、指輪という眼先の餌につられて他のあらゆる一切が疎かになっていた。狭すぎる視野で自分のことしか考えていなかった。自分の幸せだけを考えてしまっていた。
間違えたのだ。
私の最優先は常に、オズ君の幸せであるべきだった。
間違いに気づいたときにはすでに、オズ君は少年課に配属されており、あのとき救えなかったガキ共のために東奔西走し、文字通りその身を削ってまで、あのとき救えなかったガキどもへの罪滅ぼしを繰り返していた。
指輪は確かに贈ったが、してくれているのか確認ができない。同じ本部内にいても顔を合わすことはほとんどないに等しい。課が違うとかその程度の瑣末な妨害ではなく、オズ君は私生活も自分の時間も、自分の未来の幸せですらすべてガキ共のために捧げてしまった。
結論から言おう。
私は返答をもらい損ねた。
そして、事件は起こる。
オズ君が殉職したという最悪の報せが私の耳に入った。
2
対策略的性犯罪非可逆青少年課。
私が通称カツブシとして潜入調査をしていた頃の当時の課長は、先生が「期限切れ」を祝多店主に突きつけて研究所に連れ帰った。オズ君の事件に大方の決着がついた直後のタイミングで。
異動は、オズ君が希望した。当時自分を救った私が所属していた対策課に配属してほしいと。
すでに対策課は課長の不在により解体させられていたが、私はオズ君を課長にして対策課を復活させた。
しかしながら、対策課というのは祝多出張サービスの協力なしには成り立たない。あんな悪の巣窟に、オズ君一人を送り込むべきでなかった。
すぐにわかった。
オズ君は、殉職に見せかけて祝多に殺された。
あのとき課長を奪われた原因の一端を担う私に復讐するために。
「せやから、知らんゆうとるやろ」祝多は煙たそうに私を玄関先で追い払った。「礼状も意味ないさかいに。あないなおぼこ一人、興味もあらへん」
強制執行もできる。私にはその権力もある。
あとで聞いたのだが、祝多は個人的にオズ君に恨みを抱いていたらしい。簡単に言うと、当時の課長(先生の実験台の方)を寝取られたとかなんとか。おそらくオズ君が、祝多から情報を聞き出すために使った手管だろうが、それが祝多の逆鱗に触れた。
オズ君が殉職する少し前に、少年の集団失踪事件が起きていた。
20年前に私に阻止された“材料”の調達が、ついに成功してしまった。
やはり、恨みは私も含まれるだろう。オズ君を喪って痛手なのは私以外にいない。
遺体もないのに信じられるか。
遺体があっても信じない。
オズ君は、まだ私に返事をしていない。
せめて返事をしてからいなくなってくれ。いや、やはりいなくなるのは困る。
祝多出張サービスのエレベータで少女とすれ違った。私と出会った当時のオズ君と同じくらいの年齢だろうか。赤茶色の髪の、オズ君とは違った意味で眼を惹く少女だった。
「大王さま」少女が言った。「拾いものはわたくしのものですわ」
意味がわからなかった。
それから数ヶ月後、オズ君によく似た男(男だ)が私の職場に挨拶に来た。わざわざ昼休みの時間を見計らって。
近くの神社まで散歩する時間はなかった。心の余裕的な意味合いの。
私は会議室に使用中の札をかけて内側から鍵をかけた。
痩せぎすの、男にしては骨格が頼りない。眼鏡をかけており、白のワイシャツに黒のネクタイ。黒のズボン。上着を脱いで小脇に抱えていた。
喪服を連想させた。
「どうも、はじめまして。俺は」
胡子栗 茫
私はその名前にひどく聞き覚えがあった。下の名前のほうだが。
「オズ君?」
「オズ君は死んだんです」
「オズ君だろう?」つい左手をとったが。
薬指にあるはずの指輪がない。
「ああ、これですか。死んだときに地獄に置いてきました」
何かの冗談だと思った。
「オズ君」
「名前も性別も変えました。戸籍だけじゃないですよ?」オズ君と同じ顔の男がベルトを外そうとする。
いやな予感しかしなかった。
止める理由は思いつかなかった。
実際に見たほうが早いと、そんな英断はオズ君にしか下せない。
性別なんかどうだっていい。
オズ君が帰ってきた。
きっと、本当に地獄から。
「離してください」オズ君にそっくりな男は、私の腕の中で身じろぎした。「部下に気づかれますよ」
「生きてたのか」
「だから、何度も言わせないで下さい。小頭梨英は死んだんです」
泣く権利は私にはない。
