ある下級役人の話 資料
・難波津があったころの大阪の地形が今とだいぶ違うね。東京もそうだけど、内陸部にけっこう水がある。
・冒頭、削除した部分があって。
“その橋のたもとに寄りかかると、橋にくくりつけていた紐を引っ張る。
「お~冷えてうまそうだ」
昨日、市で買った甜瓜を川で冷やしていたのだ。
甘く熟した瓜をほおばりながら”
という部分を丸々カット。
なんでかっていうと、その時代は川をトイレにしてたっぽいから。
厠=川屋なんだって。
・長屋王邸は跡の解説看板だけしかないけど、その南にこの時代の庭園遺跡がある。(「平城京左京三条二坊宮跡庭園」)
少し前に、知人が「三重にある斎宮歴史博物館に行ってきたよー」って写真を送ってくれた。
*斎宮跡=斎王が住んだ宮跡。
*斎王=伊勢の神様に使える未婚の皇族女性。
それで気になって奈良時代の斎王を調べてみたら
長屋王の娘、円方女王が伊勢に行ってた。
斎王や斎宮も描いてみたかったけど……。
やっぱり現地に行ってみないと話が浮かばないので断念。
・「日本書記」の編纂を任された舎人親王の邸宅跡か?っていうニュースを11月だったかに見た。
場所は左京三条三坊って言ってた。
・平城京の復元図では藤原南家の仲麻呂邸もデカいんだけど、不比等の孫だから権勢を振るったのはもっと後の時代かな?と思ってあえて触れなかった。
ちなみに東大寺や法隆寺の献物帳のラストに仲麻呂のサインがしてある。
まるで子供のような字で「仲麻呂」って書いてあって
ちょっと可愛いと思ってしまった。
・復元図って大変なんだね。
どうやって昔の建物を再現してるんだろう?と調べると面白い。
奈良時代って遷都が多いけど、
大きな建物は移築してたそう。
大極殿とか。
貴族の邸宅の部材を寺が買い取って建築資材にした記録も残ってるそう。
その記録から貴族の邸宅復元図が作成されてる。
平城京は唐の長安って都市を参考にして造られてるので、復元においても参考にしてるんだけど、
大極殿については平安時代の「年中行事絵巻」に描かれた大極殿を主な参考にしてるらしい。
その形は藤原京から続いてるのだろうって推測。
なぜなら平城京の大極殿は前の宮から移築されたものだから。
・唐招提寺の講堂は平城宮の東の朝堂殿を移築したものだそう。
鎌倉時代に大部分改修されてるものの、奈良時代の面影を感じることができるらしい。
朝堂殿ていうのは高級役人が出勤後に衣服を整えた場所なんだって。
*はじめ朝堂院と勘違いして、仕事場だと思ってしまった。
朝堂殿→衣服などを整える場所。
朝堂院→12堂が並び、ここで政務を執り行う。
ちなみに主人公が住んでいたのは現在の殖槻町。(辺りを想定)
そこから朱雀門までは徒歩1時間くらい。
・写経生について。
採用試験があって、ほとんどの人が番上官という非常勤で出来高払いであったと「平城京再現」に載ってた。
平城京から出土した硯の形がユニークで可愛い。羊とか鳥の形とか。
資料は東大寺の写経生についてで、正倉院の古文書から発見されてる。
なので718年ごろの写経生はどうだったのかは不明。
(東大寺ができるずっと前の時代なので)
手作りの墨は、
なたね油を燃やして、上の傘についた煤を払い落して集めたものに“にかわ”を混ぜて手でこねたもの。
って友人からの情報。
・「古事記」(712年)が完成した翌年に、
「風土記」の編纂が諸国に命じられてる。(713年)
日本書記(正史)に漏れてしまった似たような伝説や異なる伝説を集めて古事記にしたのかな?と思ったんだけど。
そこからさらに“全国の伝説”に興味を持った「誰か」がいたんだろうね。
「風土記」は各地域の特産品だけでなく伝承(お爺さんお婆さんから語り継がれてるような話)も集めさせてる。
地方のことも知っておかなくては、っていう政治的意味合いがあるんだろうけど、
今では歴史的価値もある。
日本の全地域の風土記って写本しか残ってないんだね。
風土記を写した人たちがたくさんいたってことか。
