プロローグ
ぎゅっと握りあった掌から伝わってきた色は、ブラックホールをさらに塗りつぶしたかのような漆黒だった。
「もし手術が終わって、元気になれたならユリは、また海に行ってみたいな。小さい頃はよく一緒に遊びに行ったよね。視界一面に水があって、そこを泳ぐのってすごく気持ちよかったんだよ、純お兄ちゃん」
ベットに横たわりながら、僕の幼なじみ、黒瀬夕凜子はにっこりと笑いかけている。
でも、夕凜子の顔には生気は一切感じられない。
昔は艶やかだった日本人形のような黒髪も今はくすんでいる。
肌は直視するにも耐えがたいほど白く、爛々と輝いていたその瞳は、未来の夢を語っているのだというのに今にも泣き出してしまいそうだった。
最近は病院食も喉を通らないらしく、彼女の命をかろうじてつなぎ止めているのは右腕に刺さった管から伝わってくる点滴だけ。
その生命線とも言える右腕から僕はそっと手を離してく。
勇気を振り絞って、一縷の望みにすがるように夕凜子の手を握りしめたけど、そこに見えた色は、黒。
出会った時から少しずつ黒く染まり始めて行った彼女の色は、今終わりを迎えようとしていた。
「どうしたの、純お兄ちゃん? そんな泣きそうな顔しなくても大丈夫だって。明日のユリの手術は絶対に上手くいくんだよ。だから、そんな色なんて信じないで」
弱々しく微笑む夕凜子の顔をこれ以上見ていられなく、僕は背を向けた。僕が持つ特殊能力の意味を夕凜子も知っている。
顔には出さないようにしていたつもりだけど、幼なじみには隠しきれなかったみたいだ。
夕凜子に触れて見た色、漆黒。それが意味することは彼女の命はもう数日しか持たない。
もしかしたら、明日の手術中にその命を落としてしまうかもしれない。
「ごめん、夕凜子」
「ううん、純お兄ちゃんは何も悪くないよ。……誰も、悪くないんだよ。ただ、夕凜子の病気を治す技術がまだ世界にはない。それだけなんだよ」
僕の顔から、自分の命が長くない事を察しているはずなのに泣いたりせずに、それどころか僕を慰めてくれる。
そんな彼女の優しさを受け止めることがつらくて、そっと病室のドアに手をかけた。
「今日はもうここで帰るよ」
「うん。それじゃ、またね、純お兄ちゃん。次は一緒に海に行けると嬉しいな。純お兄ちゃんはカナヅチだけど、ユリが海に行けるようになったら、その時は、ちゃんと付き合ってよね」
背中越しに聞こえてくる声だけで彼女が笑っている事が容易に想像出来たけど、僕は振り返れずに、病室を後にした。
これが、僕と黒瀬夕凜子が触れ合った最後の時間だった。
風に乗った潮の香りが鼻腔をくすぐり、防波堤に波がぶつかる音が耳を通り抜けていく。
僕は性懲りも無くもう一度スマホに映し出された画面に目を落とす。
そこには淡々とした文字で、黒瀬夕凜子の手術が失敗して、彼女の僅か15年の人生が終わった事が告げられていた。
昨日、夕凜子の手を握り、彼女の色を見た時にこうなることは分かっていたというのに、いざ現実を突きつけられると何も出来なかった自分の不甲斐なさに、ただただ絶望するしかない。
「次は一緒に海に行けると嬉しいな」
夕凜子の最後の言葉に駆られるように、海にやってきて、一人防波堤の上から海を眺めているけど、気持ちのもやもやが晴れることはない。
視線を夕凜子の訃報を告げるスマホから自分の掌に移す。
僕は触れた人の死期が色で分かる。
この生まれ持った特殊能力は誰も救えない。
死期が分かった所でその人が死ぬ運命は変えることは出来ない。これはただ人から未来への希望を摘み取ることしか出来ない力だ。
僕の顔色を見て、夕凜子も手術が失敗することを悟ってしまったはずだ。
結果論だと分かっていても、少しでも生きることに希望を持っていた方が手術の成功率は高かったのではないか、そう思わずにはいられない。
「やっぱり、僕は誰かと触れ合うべきじゃないんだよな」
「いや、私達はそうは思いませんよ」
ぽつりと呟いた言葉は誰にも届かずに潮風に運ばれて、消えてしまうはずだった。