オズ君がいなくなっても、平然と仕事を続けていた私には。
言い訳をするなら、オズ君が死ぬわけがないと信じていた。
絶対に生きている。
私にはそう信じるに足る確信があった。
刑事の勘とはほど遠い。
ずっと傍にいたからこそわかる。
「君が誰だろうと構わないよ。オズ君じゃなくても、オズ君だったとしても」
嬉しいのか、悲しいのか、怒ってるのか、つらいのか。
全部だった。
あのとき先生の別宅にオズ君を連れていったときのことを思い出す。
絶対に離すな。先生にそう念押しされた。
そうか。
私が手を離したから、先生が所有権を奪ったのか。
所有権。ちがう。
私は、まだ返事ももらえていない。
もらえないまま、オズ君は死んでしまった。
私は未来永劫、オズ君からあのときの返答はもらえないことになる。
「お願いがあるんですけど」オズ君にそっくりの男が言う。「俺を対策課の課長に任じてください。今度こそヘマはしませんので」
殉職を、ヘマと言い張る。
あきれたを通り越して笑えてきた。
「何か変なこと言いましたか?」
「いや、別に」
オズ君だろう。
彼が(彼だ)そう呼ぶことを嫌がったとしても、私には、オズ君以外の呼び名を思いつけない。
だって小頭梨英をオズリエイと読み間違えたのは、他ならぬ私であり、ということは裏を返せば、オズリエイは私が彼に与えたプレゼントのようなものだから。
私にだけの特権だ。
それだけはせめて、残しておいてくれ。
「ところで今夜は空いてるだろうか」
「全然意味がわかんないんですけど」オズ君は心底嫌そうな顔をして部屋を出て行ってしまった。
ほらやっぱりオズ君じゃないか。
3
オズ君に部下ができたらしい。
しかもあろうことか、オズ君とそれなりに身体の付き合いがあるとかないとか。
殺していいだろうか。
4商
目隠しして手と脚を椅子に固定された姿勢で連れてこられたのは、山に囲まれた近代的な建物。
天井の高いちょっとした広さの部屋に、子どもが20人。
たぶん、私が一番年長。
ほとんどが男。
男の人が放送で状況を説明してくれた。
自分は小児科が専門の医師。
協力しても、たった一人で戦ってもいい。
要は最後にひとり、残ったものが勝ち。
最後に残った一人には、何でも願いを叶える権利を与える。
参加者というよりは、生贄に思えた。
だって、半数以上は説明が終わってからものの数分で肉の塊と化した。
だって、しょうがない。
私を見てたんだから。
残ったさらに半分は、私から逃げきれずに血まみれで動かなくなった。
あと何人?
内の一人が私に協力を申し出てきた。
もちろん断った。
私を見てたから。
眼玉を抉り出した。
残りの何人かは束になって私に襲いかかってきた。
みんなで寄ってたかって私を見るからだ。
眼玉なんかこの世からなくなればいいのに。
白い壁と床が真っ黒になった。
天井は高いからさすがになんともない。
拍手が聞こえた。
小児科医の男だ。
「おめでとう。君が勝者だよ」男は放送で喋った。
私に気を遣ってるのがわかった。
もしくは、私に殺されないため。
男は私の個人情報を知っている。
医者だからカルテか。
「言ってご覧。なんでも願いを叶えてあげるよ」男の声は優しかった。
「殺さないから出てきてください」
「それが願い?」
「こんな意味不明な殺し合いを計画した非人道的なお医者さんを見てみたいだけです」
男はしばらく黙っていたが、「ちょっと待っててね」と言って放送を切った。
エレベータが到着した。
ドアが開いた瞬間に切りかかろうと思った。
「僕を殺したら建物ごとドカンだよ。それでもいいなら」
「脅しは利きません」
男はメガネをかけていた。
挨拶代わりにメガネを吹っ飛ばした。
これで遮るものは何もない。
眼球一対。
「君の願いは僕が死ぬことかな」男はぎゅうと眼を閉じた。
あまりに拍子抜けで手を止めてしまった。
私の願い。
なんだろう。
願いなんか、願ったこともない。
「君はね」男は私と目線を合わせるために屈んだ。眼を瞑ったまま。「元いた世界では規格外なんだ。君の視線恐怖は、君をここまで追い詰めてしまった。君は今まで相手方を排除することで一時的な平穏を得ていたね。でもそれじゃあ限界がある。人間はこの世に何憶いると思う? それを全員殺すの? 途方もないよ。そんな労苦を重ねるより、もっといい方法がある。君はもうその方法を知ってる。僕は君に鎧をあげる。絶対に君は気に入るよ?」