平城京でも写す人いただろうし、原本を書いた方(各地域の国府)でも写本とってるかな。
自分の住んでる地域の文献だし、手元に置いておきたくなる。
というか始めからそういう命かもしれないね。
原本および複数の写本を都と国府で管理するっていう。
国府で働く下働きの人の話とか面白そうだけど、
謎が多すぎて想像もできない…。
旅行先でたまたま、再現されてた「不動倉」(貯蔵庫)は見たことある。
租税だけはいったん各地の「国衙=県庁」に納められて、飢饉に備えられたそう。
全国の国府跡をいつか見学してみたいなぁ。
・名前と役職のモデル。
下道由利=吉備由利
下道比呂=吉備真備
吉備真備の出自に下道氏とあったので。
他はフィクション。
史実では吉備真備は716年に遣唐使として日本を旅立っていて、717年に入唐している。
そのエピソードをフィクション化したもの「今昔物語」や「吉備大臣入唐絵巻」が現代に残ってて、
妖術使って鬼を使役するという陰陽師の祖として描かれている。
・平城京時代の中国は唐時代で
この時代の有名な書家は「顔真卿」。
書に興味ある知人曰く、政治家であり書家なんだって。
それは「王羲之」と同じ。
718年ころはまだ顔 真卿は子供なのか……。(少し図説を見せてもらった。顔真卿展の)
正倉院展の図説は買ったけど(通販で)、けっこう外国色強めだなぁと思った。
ペルシャとか唐とかインドとか。
音楽も楽器も舞いも海を渡ってきてる。
それが時を経て日本になじんでるんだね。
聖武天皇の直筆が見れるのは凄い。
(字が繊細だからそういう性質なのかな?て文章をよく見かける)
・国分寺・国分尼寺の造営は741年以降なので、この話の中には出てこないけど、興味があるので調べてみた。
大仏は743年に発願されてるけど、東大寺は全国の国分寺・国分尼寺を総括した寺で、総国分寺とも言うんだって。
正倉院は東大寺の宝物庫のようなもの?
昔から不思議だったんだけど、なぜ寺には宝物庫があるんだろう?
寺の宝物だから仏教系のものだけど、寄進物もあり、年月が経って歴史的価値もついて(国宝級とか)本当に宝物みたいになっていったのかな。
古い寺はタイムカプセルみたいなもんだね。
国分寺跡には七重の塔跡あり。(高さ60m級)
武蔵国分寺、讃岐国分寺、相模国分寺など。
国分寺は平安時代にはもう衰退してたみたいだけど、明治まで残ってたものもいくつかあったもよう。
最終的に「廃仏毀釈」で壊されたり廃寺になって現存していないのか……。
(国分寺跡として整備されている所はある)
*「国分寺 現存 廃仏毀釈」で検索。
明治期にけっこう仏像も壊されてるね。
外国人のフェノロサが守ってくれたんだっけ。
今じゃ国宝級の仏像とか。
「フェノロサ 廃仏毀釈」で調べると面白い。
資料ありがたいなぁと思う。
日々、遺跡や遺構や遺物、古い地層や古文書や文献など古い時代の暗号みたいなものと対話してる方々がたくさんいるんだよね。古今東西。
住んでる土地のこと調べてると景色が違って見える。
昔の人とのつながりを感じる。
畑の真ん中にぽつんとある古墳。
もしかしたら古い時代につながってるかもしれない、とか。(御先祖の1人?)
地方の古墳は埋葬者が不明なことが多いけど、
豪族→領主→武士とかになってそう。
野鳥保護区の近くって、土地がそのままのとこが多くて古墳も自然にあったりする。
その風景が原始的で懐かしいような不思議な感覚で。
奈良時代にも地方では古墳が作られてたから、
(埋葬者はこの土地の国府に勤めてた人だったりして?)なんて想像すると楽しかった。
参考資料:平城宮跡資料館、新潮社「平城京再現」監修:坪井清足(奈良国立文化財研究所)、Wikipedia、大阪歴史博物館、長屋王邸跡(奈良県ホームページ)、平城京左京三条二坊宮跡庭園、「日本の住まいの歴史」監修:小泉和子、著;家具道具室内史学会(ゆまに書房)、「正倉院の世界」(東京国立博物館ほか)、奈良県観光公式サイトより「天才陰陽師の系譜」