想定外に声のした方に振り向けば、ストラップ柄のスーツを着こなした長身の男性が防波堤の上を歩いて僕の方へ向かってきていた。
彫りの深い顔に、髪はオールバックで固められている。
「あなたは誰ですか?」
「君を救う者だよ。君の能力は埋もれるには惜しいからね。その力の使い方を私と一緒に探していこうじゃないか?」
見知らぬ彼は右手を差し出しながら僕に近づいてくる。
僕の死期予知能力を知っている人間は限られている。
両親にすら教えていないこの力を見ず知らずの人が知っていて、さらには協力を申し込んでくる。
そんな虫が良すぎる話あるわけがない。
「僕が嫌だと言ったら、どうしますか?」
「いいや、そんな事は言わせないよ」
名も知らぬ彼は左手をスーツの内ポケットに差し込んだ。
ガチャリと鈍い金属音が波音に混じって聞こえてきたかと思うと、その左手にはテレビではよく見るけど実物を見る機会なんて現実では一度も無いと思っていた拳銃が握りしめられていた。
銃口が真っ直ぐに僕を捕らえているのは、まるで悪い冗談のようだ。
「え?」
「安心してくれ。殺してしまってはどうしようもないからな。だが、君は右腕さえ残れば良く、両足で立っている必要は無い。返答次第では、今後の一生は車いす生活になることはあるかもしれないな」
撃鉄が引き下ろされ、銃口が下を向いた次の瞬間、甲高い音が鳴り響き防波堤の縁にいた鳥たちが一斉に空へと帰っていく。
僕の足下数センチ先には、防波堤のコンクリートが抉られて、硝煙が立ち上っている。
後ずさるしかない僕だけど、一本道の防波堤の上にいるんだ、僕の後ろはすぐに行き止まりになる。
三方向を海に囲まれ、残る一方向からは拳銃を持った男がゆっくりと迫ってくる。
「調べた所、君はカナヅチらしいな。なら海に逃げる事も出来ないだろう。結果が一緒なら、早く私と一緒に来る方が得策だと思うが、如何かな?」
死期予知能力の事と言い、僕がカナヅチで泳げないことと言い、彼は一体どこから僕の情報を仕入れているのだろう。
防波堤の縁ぎりぎりまで追い詰められた僕は、ストラップのスーツを着こなした彼をもう一度見る。
拳銃を向けてくるその殺気は本物で、このまま彼の言うことを聞かなければ死ぬまではなくても、無事には済まないだろうと確信できる迫力があふれ出していた。
まさに八方ふさがり。
彼の言うとおり残された選択肢は一つしかないみたいだ。
両手を挙げて、無抵抗の意を示す。
「お利口さんだ。さあ、車を待たせてあるから一緒に行こうか」
降伏した僕に対して彼はゆっくりと銃口を降ろした。
今だ!
僕はその隙を逃さず、すぐさま振り返る。
見えるのは防波堤の縁とその先に拡がる大海原。子供にプールでおぼれそうになったトラウマが蘇って足がすくみそうになるけど、躊躇っている暇なんてない。
「だあああああああああ!!」
大声を上げることで勇気を振り絞って、僕は防波堤から一気に海の中にダイブした。
僕は彼の言うとおりカナヅチで泳げない。
塩辛い水の中で必死にもがくけど、身体は全然浮かび上がらなくて、それどころか水を吸って重くなった衣服によってどんどんと沈んでいく。
海面から差し込む光に手を伸ばすけど、光に手が届くことはない。
夕凜子と一緒に過ごしてきた想い出が伸ばした手の先を駆け巡っていく。
どうして泳げもしないのに海の飛び込んだのかなんて後悔はない。
彼が何者かは分からないけど、この力が誰に利用される位なら僕は意地でも逃げてやるんだ。
これ以上、誰も幸せに出来ないこの力で、夕凜子みたいに生きようとしている人の希望を奪うなんて、まっぴらごめんなんだよ。
「ぼっこっ」
なんとか海面に浮き上がろうと身体に力を入れたのが失敗だった。
その反動で肺にためていた空気が一気にはき出してしまった。体中から酸素がなくなっていく。
視界がどんどんと狭まっていく。伸ばした手から力が抜け墜ちていく。
僕がもうすぐ死ぬ人の死期を見た時のような漆黒に頭が染まっていく中、僕が最後に見た光景は、天界から手をさしのべて僕を迎えに来てくれた薄緑色の羽を持つ天使の姿だった。