鎧。
響きが気に入った。
男の名は、カナさんと言った。
カナさんは、私に鎧をくれた。
私を全人類の視線から守るための壁であり盾であり。
私の大好きなパンダの着ぐるみ。
「よく似合うよ」カナさんはそう言って笑った。「鎧も装備したところで僕から提案。僕はここでとある研究をしている。人手が足りなくてね。猫の手ならぬ、パンダの手も借りたいくらいなんだ」
「働けってことですか」
「働かざる者、てわけじゃないけど、何か仕事があったほうが君も過ごしやすいんじゃないかな。一日は24時間もあるんだ。何もしなかったら暇だよ」
「具体的には何を」
「事務の受付が欲しいんだ。この上の階にカウンタがあったでしょ? あそこに座ってお客さんの対応をしてくれるかな」
接客。
視線恐怖の私に接客をさせるのか。
「そう大変な仕事じゃないよ。大丈夫。お客さんなんか一年に一回来るか来ないかだから」
カナさんの言っていたことは本当だった。
客は一年に一回だけ。
20人の子どもたち。
私と同じだ。
毎年カナさんはこれを繰り返した。
最後に残った一人を殺すのが、私の役割だった。
カナさんは、そんな私を褒めてくれた。
人を殺したのに。
外の世界では絶対にあり得ない。
カナさんはこうも言った。
「僕は小児科医でしょ? 医者は命を救うのが仕事だ。命を奪うことはしてはいけない。君はね、僕に出来ないことを僕の代わりにやってくれてる。本当は僕が、最後の一人を処分しなきゃいけないんだけど」
処分。
そうか。
私たちは実験動物なんだ。
それで。
私をパンダにした。
「用が果たせなくなったら、私を処分してくれますか?」
私は知ってる。私だけが知ってる。
カナさんは、カナさんしか入れない部屋で患者を看ている。
患者。
カナさんは医者だ。
私は患者じゃない。
カナさんは私を見ていない。
私を見ていないなら私は、カナさんを殺す理由がない。
「それはできない」カナさんは首を振った。「君はここの受付で事務員で、なにより勝者だ。そして君のいまの仕事は、勝者を殺すこと。君がいなくなったら、僕が次の勝者を処分しなきゃいけない。ひどいことを言うようだけど、君が生きていて助かる人がここに一人いる。用が果たせなくならないように、してほしいな」
何年も何年も続けた。
何人も何十人も何百人も殺した。何百は言い過ぎかもしれないけど、もう数もまともに数えられない。
今日が何年何月の何日かもわからない。
わかったところでどうもしない。
私は自分の誕生日すら忘れてしまった。
そして、私は彼女に出会う。
あの眼に見られたい。
あの瞳に映してもらいたい。
潰したくない眼球を初めて見つけた。
事務の権限で彼女の個人情報を隅から隅まで熟読した。
偶然にも、彼女と同郷だった。
憧れの彼女と唯一ともいえる共通点があって、私は一人歓喜した。
願わくば彼女に生き残ってほしい。
そして、勝者となって私を殺してほしい。
殺す際に、その真っ黒の眼に私の穢れた眼を映して。
彼女の高笑いが聞こえる。
アハハハハハハハハハハハハハハハハハ。
私の唯一の友だちを思い出した。
おんなじように狂って嗤った白い友人。
彼はいまも、眼玉を集めているんだろうか。
眼玉がないだいじなお友だちのために。
5
夜の花見と称してオズ君を呼び出した。
メールの文面は、仕事があるとかないとか行くとも行かないともつかない曖昧な返答だったが、結局なんだかんだ言いつつ来てくれるのがオズ君のいいところだ。
県内随一の夜桜の名所。
宴会目当ての花見客が酒盛りしながら大騒ぎをしている密集地帯を回避し、比較的静かな敷地外れの池まで散策する。オズ君は終始ケータイと睨めっこをしていた。時折振り返ると、オズ君の顔が画面の明かりでぼんやりと照らし出され、昼間とは違う雰囲気がして新鮮だった。
いや、オズ君は夜のほうが馴染む。
初めて会ったとき、夜だったせいかもしれない。
日が暮れるとやや涼しい。天気も悪くないので月が見える。
「用があるんじゃないですか?」オズ君が言う。相変わらずケータイ画面を見ながら。
「店主からの呼び出しかな?」
「わかってるなら早くして下さい」
池の周りはぽつりぽつりとカップルが見える。若者が圧倒的に多い。
「オズ君は、徒村君のことをどう思っているんだね」
「結論をどうぞ?」オズ君は迷惑そうな顔を上げる。例え一瞬でもケータイから視線を奪えたのは僥倖。「ついでにその保護者みたいな言い回しは、いい加減うんざりなんですが」
「これを」コートのポケットから出した手の平サイズの包みをオズ君に渡した。
「え、なんです? これ」オズ君は私とプレゼントを見比べて言う。
「開けてくれ」
「池ポチャしたら怒ります?」オズ君は冗談を言いつつ、リボンを解いた。「て、開ける前からバレバレですけど?」
「君がオズ君じゃないならもう一度言ったほうがいいと思ったんだが、改めて聞いてくれないか」
オズ君は中身をじっと見て、私の顔を見た。
「私の生涯の伴侶になってほしい。生憎と結婚は叶わないが、一緒に暮らしてくれないか。初めて会ったときから、君のことしか考えられない。私には君が必要だ」
「で、要は?」
「君を愛してる」
「知ってますよ」オズ君が言う。ケースの蓋を閉じた。「知ってますって。で?また指輪ですか。いい加減にしてくださいよ」
オズ君の言い方には、聞き捨てならない感情がこもっているように感じられた。
迷惑。ちがう。
苛立ち。ちがう。
「まだ俺なんか好きでいてくれたんですか」
「どういう意味だろう」
「しつこいってことですよ」オズ君が転落防止の欄干に背中を預ける。「20年ですよ。20年もよくもまあ、わけのわからない、男か女かもわからない、いや俺的には男なんですけどね、まあとにかく、諦めが悪いって言ってるんです」
「遠回しに断られているのかな」
花弁が舞って池に落ちた。
斑点が浮かぶ。
闇色に、白の。
「駄目ということだろうか」
駄目元というより、一種のけじめにしようと思った。
オズ君が言うとおり、最初に出会ってから20年は経過している。
赤ん坊が成人してしまう。それくらい長い年月が経過した。
せめてこれだけははっきりさせておかないと、死ぬに死ねない。
この世の心残りというやつだ。
「近々死ぬ予定でも?」オズ君が乾いた声で言う。
なにか、感づいたか。
いや、そんなはずはない。
私にだってわからないんだから。
「返事を聞かせてくれないか」
「いまですか?」
「いま聞きたい」
オズ君はううん、と唸って前髪をいじった。
肩よりやや長めの髪を右耳の後ろで結わえてある。
私に呼び出されたので気を遣ったのか、女性の格好をしている。いや、女装なのはいつものことだから買い被りすぎか。
桜色のワンピースは膝丈。白のカーディガンを羽織っている。
「これ、前から聞こうと思ってたんですけど」オズ君が言う。「俺のどのあたりがそんなにお気に召してるんで?」
「眩しいところかな」
「は?」オズ君が素っ頓狂な声を上げる。「春の取り締まり月間かなんかで頭やられてません?」
「本気だよ。君は私にはとても眩しい」
オズ君が眉を寄せて池を見る。溜息も聞こえた。
「返事を聞かせてほしい」
「聞いたら心残りがなくなって死ぬんでしょう?」オズ君が言う。顔をこちらに向けて。「お見通しですよ。だから言いません。言ってなんかやらない。ご自分の職業わかってます? いつ死ぬともわからない危険職ナンバーワンですよ? 現に死んだ人だっている。死んでよくわかったんです。何かこの世に未練がないと、身一つで危険なことを平気でしちゃうんです」
言ってる意味はわかるし、筋が通っているように見えるが。
「20年待ったんだ。そろそろはっきりさせてくれないか」
私は、これを聞かないと今夜が終われない。
「好きか嫌いかだけでもいい。なにか、君からの言葉が」
私が距離を詰めたせいか、オズ君は半歩だけ引いた。
「すまない。驚かせるつもりじゃ」
「好きか嫌いかって言われたら」オズ君が言う。私の顎の辺りを見ながら。「嫌いじゃないですけど、好きかって聞かれたらよくわからないんです。やっぱり俺には、そうゆうの馴染まないみたいで」
「徒村君とは寝ているのにか?」
「それとこれとは」
「関係なくはないよ。ただの性欲処理の関係なのか、それとも」
ただの性欲処理の関係。自分で言っていて首を傾げたくなった。
「それ以上のものがあるのか?彼には」
「ムダくんのことはちょっとよけといてくれません?」オズ君が言う。「ちゃんと答えますから」
「わかった」
やや前のめりになっている。自分でもわかっている。
どうしても私は今日、オズ君から返答をもらわなければならない。
焦っている。
「指輪は素直に嬉しいですよ」オズ君がケースを開けて、いろいろな角度から検分する。薄暗い外灯じゃよく見えないだろう。「あのときもらった指輪、本当に地獄に置いてきちゃったんで。怒られると思ってたんですよね、実を言うと。でもあなたは怒るどころか、俺が生きてたことを喜んでくれた。あ、いや、死んだのは死んだんですけどね。て、ああもう、わけわかんなくなってきたじゃないですか。あなたのせいですよ? オズ君とか呼ぶから」
オズ君の視線が定まらない。
私は、その両手をとった。
「家に来てほしい」
「やっぱりそういう魂胆じゃないですか」
「茶化さないでくれ。私は本気だ」
オズ君が私を見上げる。
「だが行く前に返事は聞かせてほしい」
「誰も行くって言ってないじゃないですか」オズ君が言う。手は振り払わないでいてくれる。「本当の本当に、死ぬ予定ないんですね?」
「ないよ。君より先には逝かない」
「15歳も上ですよ?」
「なんとかするよ」
オズ君の指が、私の手の平をくすぐる。
「なんだい?」
「えっと、その」オズ君が言う。言いにくそうに。「荒種さん」
「はい」
「俺は、じゃないほうがいいですね、僕は」
「どちらでもいいよ。私はどちらでもオズ君だ」
オズ君は何か反論を言いたげだったが、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、そのですね、たぶん、あなたのことは、好きだと思います」オズ君の顔が徐々に緩む。笑っている。「ていうか、根負けです。だって、あり得ないでしょう? 20年ですよ? 20年前に当時のクソガキの僕拾って、当時というかいまも現役お巡りさんですけど、公務員が、未成年拾って、何するかと思ったら、そういう目的とかどうでもよくて、一目惚れしたからとか、ふざけるにもほどがあって。そんな莫迦います? いないでしょう? 淫行で捕まりますよ? なんで捕まってないんですか? そうゆうことを平気でしておいて、いまも、20年経ったいまも、まったくおんなじことを言ってる。こんなに変な人、他にいませんよ」
「君が好きだからだよ」
「またそういうことを平気で言う。そういうところが」
言い終わる前に口を塞いだ。
たぶん、怒られないと思った。
暗いので誰にも見えないし、拒否はされないと思いたかった。
オズ君の長い睫毛が見える。
口を離す。
「私の想いは成就したと思っていいかな」
「でしょうね」
「なんで不満そうなんだ?」
「別に」
「貸してくれ」オズ君からケースを受け取って。「手を」
「あなたのがないんですけど」
「私のは家に置いてきた」
「地獄じゃないから取りに行けますね」オズ君が指を私に向ける。
左手の薬指に指輪をはめた。
「ていうか、なんでサイズ知ってるんですか?」
「あのときから変わってないだろう?」
「まぁ、そうですけど」オズ君が手を開いたり閉じたりして指輪の感触を確かめる。「あのときのと似てる気がするんですけど?」
「気に入らなかっただろうか」
「なんでもいいです」
「ならよかった」
よかった。
オズ君に嫌われていない。
これでもう。
心残りは何もない。
オズ君は自宅まで付いてきてくれた。
このまま一緒に暮らせたらいいが。現実的に考えて、引越しの準備が要る。
「なんか変なこと企んでません?」歯磨きを終えたオズ君がベッドに戻ってきた。
「君のことしか考えてないよ」
「またそういうことを」
オズ君は夜中一緒にいてくれた。
空が明るくなってきた頃、急ぐから、と足早に帰ってしまった。
時間差でメールが届く。
次はご飯に誘ってください。とのこと。
食べたいものを考えておいてくれ。と返信してケータイをポケットに仕舞う。
さて。
約束の時間だ。
今日は休み。
休みの日をこちらから指定した。
場所は。
昨日桜を見た公園。
人通りはまだない。
やや霧がかかる。
視界が悪い。
白の気配。
「よお、ひっさしぶりー」
相手の姿は見えない。
でも確実に、向こうからは見えている。
「りえーちゃんに想いは届いたかよ?」
「余計なお世話だよ」
白い気配は、ひとしきり笑った後、私にこう言った。
「俺に殺される準備はできたぁ? おにーさん」
その少女には、
私を殺す正当な理由がある。